夜の雨は、音が小さい。
静かに窓を叩き、静かに線になって流れる。
静かだからこそ、息を殺した会話がよく似合う。
西条本社の最上階は、深夜でも明るかった。
廊下の照明は落とされず、警備の足音だけが遠くで反響する。
陸は会長室フロアの小会議室にいた。
城戸、神原、法務の八木が揃っている。
全員の顔が硬い。
硬いほど、“明日”が危ないことを示していた。
神原が机上に資料を置いた。
コピー用紙の角が揃いすぎていて、冷たい。
「明朝、週刊誌が出ます」
その一言で、空気がさらに重くなる。
陸は黙って頷いた。
頷くしかない。
止めようとしてきたのに、止まらなかった。
神原が続ける。
「内容は“破談”を煽る方向。
ホテル、同席、発表会の席、そして——“佐山不動産”の資金繰り」
その最後の単語で、陸の指先が冷たくなった。
佐山。
莉緒の家。
絶対に触らせないと決めた場所。
八木が低く言う。
「九条側が、意図的にリークした形です。
記事の裏取りは甘いが、断片は事実です。否定しづらい」
断片。
断片は莉緒を殺した。
そして明日、その断片が家まで刺しに来る。
陸は奥歯を噛みしめた。
「……止められないのか」
神原は一拍置いて答えた。
「止めようとしました。
しかし、今回は“出す”こと自体が目的です。
止めれば止めるほど、相手は“もっと大きい弾”を用意する」
火消しが火種になる。ずっと続いている構図。
城戸が静かに補足する。
「増田記者は、九条周辺からの情報提供者を得ています。
桐谷由香の線も濃い」
第34章の“金の影”が、ここで現実になる。
陸は机上の資料を見つめた。
記事の見出し案。
写真のレイアウト案。
文言の候補。
まるで、もう世間に配ることが決まっている商品のようだ。
(また、莉緒が殺される)
(今度は、家ごと)
陸の胸の奥で、怒りより先に恐怖が湧いた。
莉緒が壊れる恐怖。
佐山が潰れる恐怖。
そして、その原因に自分がなる恐怖。
八木が封筒を差し出した。
赤い角印。
ここまで陸を縛ってきた“言えない現実”。
「陸様。法的手段は取れます。
ただし……相手が出してくる“次”を考えると、今は——」
今は。
またその言葉。
その二文字が、陸にとっては“敗北の合図”になっていた。
陸は拳を握りしめた。
掌に爪が食い込み、痛い。
痛みがあるのに、頭は冷える。
「……莉緒には、知らせるな」
神原が頷く。
「はい。知らせれば記事の価値が上がります。
相手は“反応”を欲しがっている」
反応。
莉緒が怒れば、“嫉妬する婚約者”として消費される。
莉緒が泣けば、“捨てられた令嬢”として消費される。
——どちらも、麗奈の勝ちだ。
陸は息を吐いた。
息が震える。
震えるほど、自分が追い詰められている証拠。
「じゃあ、俺が出る」
城戸の目が僅かに動いた。
「陸様?」
陸は言った。
「明日、俺が全部被る。
——莉緒に触れさせない」
神原がすぐに計算を始める目になる。
「被る、とは?」
陸は、迷いなく言った。
「記事の矛先を、俺に向ける。
“御曹司のスキャンダル”で止める。
“婚約者が可哀想”の方向に行かせない」
神原は一瞬だけ黙り、冷静に答える。
「危険です。
貴方の評判が落ちれば、グループ全体に——」
「構わない」
陸は短く切った。
会長の論理ではない。
恋の論理だ。
「莉緒が壊れるよりマシだ」
その言葉を言った瞬間、陸は自分の中で何かが決まるのを感じた。
もう“黙って守る”だけでは間に合わない。
自分が壊れてでも、守る。
八木が低く言った。
「九条側は、貴方が動くことを待っています。
貴方が表に出れば、“佐山”から“西条”へ焦点をずらせる。
ただし——九条の条件が追加される可能性があります」
条件。
麗奈の小声が蘇る。
『佐山家を守りたいなら、私を切り捨てないでください』
陸は目を閉じた。
目を閉じた瞼の裏に、莉緒の顔が浮かぶ。
宣言の夜の背中。
「幸せのために離れます」と言った声。
(離れるな)
(離れさせない)
(もう、遅いかもしれないけど)
陸が目を開けたとき、声は低くなっていた。
「……九条は、俺が受ける」
城戸が一瞬だけ息を呑む。
「陸様、それは——」
「佐山に触れさせない。
莉緒に触れさせない。
そのためなら、俺が悪者でいい」
悪者でいい。
その覚悟は、優しさの形をしているようで、自己罰でもある。
