幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 雨上がりの空は、やけに澄んでいた。
 澄んでいるほど、汚れは目立つ。
 莉緒は車の窓から流れる街の光を見ながら、ホテル支配人・白石の言葉を反芻していた。

 ——意図的に切り取られた角度。
 ——緊急対応としての動き。
 ——防犯記録は法務照会で。

 “裏切り”だと思い込んでいたものが、別の形に見え始める。
 見え始めた途端、胸の奥が熱くなる。
 安心ではない。
 悔しさだ。

(私は、噂と善意で殺されかけた)
(陸は、言えないことで私を殺した)
(そして麗奈は——)

 言葉にならない感情が、喉の奥で痛い。

 佐山邸に戻ると、玄関ホールで母が待っていた。
 いつもなら「おかえり」と言う声が、今日は少しだけ慎重だった。

「……どうだった?」

 莉緒はコートのボタンを外しながら、短く答えた。

「……繋がった」

 母の目が揺れる。
 揺れて、すぐに何も聞かない顔に戻る。
 聞けば、莉緒が崩れると知っているから。

 自室に戻り、机の上にメモを並べた。
 隼人の紙片。
 ホテルの部屋番号。
 白石の言葉の記憶。

 ここまで揃っても、まだ“決定的な証拠”ではない。
 証拠がないから、世間は噂で人を殺す。
証拠がないから、麗奈は善意の仮面で人を刺せる。

 ——そのとき、スマートフォンが震えた。
 メッセージではない。着信。

 表示された名前に、莉緒の呼吸が止まる。

【一条 隼人】

 莉緒は一拍迷ってから通話に出た。

「……もしもし」

『今、話せるか』

 隼人の声は短い。
 余計な前置きをしない声。
 だから怖い。

「うん。大丈夫」

『“大丈夫”じゃない声だな』

 隼人の指摘は鋭い。
 でも責めない。
 責めないから、莉緒は逃げないでいられる。

「……何か、掴んだの?」

『掴んだ。確定じゃない。けど、匂いが濃い』

 匂い。
 その言葉が、麗奈の香りと重なって胸が痛む。

『九条の取り巻き、桐谷由香の周りに金が動いてる』

 金。
 その単語で、世界が一段冷える。

「……金?」

『“写真”の話をしてたやつがいる。
 それと、週刊誌の記者——増田の名前が出てきた』

全部が一本の糸で繋がり始める。

 莉緒の胸の奥が、どくんと鳴った。

「……麗奈が、記事を?」

『麗奈本人が動いてるかは分からない。でも、周りは動いてる。
 あと——』

 隼人が少し間を置いた。
 言葉を選ぶ間。
 この間は、いつも現実を運んでくる。

『佐山不動産。
 銀行筋に、九条の名前がチラついてる』

 莉緒の指先が冷たくなる。
 父の書斎で聞いた「西条の案件が繋げる」という言葉。
 陸の「佐山には触らせるな」という会話。
 全部が、金の匂いに変わる。

(私の婚約は、恋じゃないと決めた)
(でも、恋じゃないだけで終わらない)
(誰かが、家まで壊そうとしてる)

 莉緒の喉が痛む。

「……どうして分かったの」

『知り合いの金融関係者がいる。
 それと、俺のところに“相談”が来た。
 “佐山が危ない”って。
 話の出どころを辿ると、九条の周辺に行き着く』

 隼人の声が少しだけ硬くなる。
 怒りではない。
 危機感だ。

『莉緒、これ“恋愛の拗れ”じゃない』

 その一言が、胸に刺さった。
 刺さって、同時に目が覚める。

 麗奈の善意は、ただの性格の悪さじゃない。
 目的がある。
 目的のために、“事故”を作る。
“噂”を走らせる。
“金”を動かす。

 ——そういう匂い。

 莉緒は小さく息を吐いた。

「……私、ホテルに行った」

『知ってる。黒川から聞いた』

 黒川。
 無言の目撃者。
 伏線がまた効く。

『で?』

 隼人の問いは短い。
 でも、莉緒の中で何かが動く。

「部屋番号の部屋は、九条家関係者が使ってたって。
 緊急対応の記録が多いって。
 交際の事実は確認されてないって」

『……やっぱりな』

 隼人は短く呟く。
 確信に近い声。

『莉緒、俺からもう一つ。
 九条の“金の流れ”、具体的に追えるかもしれない』

「どうやって?」

『桐谷由香。
 あいつ、最近急に羽振りがいい。
 ブランドと旅行と、謎の寄付。
 金の出どころは隠せても、使い方は隠せない』

 使い方。
 確かにそうだ。
 麗奈は自分の手を汚さない。
 汚すのは取り巻き。
 取り巻きは派手になる。
派手になれば、ほころびる。

 莉緒はメモを握りしめた。
 紙が少しだけ皺になる。
 皺の数だけ、怒りが形になる。

(私は、善意の仮面に怒れなかった)
(でも、今なら怒れるかもしれない)
(怒りは、私を守る)

 そのとき、部屋の扉がノックされた。
 母だ。

「莉緒、陸さんから連絡が——」

 “陸さん”という呼び方が、胸に小さな波を立てる。
 嫌いになれない。
 だからこそ危険だ。

 莉緒は通話を続けたまま、母に言った。

「……少し待って。今、大事な話をしてる」

 母が一瞬驚いた顔をして、すぐに頷いた。
 莉緒が“自分の意思”で動いていることに気づいた顔。

 隼人が言った。

『陸には、まだ言うな。
 言ったら九条はもっと動く。
 でも、陸ももう限界だ。
 だから——早めに決めろ。
 どっちの手を取るかじゃない。
 “事実”を取れ』

 事実。
 その言葉が、莉緒の中で響く。

 莉緒は小さく頷いた。
 電話越しでも、隼人には分かるように。

「……分かった」

『じゃあ、俺も動く。
 桐谷と増田の線、もう少し追う』

「ありがとう」

『礼はいらない。
 お前が壊れるの、見たくないだけだ』

 ぶっきらぼうで、優しい。
 隼人らしい言葉。

 通話が切れる。
 部屋が静かになる。
 静かなのに、莉緒の中は騒がしい。

 母がそっと入ってきた。

「陸さんが、会いたいって」

 会いたい。
陸の言葉を、莉緒はまだ信じ切れない。
 でも今、莉緒の中には別の感情がある。

 ——怒り。
 ——悔しさ。
 ——そして、真実を求める意志。

 莉緒は母を見て言った。

「……会う」

 母の目が揺れる。

「大丈夫?」

 莉緒は初めて、“大丈夫”じゃない返事をした。

「大丈夫じゃない。
 でも、進める」

 その言葉は、莉緒が“自分の物語”を取り戻し始めた合図だった。

 でも確かに、“影”が伸びている。
 金の匂い、不正の線、週刊誌の気配。
 善意の毒の裏側に、現実の毒がある。

 次の章で、その毒は“前夜”として形になる。
 麗奈は記事を打つ準備を進め、陸は全てを被る覚悟を固める。