雨が降り始めていた。
夜の街灯に照らされた雨粒は細い糸みたいで、落ちるたびに光を引いて消える。
噂と似ている、と莉緒は思った。
見えたと思った瞬間にはもう形が変わっていて、掴めない。
刺された「破談」の二文字は、まだ皮膚の下に残っていた。
抜こうとすると痛む。
放置しても痛む。
だから莉緒は、痛みを“正しさ”に変えることで耐えようとしていた。
(私が身を引けばいい)
(それが一番、綺麗)
綺麗な終わりを選べば、誰も悪者にならない。
父の会社も守れる。
陸も解放される。
——そうやって自分を罰することが、いつの間にか救いになっていた。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そんな夜だった。
時間は遅くない。けれど、突然の訪問はこの家に“余計な波”を持ち込む。
黒川が廊下を小走りに通り、インターホンの向こうを確認する声がした。
「……一条様でございます」
莉緒の指先が止まった。
心臓が跳ねる。
跳ねた自分に、また罪悪感が湧く。
(陸じゃないのに)
でも、呼吸が少しだけ楽になるのも事実だった。
隼人の前では、仮面が少しだけ薄くなる。
薄くなることが怖いのに、薄くならないと息ができない。
「通して」
莉緒がそう言うと、黒川が一瞬だけ迷う顔をした。
——あの目だ。
“西条様のこともあるのに”という目。
目撃者の目。
それでも黒川は黙って頷いた。
「……お通しします」
廊下の足音。
玄関ホールの空気が変わる。
そして、隼人が入ってきた。
黒いコートの肩に雨粒がついている。
髪が少し濡れて、額に落ちている。
それが不思議と“現実”の匂いだった。
西条の完璧さとは違う、人の匂い。
「よお」
隼人はいつも通りの声で言った。
いつも通りだから、莉緒の胸の奥が少しだけほどける。
「……どうしたの」
「これ、渡す」
隼人は短く言い、手にしていた小さな封筒を差し出した。
白い封筒。
上質ではない。
でも、紙が少し厚い。
“重要なもの”を入れるときの厚さ。
莉緒は受け取ろうとして、指が震えるのに気づいた。
震えを隠すように、両手で封筒を持った。
「何?」
聞き返す声が小さい。
自分でも驚くほど。
隼人は、廊下の奥をちらりと見た。
黒川が距離を取って立っている。
家の中に他人がいることを、隼人は一瞬で理解した。
「……部屋、行ける?」
押しつけない。
でも、ここで開けるべきではないと察している。
莉緒は頷いた。
「うん」
自室に入る。
扉が閉まる音が、外の世界を切り離す。
莉緒は封筒を机の上に置いた。
置いた瞬間、怖くなった。
(何が入ってる)
(何を知ってしまう)
知ったら、もう戻れないかもしれない。
でも、戻りたい場所があるのかも分からない。
隼人は椅子に座らず、立ったまま言った。
「先に言う。これは“噂”じゃない」
その一言で、莉緒の喉がきゅっと締まった。
「……噂じゃない」
「俺が見た。聞いた。掴んだ」
隼人の声は低い。
感情を煽らない。
でも、逃げ道も作らない。
莉緒は封筒を開けた。
中から出てきたのは、折りたたまれた小さなメモ用紙だった。
ボールペンの字。
隼人の字は少しだけ乱れている。急いで書いたのが分かる。
莉緒は息を吸い、紙を広げた。
『莉緒。陸は嘘をついてる。でも、裏切ってない。
九条は“事故”を作ってる。
佐山不動産の件で、陸は動いてる。
信じろとは言わない。
でも、壊れる前に“事実”を見ろ。』
文字が、目に刺さった。
刺さって、すぐに滲んだ。
涙ではない。
視界が揺れているだけだ。
そう思い込もうとして、喉が震えた。
「……陸は、嘘をついてる?」
声が掠れた。
嘘。
裏切り。
そこに線引きがあると言われても、莉緒にはまだ分からない。
隼人は短く頷く。
「言えないことを隠してる。だから“嘘”に見える。でも……」
隼人の拳が、僅かに握られる。
珍しく、感情が滲む。
「……あいつ、莉緒を捨てるつもりはない」
その言い方が、逆に胸を痛めた。
捨てない。
——それは愛なのか、責任なのか。
麗奈の言葉が頭をよぎる。
(責任感が強い方)
莉緒はメモを握りしめた。
紙が少しだけ皺になる。
皺になるほど、現実が近づく。
「……どうして、分かるの」
莉緒が絞り出すと、隼人は目を逸らした。
逸らしてから言った。
「……見たから」
「何を」
隼人は短く息を吐いた。
話すことを選ぶ息。
「陸が、ホテルの件で誰かに頭を下げてるところ。
それから……九条の取り巻きが“次の写真”の話してるところ」
次の写真。
