幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う


 夜の空気は薄く冷えていた。
 雨は降っていないのに、街灯の光がどこか滲んで見える。
 莉緒は窓辺でその光を眺めながら、隼人のメモを指先で何度もなぞっていた。

 『陸は嘘をついてる。でも裏切ってない』
 『九条は事故を作ってる』
 『佐山不動産の件で陸は動いてる』

 紙一枚の言葉が、噂より重い。
 重いのに、信じきれない。
 信じきれないのは、陸がずっと“言わなかった”からだ。

(言えない事情)
(守るための沈黙)
——それが本当なら、どうして私は、こんなに傷ついたの。

 莉緒はメモを引き出しにしまい、深呼吸をした。
 息はまだ浅い。
でも、少しだけ“決めた”。
 このまま身を引く前に、陸の口から聞く。
 信じろと言うなら、言葉をくれ、と。

 その夜、陸が佐山邸に来た。
 約束をした覚えはない。
 けれど、陸の足音はいつも突然だ。
 突然で、遅くて、そして——いつも言葉が足りない。

 玄関ホールで黒川が応対し、母が廊下の奥から出てくる。
 陸の声が低く聞こえた。

「……莉緒に、会わせてください」

 母の声は穏やかだった。

「莉緒が嫌がったら、無理はしないで」

 嫌がる。
 その単語が胸に刺さる。
 嫌がっているわけじゃない。
 怖いだけだ。

 ノックが、二度。

「莉緒。……俺だ」

 莉緒は扉の前で立ったまま、手のひらを握りしめた。
 扉の向こうにいるのは、唯一の人だったはずの陸。
 でも今は、怖い人でもある。

(開けたら、また期待してしまう)
(期待したら、また壊れる)

 それでも、開けると決めた。
 メモを受け取ったから。
 自分の選択を、取り戻すために。

 莉緒は鍵を外し、扉を開けた。

 陸が立っていた。
 スーツ姿のまま。ネクタイは少し緩み、目の下に薄い影がある。
 眠れていない影。
夜の影が、そのまま残っている。

「……入って」

 莉緒が言うと、陸が一拍だけ止まった。
 “入っていい”と言われたことに、驚いたように。

 部屋に入った陸は、立ったまま動かなかった。
 触れようとしない。
 触れたら壊れると分かっているみたいに。

 莉緒はベッドの端に座り、陸に椅子を示した。
 陸は座らない。
 座らないことで距離を保っているのか、座る余裕がないのか。

 沈黙が落ちた。
 雨の音はない。
 その代わり、互いの呼吸が聞こえる。

 陸が先に口を開いた。

「……すまなかった」

 謝罪の形をした、懇願に近い声。

 莉緒は頷かなかった。
 頷いたら、また“許す側”になってしまう。
 許す側になったら、理由をもらえないまま終わる。

「……何が、すみませんなんですか」

 自分の声が、ひどく丁寧だった。
 丁寧な言葉は刃になる。
 でも、刃にしないと自分を守れない。

 陸の喉が動く。
 言葉を探している。

「発表会の席も……ホテルの件も……全部」

 全部。
 その言葉が、莉緒の胸をきゅっと締めつけた。
 全部と言えるなら、なぜ今まで言わなかったの。

「……違うって、何度も言いましたよね」

 莉緒が静かに言うと、陸の眉が僅かに寄った。
 痛そうな顔。

「……ああ」

「でも、理由は言わなかった」

 陸が息を吐く。
 短く、苦しい息。

「言えなかった」

 言えなかった。
 その一言が、莉緒の胸を二つに裂く。
 そう言われると、責めづらい。
 責めづらいからこそ、ずっと苦しかった。

 莉緒は震える指先を膝の上で握りしめた。

「……どうして、言えなかったんですか」

 問いは真っ直ぐだった。
 逃げ道を作らない問い。
 この問いに答えなければ、もう終わりだ、と莉緒自身が決めていた。

 陸の表情が、一瞬だけ固くなる。
 その固さは、怒りではない。
 恐怖だ。
 “言ったら守れなくなる”恐怖。

 そしてその恐怖が、莉緒の胸に最悪の形で落ちる。

(言ったら困る)
(言ったらまずい)
(九条さんと——)

 莉緒の喉が痛んだ。
 でも、もう逃げない。

「陸さん」

 呼びかける声が、少しだけ低くなる。

「私、噂で殺されるのはもう嫌です。
 あなたの沈黙で殺されるのも嫌です」

 陸の瞳が揺れる。
 揺れるのに、言葉が出ない。

 陸は、ようやく口を開いた。

「……俺は、お前が」

 そこで止まった。
 止まった瞬間、莉緒の心臓が跳ねた。

(言う)
(言ってくれる)
(やっと)

 でも、陸は続けられなかった。

 スマートフォンが震えたからだ。
 机の上で短く鳴り、画面に表示される名前。

 ——城戸。

 陸はそれを見た瞬間、顔色が変わった。
 ほんの僅かな変化。
 でも莉緒には分かる。
 “現実”が陸を縛る瞬間だ。

 陸は電話に出ない。
 出ないのに、画面を見つめている。
 その沈黙が、莉緒をさらに追い詰める。

 莉緒は、隼人のメモの存在を思い出した。
 「九条は事故を作ってる」
 「佐山不動産の件」
 ——全部、繋がっているのかもしれない。

 けれど、今欲しいのは“繋がり”ではない。
 陸の言葉だ。

「……続き、言ってください」

 莉緒が言うと、陸の喉が動く。
 唇が震える。

 陸は低く絞り出した。

「……お前がいないと、俺は」

 そこまで言って、また止まる。
 止まって、視線を逸らした。

 逸らす先にあるのは、机上の赤い角印の封筒だった。
 莉緒はそれを見て、胸が冷たくなる。

(やっぱり、言えない事情がある)
(私に言えない事情が)

 陸は拳を握りしめ、唇を噛む。

「……今は、言えない」

 またその言葉。
 今は。

 莉緒の胸の中で、静かに何かが折れた。
 折れた音はしない。
 音がしないほど、深く折れる。

「……今は、ですか」

 声が丁寧すぎて、自分でも怖かった。

「じゃあ、いつですか。
 私が壊れた後ですか。
 私がいなくなった後ですか」

 陸の顔が歪む。
 否定したい。
 でも否定できない。
 否定するには、言葉が足りない。

「違う」

 陸が短く言った。
 それだけ。
 理由はない。

 莉緒は、笑いそうになった。
 笑ったら泣き声になるから笑えない。

「……もう、いいです」

 口から出た言葉が、自分でも驚くほど冷たかった。
 冷たさは、最後の防御だ。

 陸が一歩近づく。

「莉緒、待て」

 その声が、遅い。
 遅すぎる。

 莉緒は目を伏せた。
 伏せた目の裏で、決意が固まる。

(身を引く)
(これ以上、期待して壊れないために)

 陸が、震える声で言った。

「……俺は、お前を手放したくない」

 その言葉は、嬉しいはずだった。
 でも、莉緒の心はもう反応できなかった。
 言葉はあるのに、理由がない。
 理由がない言葉は、また痛みに変わる。

 莉緒は静かに言った。

「手放したくないなら、言ってください。
 私が納得できる言葉を」

 陸は黙った。
 黙るしかない現実がある。
 その現実の前で、陸はまた沈黙を選ぶ。

 莉緒はその沈黙を見て、決めた。


 「陸様の幸せのために、私は離れます」

 今夜の告白未遂は、救いではなく、終わりの予告になった。