雨が降っていた。
強くはない。けれど、止みもしない。
窓ガラスを叩く音が一定で、まるで「決めろ」と背中を押してくるみたいだった。
陸は言いかけて、止まった。
「俺は、お前が——」
続きが来なかった。
また“今は言えない”で終わった。
莉緒はその沈黙を、もう“優しさ”とは呼べなかった。
優しさは、言葉が届くときにだけ意味を持つ。
届かない優しさは、ただの壁になる。
(私の前では、いつも壁)
(九条さんの前では——)
考えるほど、自分が汚れていく。
だから莉緒は、考えるのをやめる代わりに、決めることにした。
——身を引く。
——終わらせる。
——これ以上、期待して壊れないために。
朝、母がノックをした。
「莉緒、起きてる?」
「……うん」
返事はできた。
返事ができるのに、心が遠い。
母が部屋に入ってくる。
手には温かいお茶。
湯気が立つのに、莉緒の胸は冷たい。
「今日はどうする?」
母は“発表後の対応”や“西条家との調整”が迫っていることを知っている。
それでも、無理に言わない。
言わない優しさが、莉緒を追い詰める。
莉緒はゆっくり言った。
「……お父さまと、話す」
母の目が僅かに揺れる。
揺れて、すぐに頷く。
「分かった。……私も一緒にいる」
その言葉が、涙を呼びそうで怖い。
莉緒は首を振った。
「大丈夫。……一人で話す」
大丈夫。
また言ってしまう。
でも今日は、その“大丈夫”が少し違う。
耐えるためじゃなく、決めるための大丈夫。
——書斎。
父は窓の外を見ていた。
背中が少しだけ小さく見える。
電話の回数が増え、笑顔が浅くなった父。
「莉緒、どうした」
父が振り返る。
声はいつも通りにしようとしている。
いつも通りにできないのは、父自身も限界だからだ。
莉緒は息を吸った。
胸が痛い。
でも言う。言うと決めた。
「……お父さま。私、西条家との婚約を——」
言葉が喉で止まりかける。
止まる。
止まりかけて、莉緒は唇を噛んだ。
「……解消したいです」
父の目が大きく開く。
怒りではない。驚きと恐怖。
そして、すぐに“計算”の目になる。
「何を言っている。今は——」
今は。
またその言葉。
皆が“今は”で莉緒を縛る。
莉緒は静かに言った。
「今だからです。
今なら……まだ、傷が浅い」
父の喉が動く。
言い返したい。
でも、言い返せない事情がある。
資金繰り。融資。西条。
その沈黙が、莉緒の心をさらに固める。
(やっぱり私は駒)
(やっぱり恋じゃない)
父は苦しそうに眉を寄せた。
「……莉緒。佐山の状況は——」
「分かっています」
莉緒は遮った。
遮るなんて、今までの自分ならできなかった。
でも、今はできる。
壊れたから。
「分かっているからこそ、私がこれ以上壊れたら……佐山も立てません」
父の目が揺れる。
母が書斎の入口に立っているのが見える。
母は入ってこない。
入ってこないことで、莉緒の決意を守る。
父はしばらく黙っていた。
沈黙は、肯定ではない。
ただの“追い詰められた人間の沈黙”。
そして父は、小さく言った。
「……分かった。だが、西条には筋を通せ。
勝手に逃げたと見られたら——」
「はい。私が言います」
その言葉を言った瞬間、莉緒の胃が冷たくなった。
陸に言う。
終わりを告げる。
それは自分の心に刃を入れる行為だ。
——夕方。
雨は止まないまま、空が暗くなる。
佐山邸の応接間には、会話のための明かりだけが灯っていた。
陸が来る。
そう告げたとき、母の顔が僅かに強張った。
止めない。
止めない代わりに、莉緒の背中をそっと撫でた。
「莉緒……」
「大丈夫」
大丈夫。
今日は、言い切るための大丈夫。
玄関の方で足音。
黒川の声。
そして、陸の気配。
応接間の扉が開き、陸が入ってきた。
黒いスーツ。
目の下の影。
眠れていない影。
