雨は翌日も止まなかった。
空が昨日の続きをそのまま持ち越してきたみたいに、鈍い色をした雲が都心を覆っている。
佐山家の車が動き出すと、窓ガラスを伝う雨粒が細い線になって流れた。
その線を目で追いながら、莉緒は自分の胸の奥を確認する。
(泣いていない)
(……まだ、大丈夫)
そう思うのに、呼吸は浅かった。
胸の奥の灯りは消えたはずなのに、灰の中で熱だけが残っていて、動くたびに痛む。
今日は社交界の昼の集まり――慈善事業の打ち合わせ。
断れない。断れば「何かあった」と噂が立つ。
佐山家の令嬢として、そして西条家の婚約者として、顔を出さなければならない。
ホテルのロビーで“先に帰るね”と笑った自分が、まだ喉の奥に残っている。
あの笑顔は、鎧だった。
鎧の内側は、雨に濡れた紙みたいに柔らかくなっているのに。
会場のサロンは、花の香りが濃かった。
白いテーブルクロス、銀のトレー、薄い紅茶。
笑い声は明るいはずなのに、莉緒の耳にはざらついて聞こえる。
「佐山さま、お久しぶりです」
「……はい、お久しぶりです」
微笑みは作れる。
挨拶もできる。
いつも通りに見えるように。
そうして、少しだけ安心した瞬間――
背中側から、柔らかく弾む声がした。
「昨日の雨、すごかったですわね」
「ええ、本当に……」
それだけの会話のはずなのに、莉緒の指先が冷たくなる。
“昨日の雨”という言葉が、ホテルのロビーの光景を引きずり出すからだ。
(思い出さない)
(私は、もう……)
自分に言い聞かせた、その次の瞬間。
「――そういえば、西条さま……」
誰かが名前を出した。
それは、針先が皮膚に触れる前の、あの予感に似ていた。
莉緒は、反射的に笑顔を深くする。
聞こえていないふりができるように。
聞いてしまっても、傷が浅く済むように。
けれど噂というものは、聞こえないふりをした人ほど狙ってくる。
「昨日、名門ホテルの車寄せでお見かけしたわ。九条さまとご一緒だったでしょう?」
――刺さった。
胸のどこかが、ちくりと鳴る。
痛みは小さいのに、そこから冷たさが広がっていく。
「九条さまって、あの……美しい方よね」
「ええ。まるで映画の女優みたい」
言葉が、飾りのついた針になって飛んでくる。
“美しい”
“女優みたい”
――それはつまり、「あなたとは違う」という意味に聞こえる。
莉緒は微笑んだまま、紅茶のカップに指を添えた。
指先が震えているのが分からないように、ソーサーを軽く押さえる。
「お仕事のご一緒、でしょう?」
誰かが一応、逃げ道の言葉を用意する。
その逃げ道にすがりたいのに、莉緒の記憶がそれを許さない。
傘の角度。
髪を払った指先。
袖に触れた麗奈の手。
(仕事でも、あんなふうに……寄り添うの?)
喉の奥で声にならない疑問が詰まり、息が少しだけ苦しい。
「でもね、聞いたの。九条さま、最近西条さまの“相談役”みたいな立場ですって」
「まあ……相談役。素敵ね」
笑い声。
軽やかなのに、莉緒の胸にだけ重い。
(相談役……)
(私じゃなくて?)
