雨は、降りそうで降らない空を保っていた。
曇りの薄い膜が世界を覆い、何もかもが少しだけ鈍く見える。
莉緒はその鈍さに救われたかった。
鮮明な現実ほど、胸を刺すから。
「隼人がいるから」を口にしてしまった日から、莉緒は自分の言葉に追いかけられていた。
言った瞬間、陸の顔が真っ白になった。
その表情が脳裏に焼きつき、夜になるたびに反芻される。
(私が刺した)
(私が壊した)
でも、本当に壊したのはあの一言だけではない。
壊れる前から、陸は言えなかった。
説明しなかった。
「違う」と言うだけで、理由をくれなかった。
——それでも、刺したのは自分だ。
そう思えば、少しだけ楽になる。
自分が悪者になれば、誰も責めなくて済むから。
朝、母がそっと部屋を覗いた。
「莉緒、朝食……」
莉緒は布団の中で目を開け、微笑もうとして、うまく笑えなかった。
母はそれを見て、何も言わずに扉を閉めた。
言わない優しさが、胸に痛い。
起き上がって鏡の前に立つ。
顔色は白い。
目の下に影がある。
昨日より少しだけ痩せた気がする。
(私は、みっともない)
婚約者なのに、堂々とできない。
疑って、怯えて、閉ざして。
隼人の傘の下で息をしてしまって。
——陸を追い詰めてしまった。
莉緒は洗面台の縁に指を置き、深呼吸をした。
胸が痛い。
でも、痛みがあるからまだ生きているとも思う。
ドレッサーの引き出しを開け、そこにしまっていた小さな箱を取り出した。
婚約の話が本格化した頃、母が用意してくれていた――指輪の候補。
まだ正式な贈り物ではない。
けれど莉緒にとっては、未来の象徴だった。
箱を開ける。
中の石が淡く光る。
その光が、今の莉緒には痛すぎた。
(これを付けたら、私は陸の隣に立つ)
(陸の隣に立つ資格が、私にある?)
——ない。
心が、すぐに答えを出す。
莉緒は箱を閉じた。
指輪を見続けると、泣いてしまいそうだったから。
机の上には、婚約発表のコメント案が置いてある。
「幸せです」
「支え合って」
「温かく見守って」
紙の言葉は綺麗だ。
綺麗すぎて、現実を削る。
(私は“幸せです”と言えるの?)
(陸は“幸せ”なの?)
昨日の陸の表情が浮かぶ。
白い顔。
硬い口元。
震える声。
——陸は、疲れている。
——陸は、追い詰められている。
——私のせいで。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
痛みがあるほど、自己罰は甘い。
(私が重いから)
(私がいるから、陸は苦しい)
莉緒はその結論に、静かに縋った。
昼過ぎ、母が部屋に入ってきた。
小さな封筒を持っている。
「莉緒、佐山不動産の方から……あなた宛に」
莉緒は受け取った。
封筒の紙が少し厚い。
中を開けると、銀行からの通知の写しと、父の短いメモが入っていた。
『心配をかけてすまない。だが今は、動ける者が動くしかない。
西条の件、頼む』
頼む。
父の字が震えている気がして、莉緒は喉の奥が熱くなった。
(私は、家のために陸と婚約している)
(陸も、家のために私と婚約している)
その形が、はっきりしてしまう。
恋が、条件に変わる瞬間。
莉緒は封筒を机に置き、窓を見た。
曇った空。
泣けない空。
(泣けないなら、決めるしかない)
——身を引く。
それが一番、綺麗だ。
それが一番、誰も傷つけない。
自分が消えればいい。
そうすれば、陸は楽になる。
佐山は守られる。
九条麗奈は望むものを得るのかもしれない。
——でも、それでもいい。
陸が幸せなら。
莉緒は、ノートを開いた。
日記ではない。
“準備”のためのノート。
ページの上に、静かに書く。
『身を引くために必要なこと』
1)父に、気持ちを伝える(家のための婚約だとしても、限界がある)
2)陸に、破談の意思を伝える(責めない言葉で)
