雨は、夜明け前に止んでいた。
濡れた窓ガラスに残った水滴が、朝の薄い光を受けて小さく光る。
止んだのに、心の中の雨だけが止まらない。
莉緒はよく眠れなかった。
眠れないのは、悲しいからではない。
決めたことを、身体がまだ受け入れていないからだ。
(陸様の幸せのために、私は離れます)
自分の声が耳の奥で反響する。
綺麗な言葉。
綺麗だからこそ残酷な言葉。
ベッドを抜け出し、机の引き出しを開ける。
そこにしまった隼人のメモ。
昨夜までは「見ない」と決めていた。
見たら、心が揺れる。
揺れたら、宣言が壊れる。
でも今朝は、揺れてもいいと思った。
壊れてもいいと思った。
壊したくて宣言したのではなく、壊れないために宣言したのだと、ようやく自分で理解したから。
莉緒はメモを取り出し、もう一枚の紙を広げた。
——ホテルの部屋番号。
数字は無機質なのに、胸を刺す。
数字は嘘をつかない。
嘘をつかないから怖い。
(ここが、鍵)
隼人が言った。
“確かめろって意味じゃない。繋がる鍵になる”と。
莉緒は深呼吸をした。
息が浅い。
でも、決める。
——確かめる。
陸を責めるためではない。
麗奈を糾弾するためでもない。
ただ、自分の人生を“噂”に殺されないために。
午前中、莉緒は母に「用事がある」とだけ告げて家を出た。
母は何も聞かなかった。
聞かないことで、莉緒の決意を守ってくれる。
黒川が運転席で言う。
「お嬢さま、どちらへ」
莉緒は一拍だけ迷ってから、答えた。
「……ホテルへ」
黒川の背中が僅かに固くなる。
“あのホテル”を連想するのは当然だ。
けれど黒川は何も言わず、静かに頷いた。
名門ホテルのロビーは、昼でも眩しかった。
大理石の床。花の香り。控えめなピアノの音。
その全てが、第2章の雨の日の記憶を引きずり出す。
莉緒は受付ではなく、コンシェルジュデスクへ向かった。
その途中で、天井の黒いドーム型カメラが目に入る。
第2章で仕込んだ伏線。
——ここには記録が残る。
(記録があるなら、嘘じゃない)
ドレスではなく、地味なコート。
でも姿勢だけは令嬢のまま。
弱さを見せたら、ここでは負ける。
「失礼いたします」
莉緒が声をかけると、コンシェルジュが微笑んだ。
「いらっしゃいませ。ご用件を伺います」
莉緒はメモを握りしめたまま、言葉を選んだ。
“陸と麗奈”を出せば、噂の匂いがする。
噂の匂いがすれば、警戒される。
だから、事務的に。
「こちらのホテルで、先日——予約に関する確認をしたいのですが」
コンシェルジュが首を傾げる。
「ご予約名は」
そこが、壁だった。
莉緒は予約名を知らない。
知っていたら、最初から崩れている。
莉緒は喉の奥で息を押し込み、静かに言った。
「……私は、佐山不動産の佐山莉緒と申します。西条グループの関係で、確認が必要なことがありまして」
西条の名を出すと、空気が変わる。
コンシェルジュの笑みは崩れないが、目が少しだけ慎重になる。
“社名”は鍵になる。
「少々お待ちくださいませ」
案内されたのは、ロビー奥の小さな応接スペースだった。
ガラス越しに庭が見える。
木々が揺れている。
揺れているのに、莉緒の胸は揺れない。揺れないように固めている。
数分後、スーツ姿の男性が現れた。
支配人だろう。背筋が正しく、声が丁寧すぎる。
「佐山様。ホテル総支配人の白石でございます」
白石。
この名前が出た瞬間、メモの数字が現実へ繋がった気がした。
——鍵が回った。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
莉緒はメモを取り出し、白石に見せた。
部屋番号だけ。
名前も日付も書かれていない。
それでも白石の目が一瞬だけ動いた。
「……こちらは」
莉緒は言った。
「この部屋に関する、記録の確認をしたいのです。
先日、こちらのホテルのロビーで問題が起きたと伺いました」
“問題”という単語は便利だ。
恋愛の匂いを消せる。
白石は一拍置き、慎重に言った。