心が勝手に、答えを作り始める。
確かめてもいないのに、決めつける。
そのとき。
「佐山さま」
別の声が、少しだけ低く呼びかけた。
声の主は、こちらを見て微笑んでいる。表情は上品で、同情の色を一片も含まない。
「……あなた、昨日はお早くお帰りになったの?」
莉緒の呼吸が止まった。
――見られていた。
昨日の自分の“先に帰るね”が、きちんと誰かの記憶になっている。
誰の目にも、分かる形で。
自分が、婚約者なのにその場を去った事実として。
莉緒は咄嗟に微笑んだ。
「ええ、少し……体調が優れなくて」
嘘ではない。
心の体調は、確かに崩れていた。
「まあ……大丈夫? でも、西条さまはお優しい方だから。九条さまにも、つい……ね?」
その言い方が、柔らかくて、残酷だった。
“つい”という言葉で、陸の優しさは癖みたいに扱われる。
そして、その優しさが向かう先が、莉緒ではないことだけが強調される。
莉緒は笑ったまま、頷く。
「……そうですね」
カップの中の紅茶が揺れている。
自分の指が震えているせいだ。
噂は針だ。
刺すだけじゃない。
刺した場所に“異物”を残していく。
――疑い。
――劣等感。
――自分にはないものを持つ女への恐れ。
莉緒は、目を伏せない。
伏せたら負けだと思ってしまう。
けれど、視線を上げた先にいる女性たちの瞳は、どこか楽しそうだった。
悲劇は、他人にとっては話題になる。
だから針は、丁寧に刺される。
「……でも、婚約者って、立場が難しいわよね」
「ええ。政略だと、なおさら」
政略――という言葉が出た瞬間、莉緒の背中が冷える。
昨日、自分が胸の中で整理した言葉が、他人の口からあっさり出てくる。
(やっぱり、そうなんだ)
(私は……政略の駒)
陸が好きな人を作っても、仕方ない。
そう思えば、楽になるはずなのに。
楽にならない。
むしろ息ができない。
莉緒は立ち上がった。
笑顔のまま、軽く頭を下げる。
「少し……失礼しますね。お手洗いに」
誰も止めない。
止める理由がないから。
噂の針を刺し終えたら、次の話題へ移るだけだ。
廊下に出た瞬間、空気が少し冷たくなった。
香水と花の匂いが薄れ、代わりに雨の匂いが鼻に触れる。
莉緒は壁に手をついて、ようやく息を吐いた。
(……私、何をしてるんだろう)
問い詰められない。
確かめられない。
だから、噂の針に刺されるたびに、自分の中で答えが固まっていく。
――陸は、別の人を選びたい。
――私とは、仕方なく婚約している。
――私は、邪魔をしてはいけない。
その答えが、どんどん“正しい”形に整えられていく。
噂が、そのための材料を運んでくるからだ。
鏡の前に立つと、自分の顔は笑っていなかった。
代わりに、静かだった。
あまりにも静かで、怖いほど。
(心を閉ざそう)
(閉ざせば、針は刺さらない)
そう思った瞬間。
鏡の中の自分の目だけが、ほんの少し揺れた。
――本当は、刺さっている。
刺さっているのに、痛みを感じないふりをしているだけだ。
莉緒はゆっくりと口角を上げた。
社交界に戻るための、完璧な笑顔を作る。
その笑顔は、鎧。
そして、陸へ向ける沈黙の始まりだった。
雨は窓を叩き続けている。
針みたいに、細く、冷たく。
空が昨日の続きをそのまま持ち越してきたみたいに、鈍い色をした雲が都心を覆っている。
佐山家の車が動き出すと、窓ガラスを伝う雨粒が細い線になって流れた。
その線を目で追いながら、莉緒は自分の胸の奥を確認する。
(泣いていない)
(……まだ、大丈夫)
そう思うのに、呼吸は浅かった。
胸の奥の灯りは消えたはずなのに、灰の中で熱だけが残っていて、動くたびに痛む。
今日は社交界の昼の集まり――慈善事業の打ち合わせ。
断れない。断れば「何かあった」と噂が立つ。
佐山家の令嬢として、そして西条家の婚約者として、顔を出さなければならない。
ホテルのロビーで“先に帰るね”と笑った自分が、まだ喉の奥に残っている。
あの笑顔は、鎧だった。
鎧の内側は、雨に濡れた紙みたいに柔らかくなっているのに。
会場のサロンは、花の香りが濃かった。
白いテーブルクロス、銀のトレー、薄い紅茶。
笑い声は明るいはずなのに、莉緒の耳にはざらついて聞こえる。
「佐山さま、お久しぶりです」
「……はい、お久しぶりです」
微笑みは作れる。
挨拶もできる。
いつも通りに見えるように。
そうして、少しだけ安心した瞬間――
背中側から、柔らかく弾む声がした。
「昨日の雨、すごかったですわね」
「ええ、本当に……」
それだけの会話のはずなのに、莉緒の指先が冷たくなる。
“昨日の雨”という言葉が、ホテルのロビーの光景を引きずり出すからだ。
(思い出さない)
(私は、もう……)
自分に言い聞かせた、その次の瞬間。
「――そういえば、西条さま……」
誰かが名前を出した。
それは、針先が皮膚に触れる前の、あの予感に似ていた。
莉緒は、反射的に笑顔を深くする。
聞こえていないふりができるように。
聞いてしまっても、傷が浅く済むように。
けれど噂というものは、聞こえないふりをした人ほど狙ってくる。
「昨日、名門ホテルの車寄せでお見かけしたわ。九条さまとご一緒だったでしょう?」
――刺さった。
胸のどこかが、ちくりと鳴る。
痛みは小さいのに、そこから冷たさが広がっていく。
「九条さまって、あの……美しい方よね」
「ええ。まるで映画の女優みたい」
言葉が、飾りのついた針になって飛んでくる。
“美しい”
“女優みたい”
――それはつまり、「あなたとは違う」という意味に聞こえる。
莉緒は微笑んだまま、紅茶のカップに指を添えた。
指先が震えているのが分からないように、ソーサーを軽く押さえる。
「お仕事のご一緒、でしょう?」
誰かが一応、逃げ道の言葉を用意する。
その逃げ道にすがりたいのに、莉緒の記憶がそれを許さない。
傘の角度。
髪を払った指先。
袖に触れた麗奈の手。
(仕事でも、あんなふうに……寄り添うの?)