それが胸を痛めるのに、莉緒はもう引き返せない。
「……莉緒」
陸が呼ぶ。
その声は低い。
昨夜よりも、少しだけ脆い。
莉緒は立ち上がり、婚約者として完璧な角度で頭を下げた。
「お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます。陸様」
呼び方が変わった。
“陸さん”でもない。
“陸くん”など、もう出ない。
呼び方を変えることで、言葉に刃を仕込む。
陸の眉が僅かに動く。
「……改まって、どうした」
莉緒は椅子に座るよう促し、自分も座った。
テーブルの上には紅茶。
湯気が立っているのに、空気は冷たい。
沈黙が落ちる。
莉緒は息を吸った。
(言う)
(今言わなきゃ、一生言えない)
「陸様」
声が震えないように、喉を固める。
「私……婚約を解消したいと思っています」
陸の目が見開かれた。
その表情が、莉緒の胸を抉る。
でも止めない。止められない。
「……何を、言ってる」
陸の声が低くなる。
怒りではない。恐怖だ。
莉緒は、準備していた言葉を差し出した。
責めない言葉。
相手を悪者にしない言葉。
自分を罰する言葉。
「陸様の幸せのために、私は離れます」
言った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
痛いのに、涙は出ない。
涙はもう、出し方を忘れた。
陸の拳が、テーブルの下で震えた。
「幸せ……?」
掠れた声。
陸の声がこんなふうに掠れるのを、莉緒は初めて聞いた。
「俺の幸せが、お前がいないことだと?」
陸が立ち上がりかける。
立ち上がって、近づいて、止めたい。
でも、止められない事情がある。
その事情が、また陸の足を縛る。
莉緒は微笑んだ。
仮面の微笑み。
でも、どこか壊れている微笑み。
「……陸様は責任感が強い方です」
麗奈の言葉を、莉緒は無意識に使ってしまう。
使った瞬間、自分が嫌になる。
麗奈の毒が、まだ胸の中に残っている。
「だから、私を捨てられないだけだと思います」
言い切った瞬間、応接間の空気が凍った。
陸の顔が、真っ白になる。
「……違う」
陸が言う。
短い。
でも、その「違う」には、今までと違う痛みが混ざっている。
「違う、莉緒。俺は——」
陸は言いかけて、止まった。
止まって、呼吸を整える。
まるで、ここで言えば何かが崩れると分かっているみたいに。
また沈黙。
また“言えない”。
莉緒の胸の奥が、静かに冷える。
(やっぱり、言えない)
(だから私は、正しい方を選ぶ)
莉緒は最後の言葉を、丁寧に置いた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。
私は、佐山に戻ります。
婚約者としての務めを果たせなかったことも……お詫びします」
謝罪で終わらせる。
謝罪で終わらせれば、相手を責めなくて済む。
その代わり、自分の心だけが死ぬ。
陸が、低く叫びそうな声で言った。
「謝るな!」
声が震えている。
怒りではなく、崩壊の手前の声。
莉緒は目を伏せた。
伏せたまま、静かに言った。
「……これ以上、私がここにいたら、陸様は苦しくなると思います」
自己罰の最終形。
“私がいなくなれば、あなたは楽になる”
陸の呼吸が乱れる。
でも、陸は言えない。
言えば、莉緒を危険に巻き込む何かがある。
その何かが、陸の喉を塞ぐ。
莉緒は立ち上がり、深く頭を下げた。
「失礼します」
扉へ向かう。
背中に陸の視線が刺さる。
引き止められたら、崩れる。
だから、早く出る。早く終わらせる。
「莉緒!」
陸が呼ぶ。
その声に、一瞬だけ足が止まりそうになる。
でも莉緒は止まらなかった。
止まったら、期待が戻る。
期待が戻ったら、また壊れる。
扉が閉まる。
閉まった音が、宣言の“完了”の音になった。
