幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う


 噂は、雨より静かに降る。
 音もなく肩に積もって、気づいたときには濡れている。
 濡れているのに、どこで濡れたのか分からない。
 ——それが一番怖い。

 その朝、莉緒は母に頼まれて外出した。
 発表会後の礼状の手配。慈善団体への手続き。
 “婚約者の仕事”ではなく、“佐山家の娘の仕事”。
 区別したくて、区別できない。
 どちらも結局、世間体のためにある。

 街はいつも通りだった。
 パン屋の匂い。駅前の人波。車のクラクション。
 普通の暮らしの中に、莉緒の「終わり」だけが混ざっている気がした。

 待ち合わせのサロンに入ると、花の香りが濃い。
 白いクロス、銀のカトラリー、柔らかな笑い声。
噂の針”を思い出す。
 あのときは刺された。
 今日は、刺される前から痛い。

 佐倉美紗が先に来ていた。
 いつもなら「莉緒!」と明るく手を振るのに、今日は笑顔が浅い。
 視線が、莉緒の顔色を一瞬で測ってから、すぐに逸れる。

「……莉緒、無理してない?」

 美紗の声が低い。
 低いほど、本気の心配だ。

「大丈夫」

 莉緒は反射的に答えた。
 この言葉で自分の喉を塞ぐ癖が、もう抜けない。

 美紗が息を吐いて、唇を噛む。

「ねえ……聞いた?」

 聞いた。
 何を、とは聞かなくても分かる。
 噂はいつも、「聞いた?」から始まる。

「……何を?」

 莉緒は微笑みを崩さない。
 崩したら、噂に食べられる。

 美紗は周囲を気にして声を落とした。

「破談、って……」

 その二文字が、莉緒の耳の奥で鈍く鳴った。
 破談。
 終わり。
 決定。

 莉緒は一瞬、呼吸が止まった。
 止まった呼吸を、丁寧に戻す。

「……誰が?」

 言葉が他人事みたいだ。
 自分の人生の話なのに。

 美紗が視線を伏せる。

「桐谷さんたちが……。『佐山さま、席を外したまま戻らないらしい』とか、『西条さまの隣には九条さまが……』とか」


 陸の隣の麗奈。
 正しい理由で奪われた席。
 そして“正しい処理”として流された空気。

(あれが、破談の根拠になる)
(私が欠席したことが、終わりになる)

 莉緒は胸の奥が冷たく固まるのを感じた。
 怒れない。
 反論できない。
 嘘じゃない断片が積み重なっているから。

「……そうなんだ」

 莉緒はそれだけ言った。
 声が平静であるほど、自分でも怖い。

 美紗が慌てて言う。

「違うよ! 私、そんなの信じてない。……ただ、皆が勝手に——」

 勝手に。
 勝手に、という言葉がまた残酷だ。
 勝手に流れたものほど止められない。

 そのとき、背後から明るい声がした。

「まあ、佐倉さん。佐山さまも」

 桐谷由香だった。
 今日も軽い。
 軽い声は、針を刺すのに最適だ。

 由香はいつも通り華やかに笑い、いつも通り無邪気な顔で近づく。
 無邪気が一番凶器になる。

「お久しぶりです、佐山さま。お忙しいのにお綺麗」

 褒め言葉。
 褒め言葉の形をした、視線の確認。

「ありがとうございます」

 莉緒は微笑んで頭を下げた。
 礼儀正しいほど、相手は安心して刺してくる。

 由香が、まるで天気の話でもするように言った。

「ねえ、破談の噂って本当?」

 直球だった。
 直球なのに、声が軽い。
 軽いから、聞いた側が悪者になれない。

 美紗がすぐに言う。

「桐谷さん、やめて。本人の前で——」

「え? だって皆、気にしてるよ? 婚約発表のあとに欠席が続いたし……それに」

 それに、の後が怖い。
 怖いのに、止められない。

 由香は笑ったまま続けた。

「西条さま、最近九条さまと一緒のところばかり目撃されてるもの。やっぱり“本命”は——」

 本命。
 その単語が、莉緒の胸をえぐる。

 美紗が顔色を変える。

「桐谷さん!」

 由香は「ごめん、ごめん」と笑う。
 謝っているようで、謝っていない。
 謝罪が軽いほど、針は抜けない。

 莉緒は、微笑んだまま言った。

「ご心配をおかけしてすみません。……体調が少し優れないだけです」

 体調。
 便利な言葉。
 感情を隠す言葉。
 逃げ道の言葉。

 由香は目を丸くして、すぐに同情の形を作る。

「まあ! 大丈夫? でもね、こういうときこそ堂々としてないと。婚約者は佐山さまなんだし」

 堂々。
 その言葉が、莉緒の自己罰を強くする。

(堂々とできない私が悪い)
(堂々とできる人が、選ばれる)

 莉緒は胸の奥で息を止めた。
 そして、仮面の笑顔をさらに厚くした。

「ありがとうございます。頑張ります」

 頑張ります。
 言った瞬間、心が遠ざかる。
 頑張る方向が間違っていると分かっているのに。

 由香は満足そうに頷く。

「そうそう。ね、佐倉さんもそう思うでしょ?」

 美紗は言葉を失っていた。
 莉緒の肩にそっと手を添えようとして、触れられずに止める。
 触れたら莉緒が崩れると分かっている手。

 由香は最後に、さらに軽い声で付け足した。

「でも、もし破談なら、早めに言ってね。皆、次の“話”の準備があるから」

 次の話。
 ——他人の楽しみとしての終わり。

 莉緒は喉の奥が熱くなるのを感じた。
 泣きたくなる。
 でも泣かない。
 泣いたら“噂が本当”になる気がするから。

「……お気遣いありがとうございます」

 莉緒は丁寧に言った。
 丁寧すぎる言葉が、刃になる。
 由香は何も気づかないまま去っていく。

 残された美紗が、唇を噛んで言った。

「莉緒、ごめん……私が止められなくて……」

 止められない。
 噂は止められない。
 止められないからこそ、既成事実になる。

 莉緒は首を振った。

「美紗のせいじゃないよ」

 優しさの形をしている。
 でも本当は、自分をさらに罰する言葉だった。
 誰も悪くない。
 悪いのは、私が弱いこと。

 サロンを出た帰り道、莉緒はふと立ち止まった。
 ショーウィンドウに映る自分が、笑っていない。
 泣いてもいない。
 ただ、静かに遠い。

(破談の噂が出るのは、当然)
(私は欠席した)
(私は笑うしかできなかった)
(私は……重い)

 昨日書いたノートが、頭に浮かぶ。
 『身を引くために必要なこと』

 ——噂は、莉緒の背中を押す。
 身を引けば、噂は“正しかった”ことになる。
 正しかったことになれば、皆は安心する。
 佐山は守られる。
 陸は解放される。

 その“正しさ”が、莉緒の心をさらに冷たくする。

 家に戻ると、父が書斎で電話をしていた。
 聞こえる声は焦りを含んでいる。

「……お願いします。どうにか……」

 お願い。
 この家も、何かに縋っている。

 莉緒は廊下で足を止め、深呼吸をした。
 息が浅い。
 でも、息をするしかない。

(終わりが既成事実になるなら)
(私が、終わらせればいい)

 その夜、莉緒はまたノートを開く。
 破談の噂が、ただの噂ではなく“道”になり始めている。
 次の章で、その道をさらに加速させるものが来る。

 ——隼人のメモ。
 噂とは違う、事実へ繋がる小さな紙片が。