喉の奥で声にならない疑問が詰まり、息が少しだけ苦しい。
「でもね、聞いたの。九条さま、最近西条さまの“相談役”みたいな立場ですって」
「まあ……相談役。素敵ね」
笑い声。
軽やかなのに、莉緒の胸にだけ重い。
(相談役……)
(私じゃなくて?)
心が勝手に、答えを作り始める。
確かめてもいないのに、決めつける。
そのとき。
「佐山さま」
別の声が、少しだけ低く呼びかけた。
声の主は、こちらを見て微笑んでいる。表情は上品で、同情の色を一片も含まない。
「……あなた、昨日はお早くお帰りになったの?」
莉緒の呼吸が止まった。
――見られていた。
昨日の自分の“先に帰るね”が、きちんと誰かの記憶になっている。
誰の目にも、分かる形で。
自分が、婚約者なのにその場を去った事実として。
莉緒は咄嗟に微笑んだ。
「ええ、少し……体調が優れなくて」
嘘ではない。
心の体調は、確かに崩れていた。
「まあ……大丈夫? でも、西条さまはお優しい方だから。九条さまにも、つい……ね?」
その言い方が、柔らかくて、残酷だった。
“つい”という言葉で、陸の優しさは癖みたいに扱われる。
そして、その優しさが向かう先が、莉緒ではないことだけが強調される。
莉緒は笑ったまま、頷く。
「……そうですね」
カップの中の紅茶が揺れている。
自分の指が震えているせいだ。
噂は針だ。
刺すだけじゃない。
刺した場所に“異物”を残していく。
――疑い。
――劣等感。
――自分にはないものを持つ女への恐れ。
莉緒は、目を伏せない。
伏せたら負けだと思ってしまう。
けれど、視線を上げた先にいる女性たちの瞳は、どこか楽しそうだった。
悲劇は、他人にとっては話題になる。
だから針は、丁寧に刺される。
「……でも、婚約者って、立場が難しいわよね」
「ええ。政略だと、なおさら」
政略――という言葉が出た瞬間、莉緒の背中が冷える。
昨日、自分が胸の中で整理した言葉が、他人の口からあっさり出てくる。
(やっぱり、そうなんだ)
(私は……政略の駒)
陸が好きな人を作っても、仕方ない。
そう思えば、楽になるはずなのに。
楽にならない。
むしろ息ができない。
莉緒は立ち上がった。
笑顔のまま、軽く頭を下げる。
「少し……失礼しますね。お手洗いに」
誰も止めない。
止める理由がないから。
噂の針を刺し終えたら、次の話題へ移るだけだ。
廊下に出た瞬間、空気が少し冷たくなった。
香水と花の匂いが薄れ、代わりに雨の匂いが鼻に触れる。
莉緒は壁に手をついて、ようやく息を吐いた。
(……私、何をしてるんだろう)
問い詰められない。
確かめられない。
だから、噂の針に刺されるたびに、自分の中で答えが固まっていく。
――陸は、別の人を選びたい。
――私とは、仕方なく婚約している。
――私は、邪魔をしてはいけない。
その答えが、どんどん“正しい”形に整えられていく。
噂が、そのための材料を運んでくるからだ。
鏡の前に立つと、自分の顔は笑っていなかった。
代わりに、静かだった。
あまりにも静かで、怖いほど。
(心を閉ざそう)
(閉ざせば、針は刺さらない)
そう思った瞬間。
鏡の中の自分の目だけが、ほんの少し揺れた。
――本当は、刺さっている。
刺さっているのに、痛みを感じないふりをしているだけだ。
莉緒はゆっくりと口角を上げた。
社交界に戻るための、完璧な笑顔を作る。
その笑顔は、鎧。
そして、陸へ向ける沈黙の始まりだった。
雨は窓を叩き続けている。
針みたいに、細く、冷たく。