「個人情報の観点から、詳細は——」
「承知しています」
莉緒は遮らず、しかし引かない声で続けた。
「ただ、私の家に関わる問題でもあります。
そして……西条グループにも関わる」
白石の目がさらに慎重になる。
ホテルは噂を嫌う。
企業の名前が出るほど、守るべきものが増える。
白石は低く言った。
「……どこまで、把握されておりますか」
その問いは、確認だった。
こちらがどれほど知っているかで、渡せる情報が変わる。
莉緒は正直に言った。
嘘を混ぜたら、鍵は壊れる。
「私は、何も知りません。
だからこそ、事実だけが欲しいのです」
白石は沈黙し、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。
ただし、こちらからお伝えできるのは“ホテル側として把握している事実”のみです」
事実。
莉緒の胸が、きゅっと痛む。
痛むのに、目は逸らさない。
白石は、静かに言った。
「その部屋は、先日、九条家の関係者が使用しておりました」
「当日、体調不良を訴えたお客様が出ており、スタッフが対応しております」
「また、廊下で騒ぎがあり——その際、同席していた男性が対応に入った記録があります」
同席していた男性。
名前を出さない言い方が、逆に現実を突きつける。
(陸だ)
莉緒は喉の奥で息を止めた。
それでも、白石は続けた。
「ただし、こちらの記録上、部屋の中で“交際を示す事実”は確認されておりません」
「むしろ——緊急対応としての動きが多い」
緊急対応。
麗奈の「助けていただいて」と繋がる。
“善意の毒”の正体が、少しだけ剥がれた気がした。
莉緒は震える指先を膝の上で握りしめた。
「……騒ぎとは、何ですか」
白石は一瞬迷ってから言う。
「詳細は控えますが、第三者が関わる可能性がありました。
そのため、当ホテルでは一時的に防犯記録の確認を行っております」
防犯記録。
カメラ。
伏線Cが、ここで効く。
(映像がある)
莉緒の心臓が早くなる。
でも、早くなるほど、冷静になろうとする。
「その記録は……見られますか」
白石は首を振った。
「一般のお客様にお見せすることはできません。
ただし、正式な手続きがあれば——」
正式な手続き。
つまり、法務。
つまり、陸が言えなかった理由に繋がる。
白石はさらに言った。
「西条グループの法務担当から正式な照会が入れば、当ホテルとしても対応可能です」
法務。
赤い角印。
ずっと机上に見えていた“言えない封筒”。
莉緒の胸の中で、点が線になり始める。
(陸は、隠していた)
(でも、守っていた?)
(少なくとも——裏切りの形じゃない)
そこへ、白石がもう一つだけ付け加えた。
「当日、ロビーで撮影された写真が流出しておりますが、あれは“意図的に切り取られた角度”に見えます」
「スタッフの証言としては、男性は女性を支えるために動いていた」
意図的。
切り取られた角度。
それは、麗奈の“事故”と一致する。
莉緒の喉が熱くなった。
涙ではない。
怒りとも違う。
——悔しさだ。
(私は、あの角度で殺された)
(嘘じゃない善意で、口を塞がれた)
莉緒は立ち上がり、頭を下げた。
「……ありがとうございました」
白石は深く礼を返した。
「どうか、ご自身を責めないでください。
噂は、事実より速く走ります」
その言葉が、胸に刺さる。
責めないで、と言われるほど、自分を責めてしまう。
ホテルを出ると、外の空気が冷たかった。
雨上がりの匂い。
濡れた石の匂い。
息が少しだけ入りやすい。
車に乗り込むと、黒川が静かに言った。
「……お嬢さま」
何か言いかけて、やめる。
言わない優しさ。
莉緒は窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「……私、知らないまま終わらせようとしてた」
破談は、綺麗な逃げ道だと思っていた。
でも、綺麗な逃げ道は、真実を置き去りにする。
莉緒の手の中には、今、鍵がある。
部屋番号。
支配人の言葉。