陸は自分を罰している。
言えなかったことの罰。
守るための沈黙で傷つけた罰。
——同じ夜。
九条邸のサロンは、暖かい照明に包まれていた。
麗奈はソファに腰掛け、指先でグラスの縁をなぞっていた。
表情は穏やか。
でも目は冷えている。
目の前には、増田記者。
隣には、相馬コンサル。
少し離れた場所に、桐谷由香が座り、指先でスマートフォンを弄っている。
「明日、出ます」
増田が言う。
麗奈は微笑んで頷いた。
ただの確認のように。
「ありがとうございます。
ただ、お願いがあります」
お願い。
お願いの形をした命令。
「“婚約者が可哀想”に寄せすぎないでください。
莉緒さんは……弱く見せたくないでしょうから」
善意の言葉。
相手を気遣う言葉。
それが、いちばん残酷だった。
相馬が静かに言う。
「西条側は動きます。
陸様は——被る覚悟でしょう」
麗奈は微笑みを深くする。
「ええ。陸さまは責任感が強い方ですもの」
褒め言葉の鎖。
「だからこそ、こちらは“次”を用意するだけでいい」
増田が首を傾げる。
「次、とは?」
麗奈はゆっくり言った。
「佐山不動産の件を、ほんの少しだけ。
噂程度に。
——でも“火種”にはなる」
火種。
火消しが火種になる構図を、麗奈は理解している。
「火が大きくなれば、陸さまはもっと焦る。
焦れば、言えないことを口にする。
口にしたら——こちらが握れる」
握れる。
その言葉は、勝利の言葉なのに、声のトーンは変わらない。
勝ち誇らないことが、彼女の怖さだ。
桐谷由香が軽い声で笑った。
「すごいね、麗奈様。
でも、佐山さま可哀想〜」
“可哀想”。
それは人を殺す言葉だ。
麗奈は微笑んだ。
「可哀想だからこそ、終わらせてあげるの」
善意の毒。
最終形。
——同じ夜、莉緒は自室で窓を見ていた。
雨がまた降り始める。
針みたいな雨が、ガラスを叩く。
陸の覚悟も、麗奈の準備も、莉緒は知らない。
でも、胸の奥がざわつく。
誰かが自分の人生を“明日の記事”に変える準備をしている気配がする。
そしてその前夜、陸は決めた。
明日、全部を被る。
莉緒を守るために。
——たとえ莉緒に、嫌われても。
静かに窓を叩き、静かに線になって流れる。
静かだからこそ、息を殺した会話がよく似合う。
西条本社の最上階は、深夜でも明るかった。
廊下の照明は落とされず、警備の足音だけが遠くで反響する。
陸は会長室フロアの小会議室にいた。
城戸、神原、法務の八木が揃っている。
全員の顔が硬い。
硬いほど、“明日”が危ないことを示していた。
神原が机上に資料を置いた。
コピー用紙の角が揃いすぎていて、冷たい。
「明朝、週刊誌が出ます」
その一言で、空気がさらに重くなる。
陸は黙って頷いた。
頷くしかない。
止めようとしてきたのに、止まらなかった。
神原が続ける。
「内容は“破談”を煽る方向。
ホテル、同席、発表会の席、そして——“佐山不動産”の資金繰り」
その最後の単語で、陸の指先が冷たくなった。
佐山。
莉緒の家。
絶対に触らせないと決めた場所。
八木が低く言う。
「九条側が、意図的にリークした形です。
記事の裏取りは甘いが、断片は事実です。否定しづらい」
断片。
断片は莉緒を殺した。
そして明日、その断片が家まで刺しに来る。
陸は奥歯を噛みしめた。
「……止められないのか」
神原は一拍置いて答えた。
「止めようとしました。
しかし、今回は“出す”こと自体が目的です。
止めれば止めるほど、相手は“もっと大きい弾”を用意する」
火消しが火種になる。ずっと続いている構図。
城戸が静かに補足する。
「増田記者は、九条周辺からの情報提供者を得ています。
桐谷由香の線も濃い」
第34章の“金の影”が、ここで現実になる。
陸は机上の資料を見つめた。
記事の見出し案。
写真のレイアウト案。
文言の候補。
まるで、もう世間に配ることが決まっている商品のようだ。
(また、莉緒が殺される)
(今度は、家ごと)
陸の胸の奥で、怒りより先に恐怖が湧いた。
莉緒が壊れる恐怖。
佐山が潰れる恐怖。
そして、その原因に自分がなる恐怖。
八木が封筒を差し出した。
赤い角印。
ここまで陸を縛ってきた“言えない現実”。
「陸様。法的手段は取れます。
ただし……相手が出してくる“次”を考えると、今は——」
今は。
またその言葉。