3)世間への体裁(発表前なら傷は浅い)
4)佐山不動産の対策(私がいなくても崩れない形を探す)
書いているうちに、心が少しだけ落ち着いた。
計画は痛みを麻痺させる。
計画は涙を止める。
そのとき、スマートフォンが震えた。
陸からだ。
莉緒の指が止まる。
出れば、揺れる。
揺れたら、計画が崩れる。
でも、出ないと“悪い婚約者”になる。
その恐怖が、莉緒を縛る。
莉緒は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『莉緒。今夜、少し——』
陸の声が低い。
優しいのか、疲れているのか分からない音。
莉緒は、笑顔の形の声で返した。
「大丈夫です」
『……何が“大丈夫”なんだ』
陸の声が、少しだけ荒くなる。
それだけで莉緒の胸が痛む。
(ほら)
(私がいるから、苛立つ)
(私が重いから)
莉緒は静かに言った。
「陸さん、無理をしないでください」
優しさの形をした、自己罰の言葉。
“私を切ってもいい”という許可。
電話の向こうで、陸の呼吸が止まった気がした。
『……莉緒、待て』
陸の声が強くなる。
強くなるほど、莉緒は怖い。
強い言葉は、期待を生む。
期待は、また傷を生む。
莉緒は、息を吸って言った。
「……私、もう……頑張れないかもしれません」
言ってしまった瞬間、涙が喉まで来た。
でも泣かない。
泣いたら計画が崩れる。
『……っ』
陸が何か言いかけて、言えない。
また飲み込む。
また黙る。
その沈黙が、莉緒の結論をさらに固めた。
(やっぱり、言えない)
(だから私は、身を引く)
莉緒は最後に、丁寧に言った。
「おやすみなさい」
電話を切る。
切った瞬間、胸が少しだけ楽になる。
楽になるほど、自分が冷たくなっていく。
夜。
莉緒はノートを閉じ、引き出しにしまった。
“身を引く準備”を、誰にも見せない場所へ。
窓の外で、細い雨が落ち始めた。
針みたいな雨が、ガラスを叩く。
(私が重いから)
(私がいなくなれば、皆が楽になる)
その自己罰は、切なくて、甘い毒だった。
莉緒はその毒を、静かに飲み込んだ。
曇りの薄い膜が世界を覆い、何もかもが少しだけ鈍く見える。
莉緒はその鈍さに救われたかった。
鮮明な現実ほど、胸を刺すから。
「隼人がいるから」を口にしてしまった日から、莉緒は自分の言葉に追いかけられていた。
言った瞬間、陸の顔が真っ白になった。
その表情が脳裏に焼きつき、夜になるたびに反芻される。
(私が刺した)
(私が壊した)
でも、本当に壊したのはあの一言だけではない。
壊れる前から、陸は言えなかった。
説明しなかった。
「違う」と言うだけで、理由をくれなかった。
——それでも、刺したのは自分だ。
そう思えば、少しだけ楽になる。
自分が悪者になれば、誰も責めなくて済むから。
朝、母がそっと部屋を覗いた。
「莉緒、朝食……」
莉緒は布団の中で目を開け、微笑もうとして、うまく笑えなかった。
母はそれを見て、何も言わずに扉を閉めた。
言わない優しさが、胸に痛い。
起き上がって鏡の前に立つ。
顔色は白い。
目の下に影がある。
昨日より少しだけ痩せた気がする。
(私は、みっともない)
婚約者なのに、堂々とできない。
疑って、怯えて、閉ざして。
隼人の傘の下で息をしてしまって。
——陸を追い詰めてしまった。
莉緒は洗面台の縁に指を置き、深呼吸をした。
胸が痛い。
でも、痛みがあるからまだ生きているとも思う。
ドレッサーの引き出しを開け、そこにしまっていた小さな箱を取り出した。
婚約の話が本格化した頃、母が用意してくれていた――指輪の候補。
まだ正式な贈り物ではない。
けれど莉緒にとっては、未来の象徴だった。
箱を開ける。
中の石が淡く光る。
その光が、今の莉緒には痛すぎた。
(これを付けたら、私は陸の隣に立つ)
(陸の隣に立つ資格が、私にある?)