防犯記録という“線”。
濡れた窓ガラスに残った水滴が、朝の薄い光を受けて小さく光る。
止んだのに、心の中の雨だけが止まらない。
莉緒はよく眠れなかった。
眠れないのは、悲しいからではない。
決めたことを、身体がまだ受け入れていないからだ。
(陸様の幸せのために、私は離れます)
自分の声が耳の奥で反響する。
綺麗な言葉。
綺麗だからこそ残酷な言葉。
ベッドを抜け出し、机の引き出しを開ける。
そこにしまった隼人のメモ。
昨夜までは「見ない」と決めていた。
見たら、心が揺れる。
揺れたら、宣言が壊れる。
でも今朝は、揺れてもいいと思った。
壊れてもいいと思った。
壊したくて宣言したのではなく、壊れないために宣言したのだと、ようやく自分で理解したから。
莉緒はメモを取り出し、もう一枚の紙を広げた。
——ホテルの部屋番号。
数字は無機質なのに、胸を刺す。
数字は嘘をつかない。
嘘をつかないから怖い。
(ここが、鍵)
隼人が言った。
“確かめろって意味じゃない。繋がる鍵になる”と。
莉緒は深呼吸をした。
息が浅い。
でも、決める。
——確かめる。
陸を責めるためではない。
麗奈を糾弾するためでもない。
ただ、自分の人生を“噂”に殺されないために。
午前中、莉緒は母に「用事がある」とだけ告げて家を出た。
母は何も聞かなかった。
聞かないことで、莉緒の決意を守ってくれる。
黒川が運転席で言う。
「お嬢さま、どちらへ」
莉緒は一拍だけ迷ってから、答えた。
「……ホテルへ」
黒川の背中が僅かに固くなる。
“あのホテル”を連想するのは当然だ。
けれど黒川は何も言わず、静かに頷いた。
名門ホテルのロビーは、昼でも眩しかった。
大理石の床。花の香り。控えめなピアノの音。
その全てが、第2章の雨の日の記憶を引きずり出す。
莉緒は受付ではなく、コンシェルジュデスクへ向かった。
その途中で、天井の黒いドーム型カメラが目に入る。
第2章で仕込んだ伏線。
——ここには記録が残る。
(記録があるなら、嘘じゃない)
ドレスではなく、地味なコート。
でも姿勢だけは令嬢のまま。
弱さを見せたら、ここでは負ける。
「失礼いたします」
莉緒が声をかけると、コンシェルジュが微笑んだ。
「いらっしゃいませ。ご用件を伺います」
莉緒はメモを握りしめたまま、言葉を選んだ。
“陸と麗奈”を出せば、噂の匂いがする。
噂の匂いがすれば、警戒される。
だから、事務的に。
「こちらのホテルで、先日——予約に関する確認をしたいのですが」
コンシェルジュが首を傾げる。
「ご予約名は」
そこが、壁だった。
莉緒は予約名を知らない。
知っていたら、最初から崩れている。
莉緒は喉の奥で息を押し込み、静かに言った。
「……私は、佐山不動産の佐山莉緒と申します。西条グループの関係で、確認が必要なことがありまして」
西条の名を出すと、空気が変わる。
コンシェルジュの笑みは崩れないが、目が少しだけ慎重になる。
“社名”は鍵になる。
「少々お待ちくださいませ」
案内されたのは、ロビー奥の小さな応接スペースだった。
ガラス越しに庭が見える。
木々が揺れている。
揺れているのに、莉緒の胸は揺れない。揺れないように固めている。
数分後、スーツ姿の男性が現れた。
支配人だろう。背筋が正しく、声が丁寧すぎる。
「佐山様。ホテル総支配人の白石でございます」
白石。
この名前が出た瞬間、メモの数字が現実へ繋がった気がした。
——鍵が回った。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
莉緒はメモを取り出し、白石に見せた。
部屋番号だけ。
名前も日付も書かれていない。
それでも白石の目が一瞬だけ動いた。
「……こちらは」
莉緒は言った。
「この部屋に関する、記録の確認をしたいのです。
先日、こちらのホテルのロビーで問題が起きたと伺いました」
“問題”という単語は便利だ。
恋愛の匂いを消せる。
白石は一拍置き、慎重に言った。
「個人情報の観点から、詳細は——」