強くはない。けれど、止みもしない。
窓ガラスを叩く音が一定で、まるで「決めろ」と背中を押してくるみたいだった。
陸は言いかけて、止まった。
「俺は、お前が——」
続きが来なかった。
また“今は言えない”で終わった。
莉緒はその沈黙を、もう“優しさ”とは呼べなかった。
優しさは、言葉が届くときにだけ意味を持つ。
届かない優しさは、ただの壁になる。
(私の前では、いつも壁)
(九条さんの前では——)
考えるほど、自分が汚れていく。
だから莉緒は、考えるのをやめる代わりに、決めることにした。
——身を引く。
——終わらせる。
——これ以上、期待して壊れないために。
朝、母がノックをした。
「莉緒、起きてる?」
「……うん」
返事はできた。
返事ができるのに、心が遠い。
母が部屋に入ってくる。
手には温かいお茶。
湯気が立つのに、莉緒の胸は冷たい。
「今日はどうする?」
母は“発表後の対応”や“西条家との調整”が迫っていることを知っている。
それでも、無理に言わない。
言わない優しさが、莉緒を追い詰める。
莉緒はゆっくり言った。
「……お父さまと、話す」
母の目が僅かに揺れる。
揺れて、すぐに頷く。
「分かった。……私も一緒にいる」
その言葉が、涙を呼びそうで怖い。
莉緒は首を振った。
「大丈夫。……一人で話す」
大丈夫。
また言ってしまう。
でも今日は、その“大丈夫”が少し違う。
耐えるためじゃなく、決めるための大丈夫。
——書斎。
父は窓の外を見ていた。
背中が少しだけ小さく見える。
電話の回数が増え、笑顔が浅くなった父。
「莉緒、どうした」
父が振り返る。
声はいつも通りにしようとしている。
いつも通りにできないのは、父自身も限界だからだ。
莉緒は息を吸った。
胸が痛い。
でも言う。言うと決めた。
「……お父さま。私、西条家との婚約を——」
言葉が喉で止まりかける。
止まる。
止まりかけて、莉緒は唇を噛んだ。
「……解消したいです」
父の目が大きく開く。
怒りではない。驚きと恐怖。
そして、すぐに“計算”の目になる。
「何を言っている。今は——」
今は。
またその言葉。
皆が“今は”で莉緒を縛る。
莉緒は静かに言った。
「今だからです。
今なら……まだ、傷が浅い」
父の喉が動く。
言い返したい。
でも、言い返せない事情がある。
資金繰り。融資。西条。
その沈黙が、莉緒の心をさらに固める。
(やっぱり私は駒)
(やっぱり恋じゃない)
父は苦しそうに眉を寄せた。
「……莉緒。佐山の状況は——」
「分かっています」
莉緒は遮った。
遮るなんて、今までの自分ならできなかった。
でも、今はできる。
壊れたから。
「分かっているからこそ、私がこれ以上壊れたら……佐山も立てません」
父の目が揺れる。
母が書斎の入口に立っているのが見える。
母は入ってこない。
入ってこないことで、莉緒の決意を守る。
父はしばらく黙っていた。
沈黙は、肯定ではない。
ただの“追い詰められた人間の沈黙”。
そして父は、小さく言った。
「……分かった。だが、西条には筋を通せ。
勝手に逃げたと見られたら——」
「はい。私が言います」
その言葉を言った瞬間、莉緒の胃が冷たくなった。
陸に言う。
終わりを告げる。
それは自分の心に刃を入れる行為だ。
——夕方。
雨は止まないまま、空が暗くなる。
佐山邸の応接間には、会話のための明かりだけが灯っていた。
陸が来る。
そう告げたとき、母の顔が僅かに強張った。
止めない。
止めない代わりに、莉緒の背中をそっと撫でた。
「莉緒……」
「大丈夫」
大丈夫。
今日は、言い切るための大丈夫。
玄関の方で足音。
黒川の声。
そして、陸の気配。
応接間の扉が開き、陸が入ってきた。
黒いスーツ。
目の下の影。
眠れていない影。