——ない。
心が、すぐに答えを出す。
莉緒は箱を閉じた。
指輪を見続けると、泣いてしまいそうだったから。
机の上には、婚約発表のコメント案が置いてある。
「幸せです」
「支え合って」
「温かく見守って」
紙の言葉は綺麗だ。
綺麗すぎて、現実を削る。
(私は“幸せです”と言えるの?)
(陸は“幸せ”なの?)
昨日の陸の表情が浮かぶ。
白い顔。
硬い口元。
震える声。
——陸は、疲れている。
——陸は、追い詰められている。
——私のせいで。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
痛みがあるほど、自己罰は甘い。
(私が重いから)
(私がいるから、陸は苦しい)
莉緒はその結論に、静かに縋った。
昼過ぎ、母が部屋に入ってきた。
小さな封筒を持っている。
「莉緒、佐山不動産の方から……あなた宛に」
莉緒は受け取った。
封筒の紙が少し厚い。
中を開けると、銀行からの通知の写しと、父の短いメモが入っていた。
『心配をかけてすまない。だが今は、動ける者が動くしかない。
西条の件、頼む』
頼む。
父の字が震えている気がして、莉緒は喉の奥が熱くなった。
(私は、家のために陸と婚約している)
(陸も、家のために私と婚約している)
その形が、はっきりしてしまう。
恋が、条件に変わる瞬間。
莉緒は封筒を机に置き、窓を見た。
曇った空。
泣けない空。
(泣けないなら、決めるしかない)
——身を引く。
それが一番、綺麗だ。
それが一番、誰も傷つけない。
自分が消えればいい。
そうすれば、陸は楽になる。
佐山は守られる。
九条麗奈は望むものを得るのかもしれない。
——でも、それでもいい。
陸が幸せなら。
莉緒は、ノートを開いた。
日記ではない。
“準備”のためのノート。
ページの上に、静かに書く。
『身を引くために必要なこと』
1)父に、気持ちを伝える(家のための婚約だとしても、限界がある)
2)陸に、破談の意思を伝える(責めない言葉で)
3)世間への体裁(発表前なら傷は浅い)
4)佐山不動産の対策(私がいなくても崩れない形を探す)
書いているうちに、心が少しだけ落ち着いた。
計画は痛みを麻痺させる。
計画は涙を止める。
そのとき、スマートフォンが震えた。
陸からだ。
莉緒の指が止まる。
出れば、揺れる。
揺れたら、計画が崩れる。
でも、出ないと“悪い婚約者”になる。
その恐怖が、莉緒を縛る。
莉緒は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『莉緒。今夜、少し——』
陸の声が低い。
優しいのか、疲れているのか分からない音。
莉緒は、笑顔の形の声で返した。
「大丈夫です」
『……何が“大丈夫”なんだ』
陸の声が、少しだけ荒くなる。
それだけで莉緒の胸が痛む。
(ほら)
(私がいるから、苛立つ)
(私が重いから)
莉緒は静かに言った。
「陸さん、無理をしないでください」
優しさの形をした、自己罰の言葉。
“私を切ってもいい”という許可。
電話の向こうで、陸の呼吸が止まった気がした。
『……莉緒、待て』
陸の声が強くなる。
強くなるほど、莉緒は怖い。
強い言葉は、期待を生む。
期待は、また傷を生む。
莉緒は、息を吸って言った。
「……私、もう……頑張れないかもしれません」
言ってしまった瞬間、涙が喉まで来た。
でも泣かない。
泣いたら計画が崩れる。
『……っ』
陸が何か言いかけて、言えない。
また飲み込む。
また黙る。
その沈黙が、莉緒の結論をさらに固めた。
(やっぱり、言えない)
(だから私は、身を引く)
莉緒は最後に、丁寧に言った。
「おやすみなさい」
電話を切る。
切った瞬間、胸が少しだけ楽になる。
楽になるほど、自分が冷たくなっていく。
夜。
莉緒はノートを閉じ、引き出しにしまった。
“身を引く準備”を、誰にも見せない場所へ。
窓の外で、細い雨が落ち始めた。
針みたいな雨が、ガラスを叩く。
(私が重いから)
(私がいなくなれば、皆が楽になる)
その自己罰は、切なくて、甘い毒だった。
莉緒はその毒を、静かに飲み込んだ。