その単語が莉緒の胃を締めつけた。
「……私、また……」
また傷つく。
また刺される。
また閉ざす。
その未来が見える。
隼人は首を振った。
「だから渡した。
莉緒が“自分を罰する方向”に行くのが見えたから」
見えた。
その言葉が、胸に落ちた。
隼人は、莉緒が身を引こうとしていることを察している。
察していて、止めに来た。
莉緒は小さく笑ってしまいそうになった。
笑ったら泣き声になるから、笑えない。
「……私、重いよね」
言葉が、口から漏れた。
自分を罰するための言葉。
言えば少し楽になる言葉。
隼人は即答した。
「重くない」
即答。
陸の「違う」とは違う即答。
切り捨てない即答。
隼人は続ける。
「お前が重いんじゃない。
重くしてるのは、周りだ。
陸も……不器用に重くしてる」
莉緒の胸が痛む。
陸の名が出るだけで、まだ痛む。
痛むということは、まだ終わっていない。
隼人は、机の上にもう一枚の紙を置いた。
それはメモの裏。
そこに短い番号が書かれていた。
『部屋番号:——(ホテルの号室)』
莉緒の目が止まる。
呼吸が止まる。
「……これ」
隼人は言う。
「確かめろって意味じゃない。
でも、“繋がる鍵”になる。
ホテルの人間の話も、そこから辿れる」
第33章の鍵。
ここで芽が出る。
莉緒は紙を見つめた。
見つめながら、胸の奥でまだ戦っている自分に気づく。
(信じたい)
(でも、怖い)
(また裏切られたら、もう立てない)
隼人は、最後に言った。
「莉緒。選べ。
“噂の終わり”を信じて身を引くか、
“事実の終わり”を見てから決めるか」
その言葉は、優しいのに厳しかった。
莉緒に選択を返してくれる言葉だった。
莉緒はメモを握りしめた。
紙の角が掌に当たって、少し痛い。
その痛みが、まだ自分が生きている証拠だった。
「……ありがとう」
やっと、それだけ言えた。
ありがとう、は軽いのに、胸の奥から出た。
隼人は頷き、扉へ向かう。
「今日言えるのはここまで。
俺が踏み込みすぎたら、余計に拗れる」
線引き。
隼人は、奪わない。
奪わないことで、莉緒を守る。
扉が閉まり、部屋に一人残る。
莉緒は机の上のメモを見つめた。
噂は針だ。
でも、事実は鍵になるかもしれない。
——この章で、莉緒の中に初めて“別の道”が生まれる。
夜の街灯に照らされた雨粒は細い糸みたいで、落ちるたびに光を引いて消える。
噂と似ている、と莉緒は思った。
見えたと思った瞬間にはもう形が変わっていて、掴めない。
刺された「破談」の二文字は、まだ皮膚の下に残っていた。
抜こうとすると痛む。
放置しても痛む。
だから莉緒は、痛みを“正しさ”に変えることで耐えようとしていた。
(私が身を引けばいい)
(それが一番、綺麗)
綺麗な終わりを選べば、誰も悪者にならない。
父の会社も守れる。
陸も解放される。
——そうやって自分を罰することが、いつの間にか救いになっていた。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そんな夜だった。
時間は遅くない。けれど、突然の訪問はこの家に“余計な波”を持ち込む。
黒川が廊下を小走りに通り、インターホンの向こうを確認する声がした。
「……一条様でございます」
莉緒の指先が止まった。
心臓が跳ねる。
跳ねた自分に、また罪悪感が湧く。
(陸じゃないのに)
でも、呼吸が少しだけ楽になるのも事実だった。
隼人の前では、仮面が少しだけ薄くなる。
薄くなることが怖いのに、薄くならないと息ができない。
「通して」
莉緒がそう言うと、黒川が一瞬だけ迷う顔をした。
——あの目だ。
“西条様のこともあるのに”という目。
目撃者の目。
それでも黒川は黙って頷いた。
「……お通しします」
廊下の足音。
玄関ホールの空気が変わる。
そして、隼人が入ってきた。
黒いコートの肩に雨粒がついている。
髪が少し濡れて、額に落ちている。
それが不思議と“現実”の匂いだった。
西条の完璧さとは違う、人の匂い。
「よお」
隼人はいつも通りの声で言った。
いつも通りだから、莉緒の胸の奥が少しだけほどける。
「……どうしたの」
「これ、渡す」
隼人は短く言い、手にしていた小さな封筒を差し出した。
白い封筒。
上質ではない。
でも、紙が少し厚い。
“重要なもの”を入れるときの厚さ。
莉緒は受け取ろうとして、指が震えるのに気づいた。
震えを隠すように、両手で封筒を持った。
「何?」
聞き返す声が小さい。
自分でも驚くほど。
隼人は、廊下の奥をちらりと見た。
黒川が距離を取って立っている。