その二文字が、陸にとっては“敗北の合図”になっていた。
陸は拳を握りしめた。
掌に爪が食い込み、痛い。
痛みがあるのに、頭は冷える。
「……莉緒には、知らせるな」
神原が頷く。
「はい。知らせれば記事の価値が上がります。
相手は“反応”を欲しがっている」
反応。
莉緒が怒れば、“嫉妬する婚約者”として消費される。
莉緒が泣けば、“捨てられた令嬢”として消費される。
——どちらも、麗奈の勝ちだ。
陸は息を吐いた。
息が震える。
震えるほど、自分が追い詰められている証拠。
「じゃあ、俺が出る」
城戸の目が僅かに動いた。
「陸様?」
陸は言った。
「明日、俺が全部被る。
——莉緒に触れさせない」
神原がすぐに計算を始める目になる。
「被る、とは?」
陸は、迷いなく言った。
「記事の矛先を、俺に向ける。
“御曹司のスキャンダル”で止める。
“婚約者が可哀想”の方向に行かせない」
神原は一瞬だけ黙り、冷静に答える。
「危険です。
貴方の評判が落ちれば、グループ全体に——」
「構わない」
陸は短く切った。
会長の論理ではない。
恋の論理だ。
「莉緒が壊れるよりマシだ」
その言葉を言った瞬間、陸は自分の中で何かが決まるのを感じた。
もう“黙って守る”だけでは間に合わない。
自分が壊れてでも、守る。
八木が低く言った。
「九条側は、貴方が動くことを待っています。
貴方が表に出れば、“佐山”から“西条”へ焦点をずらせる。
ただし——九条の条件が追加される可能性があります」
条件。
麗奈の小声が蘇る。
『佐山家を守りたいなら、私を切り捨てないでください』
陸は目を閉じた。
目を閉じた瞼の裏に、莉緒の顔が浮かぶ。
宣言の夜の背中。
「幸せのために離れます」と言った声。
(離れるな)
(離れさせない)
(もう、遅いかもしれないけど)
陸が目を開けたとき、声は低くなっていた。
「……九条は、俺が受ける」
城戸が一瞬だけ息を呑む。
「陸様、それは——」
「佐山に触れさせない。
莉緒に触れさせない。
そのためなら、俺が悪者でいい」
悪者でいい。
その覚悟は、優しさの形をしているようで、自己罰でもある。
陸は自分を罰している。
言えなかったことの罰。
守るための沈黙で傷つけた罰。
——同じ夜。
九条邸のサロンは、暖かい照明に包まれていた。
麗奈はソファに腰掛け、指先でグラスの縁をなぞっていた。
表情は穏やか。
でも目は冷えている。
目の前には、増田記者。
隣には、相馬コンサル。
少し離れた場所に、桐谷由香が座り、指先でスマートフォンを弄っている。
「明日、出ます」
増田が言う。
麗奈は微笑んで頷いた。
ただの確認のように。
「ありがとうございます。
ただ、お願いがあります」
お願い。
お願いの形をした命令。
「“婚約者が可哀想”に寄せすぎないでください。
莉緒さんは……弱く見せたくないでしょうから」
善意の言葉。
相手を気遣う言葉。
それが、いちばん残酷だった。
相馬が静かに言う。
「西条側は動きます。
陸様は——被る覚悟でしょう」
麗奈は微笑みを深くする。
「ええ。陸さまは責任感が強い方ですもの」
褒め言葉の鎖。
「だからこそ、こちらは“次”を用意するだけでいい」
増田が首を傾げる。
「次、とは?」
麗奈はゆっくり言った。
「佐山不動産の件を、ほんの少しだけ。
噂程度に。
——でも“火種”にはなる」
火種。
火消しが火種になる構図を、麗奈は理解している。
「火が大きくなれば、陸さまはもっと焦る。
焦れば、言えないことを口にする。
口にしたら——こちらが握れる」
握れる。
その言葉は、勝利の言葉なのに、声のトーンは変わらない。
勝ち誇らないことが、彼女の怖さだ。
桐谷由香が軽い声で笑った。
「すごいね、麗奈様。
でも、佐山さま可哀想〜」
“可哀想”。
それは人を殺す言葉だ。
麗奈は微笑んだ。
「可哀想だからこそ、終わらせてあげるの」
善意の毒。
最終形。
——同じ夜、莉緒は自室で窓を見ていた。
雨がまた降り始める。
針みたいな雨が、ガラスを叩く。
陸の覚悟も、麗奈の準備も、莉緒は知らない。
でも、胸の奥がざわつく。
誰かが自分の人生を“明日の記事”に変える準備をしている気配がする。
そしてその前夜、陸は決めた。
明日、全部を被る。
莉緒を守るために。
——たとえ莉緒に、嫌われても。