それが胸を痛めるのに、莉緒はもう引き返せない。
「……莉緒」
陸が呼ぶ。
その声は低い。
昨夜よりも、少しだけ脆い。
莉緒は立ち上がり、婚約者として完璧な角度で頭を下げた。
「お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます。陸様」
呼び方が変わった。
“陸さん”でもない。
“陸くん”など、もう出ない。
呼び方を変えることで、言葉に刃を仕込む。
陸の眉が僅かに動く。
「……改まって、どうした」
莉緒は椅子に座るよう促し、自分も座った。
テーブルの上には紅茶。
湯気が立っているのに、空気は冷たい。
沈黙が落ちる。
莉緒は息を吸った。
(言う)
(今言わなきゃ、一生言えない)
「陸様」
声が震えないように、喉を固める。
「私……婚約を解消したいと思っています」
陸の目が見開かれた。
その表情が、莉緒の胸を抉る。
でも止めない。止められない。
「……何を、言ってる」
陸の声が低くなる。
怒りではない。恐怖だ。
莉緒は、準備していた言葉を差し出した。
責めない言葉。
相手を悪者にしない言葉。
自分を罰する言葉。
「陸様の幸せのために、私は離れます」
言った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
痛いのに、涙は出ない。
涙はもう、出し方を忘れた。
陸の拳が、テーブルの下で震えた。
「幸せ……?」
掠れた声。
陸の声がこんなふうに掠れるのを、莉緒は初めて聞いた。
「俺の幸せが、お前がいないことだと?」
陸が立ち上がりかける。
立ち上がって、近づいて、止めたい。
でも、止められない事情がある。
その事情が、また陸の足を縛る。
莉緒は微笑んだ。
仮面の微笑み。
でも、どこか壊れている微笑み。
「……陸様は責任感が強い方です」
麗奈の言葉を、莉緒は無意識に使ってしまう。
使った瞬間、自分が嫌になる。
麗奈の毒が、まだ胸の中に残っている。
「だから、私を捨てられないだけだと思います」
言い切った瞬間、応接間の空気が凍った。
陸の顔が、真っ白になる。
「……違う」
陸が言う。
短い。
でも、その「違う」には、今までと違う痛みが混ざっている。
「違う、莉緒。俺は——」
陸は言いかけて、止まった。
止まって、呼吸を整える。
まるで、ここで言えば何かが崩れると分かっているみたいに。
また沈黙。
また“言えない”。
莉緒の胸の奥が、静かに冷える。
(やっぱり、言えない)
(だから私は、正しい方を選ぶ)
莉緒は最後の言葉を、丁寧に置いた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。
私は、佐山に戻ります。
婚約者としての務めを果たせなかったことも……お詫びします」
謝罪で終わらせる。
謝罪で終わらせれば、相手を責めなくて済む。
その代わり、自分の心だけが死ぬ。
陸が、低く叫びそうな声で言った。
「謝るな!」
声が震えている。
怒りではなく、崩壊の手前の声。
莉緒は目を伏せた。
伏せたまま、静かに言った。
「……これ以上、私がここにいたら、陸様は苦しくなると思います」
自己罰の最終形。
“私がいなくなれば、あなたは楽になる”
陸の呼吸が乱れる。
でも、陸は言えない。
言えば、莉緒を危険に巻き込む何かがある。
その何かが、陸の喉を塞ぐ。
莉緒は立ち上がり、深く頭を下げた。
「失礼します」
扉へ向かう。
背中に陸の視線が刺さる。
引き止められたら、崩れる。
だから、早く出る。早く終わらせる。
「莉緒!」
陸が呼ぶ。
その声に、一瞬だけ足が止まりそうになる。
でも莉緒は止まらなかった。
止まったら、期待が戻る。
期待が戻ったら、また壊れる。
扉が閉まる。
閉まった音が、宣言の“完了”の音になった。