家の中に他人がいることを、隼人は一瞬で理解した。
「……部屋、行ける?」
押しつけない。
でも、ここで開けるべきではないと察している。
莉緒は頷いた。
「うん」
自室に入る。
扉が閉まる音が、外の世界を切り離す。
莉緒は封筒を机の上に置いた。
置いた瞬間、怖くなった。
(何が入ってる)
(何を知ってしまう)
知ったら、もう戻れないかもしれない。
でも、戻りたい場所があるのかも分からない。
隼人は椅子に座らず、立ったまま言った。
「先に言う。これは“噂”じゃない」
その一言で、莉緒の喉がきゅっと締まった。
「……噂じゃない」
「俺が見た。聞いた。掴んだ」
隼人の声は低い。
感情を煽らない。
でも、逃げ道も作らない。
莉緒は封筒を開けた。
中から出てきたのは、折りたたまれた小さなメモ用紙だった。
ボールペンの字。
隼人の字は少しだけ乱れている。急いで書いたのが分かる。
莉緒は息を吸い、紙を広げた。
『莉緒。陸は嘘をついてる。でも、裏切ってない。
九条は“事故”を作ってる。
佐山不動産の件で、陸は動いてる。
信じろとは言わない。
でも、壊れる前に“事実”を見ろ。』
文字が、目に刺さった。
刺さって、すぐに滲んだ。
涙ではない。
視界が揺れているだけだ。
そう思い込もうとして、喉が震えた。
「……陸は、嘘をついてる?」
声が掠れた。
嘘。
裏切り。
そこに線引きがあると言われても、莉緒にはまだ分からない。
隼人は短く頷く。
「言えないことを隠してる。だから“嘘”に見える。でも……」
隼人の拳が、僅かに握られる。
珍しく、感情が滲む。
「……あいつ、莉緒を捨てるつもりはない」
その言い方が、逆に胸を痛めた。
捨てない。
——それは愛なのか、責任なのか。
麗奈の言葉が頭をよぎる。
(責任感が強い方)
莉緒はメモを握りしめた。
紙が少しだけ皺になる。
皺になるほど、現実が近づく。
「……どうして、分かるの」
莉緒が絞り出すと、隼人は目を逸らした。
逸らしてから言った。
「……見たから」
「何を」
隼人は短く息を吐いた。
話すことを選ぶ息。
「陸が、ホテルの件で誰かに頭を下げてるところ。
それから……九条の取り巻きが“次の写真”の話してるところ」
次の写真。
その単語が莉緒の胃を締めつけた。
「……私、また……」
また傷つく。
また刺される。
また閉ざす。
その未来が見える。
隼人は首を振った。
「だから渡した。
莉緒が“自分を罰する方向”に行くのが見えたから」
見えた。
その言葉が、胸に落ちた。
隼人は、莉緒が身を引こうとしていることを察している。
察していて、止めに来た。
莉緒は小さく笑ってしまいそうになった。
笑ったら泣き声になるから、笑えない。
「……私、重いよね」
言葉が、口から漏れた。
自分を罰するための言葉。
言えば少し楽になる言葉。
隼人は即答した。
「重くない」
即答。
陸の「違う」とは違う即答。
切り捨てない即答。
隼人は続ける。
「お前が重いんじゃない。
重くしてるのは、周りだ。
陸も……不器用に重くしてる」
莉緒の胸が痛む。
陸の名が出るだけで、まだ痛む。
痛むということは、まだ終わっていない。
隼人は、机の上にもう一枚の紙を置いた。
それはメモの裏。
そこに短い番号が書かれていた。
『部屋番号:——(ホテルの号室)』
莉緒の目が止まる。
呼吸が止まる。
「……これ」
隼人は言う。
「確かめろって意味じゃない。
でも、“繋がる鍵”になる。
ホテルの人間の話も、そこから辿れる」
第33章の鍵。
ここで芽が出る。
莉緒は紙を見つめた。
見つめながら、胸の奥でまだ戦っている自分に気づく。
(信じたい)
(でも、怖い)
(また裏切られたら、もう立てない)
隼人は、最後に言った。
「莉緒。選べ。
“噂の終わり”を信じて身を引くか、
“事実の終わり”を見てから決めるか」
その言葉は、優しいのに厳しかった。
莉緒に選択を返してくれる言葉だった。
莉緒はメモを握りしめた。
紙の角が掌に当たって、少し痛い。
その痛みが、まだ自分が生きている証拠だった。
「……ありがとう」
やっと、それだけ言えた。
ありがとう、は軽いのに、胸の奥から出た。
隼人は頷き、扉へ向かう。
「今日言えるのはここまで。
俺が踏み込みすぎたら、余計に拗れる」
線引き。
隼人は、奪わない。
奪わないことで、莉緒を守る。
扉が閉まり、部屋に一人残る。
莉緒は机の上のメモを見つめた。
噂は針だ。
でも、事実は鍵になるかもしれない。
——この章で、莉緒の中に初めて“別の道”が生まれる。