「承知しています」
莉緒は遮らず、しかし引かない声で続けた。
「ただ、私の家に関わる問題でもあります。
そして……西条グループにも関わる」
白石の目がさらに慎重になる。
ホテルは噂を嫌う。
企業の名前が出るほど、守るべきものが増える。
白石は低く言った。
「……どこまで、把握されておりますか」
その問いは、確認だった。
こちらがどれほど知っているかで、渡せる情報が変わる。
莉緒は正直に言った。
嘘を混ぜたら、鍵は壊れる。
「私は、何も知りません。
だからこそ、事実だけが欲しいのです」
白石は沈黙し、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。
ただし、こちらからお伝えできるのは“ホテル側として把握している事実”のみです」
事実。
莉緒の胸が、きゅっと痛む。
痛むのに、目は逸らさない。
白石は、静かに言った。
「その部屋は、先日、九条家の関係者が使用しておりました」
「当日、体調不良を訴えたお客様が出ており、スタッフが対応しております」
「また、廊下で騒ぎがあり——その際、同席していた男性が対応に入った記録があります」
同席していた男性。
名前を出さない言い方が、逆に現実を突きつける。
(陸だ)
莉緒は喉の奥で息を止めた。
それでも、白石は続けた。
「ただし、こちらの記録上、部屋の中で“交際を示す事実”は確認されておりません」
「むしろ——緊急対応としての動きが多い」
緊急対応。
麗奈の「助けていただいて」と繋がる。
“善意の毒”の正体が、少しだけ剥がれた気がした。
莉緒は震える指先を膝の上で握りしめた。
「……騒ぎとは、何ですか」
白石は一瞬迷ってから言う。
「詳細は控えますが、第三者が関わる可能性がありました。
そのため、当ホテルでは一時的に防犯記録の確認を行っております」
防犯記録。
カメラ。
伏線Cが、ここで効く。
(映像がある)
莉緒の心臓が早くなる。
でも、早くなるほど、冷静になろうとする。
「その記録は……見られますか」
白石は首を振った。
「一般のお客様にお見せすることはできません。
ただし、正式な手続きがあれば——」
正式な手続き。
つまり、法務。
つまり、陸が言えなかった理由に繋がる。
白石はさらに言った。
「西条グループの法務担当から正式な照会が入れば、当ホテルとしても対応可能です」
法務。
赤い角印。
ずっと机上に見えていた“言えない封筒”。
莉緒の胸の中で、点が線になり始める。
(陸は、隠していた)
(でも、守っていた?)
(少なくとも——裏切りの形じゃない)
そこへ、白石がもう一つだけ付け加えた。
「当日、ロビーで撮影された写真が流出しておりますが、あれは“意図的に切り取られた角度”に見えます」
「スタッフの証言としては、男性は女性を支えるために動いていた」
意図的。
切り取られた角度。
それは、麗奈の“事故”と一致する。
莉緒の喉が熱くなった。
涙ではない。
怒りとも違う。
——悔しさだ。
(私は、あの角度で殺された)
(嘘じゃない善意で、口を塞がれた)
莉緒は立ち上がり、頭を下げた。
「……ありがとうございました」
白石は深く礼を返した。
「どうか、ご自身を責めないでください。
噂は、事実より速く走ります」
その言葉が、胸に刺さる。
責めないで、と言われるほど、自分を責めてしまう。
ホテルを出ると、外の空気が冷たかった。
雨上がりの匂い。
濡れた石の匂い。
息が少しだけ入りやすい。
車に乗り込むと、黒川が静かに言った。
「……お嬢さま」
何か言いかけて、やめる。
言わない優しさ。
莉緒は窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「……私、知らないまま終わらせようとしてた」
破談は、綺麗な逃げ道だと思っていた。
でも、綺麗な逃げ道は、真実を置き去りにする。
莉緒の手の中には、今、鍵がある。
部屋番号。
支配人の言葉。
防犯記録という“線”。

