陸の胸の中には、刺さったままの言葉があった。
――「隼人がいるから」
莉緒が無意識に落としたその一言は、刃というより鉛だった。
重く、遅く、確実に沈んでいく。
怒りより先に、恐怖が来る。
(本当に、俺はいらないのか)
(本当に、隼人が——)
考えるほど、胸が締めつけられる。
それでも陸は、行動に移せない。
動けば、莉緒を巻き込む。
動けば、佐山を壊す。
——その“動けない”隙を、麗奈は正確に嗅ぎつける。
西条本社の夜。
執務フロアは静まり返り、窓の外の街明かりだけが白く滲んでいる。
陸は会議室に一人残り、赤い角印の封筒を前にしていた。
法務案件。
守秘。
九条家の不正の尻尾。
そして“佐山不動産”の名前。
——ノックが一つ。
城戸の声がする。
「陸様、九条様が……」
陸の指が止まる。
嫌な予感が背骨を上る。
それでも、拒絶できない。拒絶すれば、次に来るのが“表”だから。
「入れ」
扉が開く。
甘いのに冷たい香りが、部屋の空気を一段変えた。
九条麗奈は、今夜も完璧だった。
控えめなドレス、上品な微笑み、同情の目。
そして、どこにも“悪意”を置かない所作。
「夜分に失礼します、陸さま」
声は柔らかい。
柔らかいからこそ、拒絶しにくい。
陸は立ち上がらず、短く言った。
「用件は」
冷たく聞こえる声。
けれど麗奈は動じない。動じないことで、“正しい側”に立つ。
麗奈は机上の封筒をちらりと見た。
赤い角印。
そして、視線を陸の顔へ戻す。
「……佐山さまの件、進んでいるようですね」
その一言で、陸の胃が冷たくなった。
(知っている)
(こいつは、最初から)
陸は声を低くする。
「……何が言いたい」
麗奈は微笑んだ。
微笑みのまま、言葉の刃をゆっくり抜く。
「陸さまは、本当に責任感が強い方。——守るべきものを守るためなら、ご自分を削れる」
褒め言葉の形をした鎖。
麗奈は続ける。
嘘をつかない。
事実だけを、最悪の角度で並べる。
「佐山不動産、来月の返済が危ないと聞きました」
「このままでは、噂になります」
「噂になれば……婚約発表どころではなくなる」
噂。
また噂。
噂は、莉緒の心を刺してきた針。
今度は、家を刺す針になる。
陸は歯を食いしばった。
「どこから情報を——」
麗奈は遮らない。遮らず、静かに頷く。
「政財界は狭いんです。特に……銀行筋は」
当たり前の事実。
だから反論できない。
陸は低く言った。
「佐山には触れるな」
麗奈は、驚いたように目を丸くする。
驚いたふり。
でも目の奥は凪いでいる。
「触れていません。私はただ……心配しているだけです」
心配。
善意の仮面。
その仮面が、陸の動きをさらに縛る。
陸は拳を握りしめ、指の関節が白くなる。
「……条件は何だ」
言ってしまった瞬間、陸は自分に吐き気がした。
交渉の言葉だ。
莉緒を守るために、麗奈と交渉する自分。
麗奈は微笑んだ。
勝った顔ではない。
“当然の話”をする顔。
「簡単です」
麗奈は一歩、机に近づく。
距離を詰めても、圧は見せない。
圧を見せないのが、彼女の圧だ。
「佐山家を守りたいなら、私を“切り捨てない”でください」
切り捨てない。
つまり、否定しない。
つまり、距離を置かない。
つまり——莉緒の前でも、麗奈を守るように見える振る舞いを続けろ、ということ。
陸の胸が焼けた。
「ふざけるな」
短い声。
声が荒い。
荒くなるほど、自分が追い詰められている証拠。
麗奈は、傷ついたふりをする。
眉を下げ、唇を少しだけ震わせる。
“弱い女”の形。
「ふざけてなんていません。陸さま」
そして、決定打を小声で落とす。
誰にも聞こえない距離。
でも陸の胸だけに刺さる距離。
「佐山さま……莉緒さんは、耐えられますか?」
莉緒。
名前を出された瞬間、陸の背中に冷たい汗が滲んだ。
「週刊誌は、断片しか出しません」
「断片は、否定しづらい」
「否定しづらい断片を、少しずつ増やせば——」
麗奈は、微笑みを崩さずに続けた。
「莉緒さんは、もっと心を閉ざす」
「そして、発表は“形”だけになる」
「形だけになれば……佐山は守れます」
守れる。
その言葉が、陸の喉を締める。
(守るために、壊す)
(守るために、莉緒の心を——)
陸は息を吐いた。
息が震えた。
悔しい。
こんな脅しに、屈したくない。
でも現実がある。
佐山不動産の資金繰り。
父の顔。
母の目。
そして莉緒が背負わされている重さ。
麗奈はとどめを刺すように、さらに小さく囁いた。
「陸さま。あなたは選べます」
「莉緒さんの“家”を守るか」
「莉緒さんの“心”を守るか」
その二択は、最悪だった。
本来、両方守るべきものを、片方しか守れないように見せる。
それが麗奈のやり方。
陸は目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、莉緒の白い顔が浮かぶ。
吐き気を堪える姿。
「休ませてください」と言った声。
そして、隼人の傘の下で息をしていた横顔。
(失う)
(このままじゃ、失う)
陸は、低く言った。
「……分かった」
言ってしまった瞬間、胸の奥で何かが折れた。
折れたのは誇りだ。
折れたのに、守るために折れたと自分に言い聞かせるしかない。
麗奈は、勝ち誇らない。
勝ち誇らないことが、さらに残酷だ。
「ありがとうございます。陸さま」
丁寧に頭を下げる。
善意の人のように。
「私はただ……皆が傷つかない形を望んでいるだけです」
皆。
そこに莉緒の心は含まれていない。
含まれていないのに、“善意”の言葉として成立してしまうのが怖い。
麗奈は去り際に、もう一度だけ振り返った。
「発表会の席の件も……ご配慮、助かりました」
あれは事故じゃない。
でも陸は、否定できなかった。
否定しなかった。
否定できない事情があった。
扉が閉まる。
香りだけが残る。
甘くて冷たい香りが、陸の喉の奥を刺す。
城戸が静かに入ってきた。
陸の顔を見て、何も言わない。
言えないのだ。
ここがもう、崖だと知っているから。
陸はデスクに手をついた。
指先が冷たい。
息が苦しい。
(佐山を守るために)
(莉緒を守るために)
(俺は、何をしている)
答えは残酷だ。
陸は、莉緒の心を“今は”守れない。
だから、沈黙を選ぶ。
だから、麗奈を切れない。
その選択が、莉緒をさらに追い込むことを知りながら。
――「隼人がいるから」
莉緒が無意識に落としたその一言は、刃というより鉛だった。
重く、遅く、確実に沈んでいく。
怒りより先に、恐怖が来る。
(本当に、俺はいらないのか)
(本当に、隼人が——)
考えるほど、胸が締めつけられる。
それでも陸は、行動に移せない。
動けば、莉緒を巻き込む。
動けば、佐山を壊す。
——その“動けない”隙を、麗奈は正確に嗅ぎつける。
西条本社の夜。
執務フロアは静まり返り、窓の外の街明かりだけが白く滲んでいる。
陸は会議室に一人残り、赤い角印の封筒を前にしていた。
法務案件。
守秘。
九条家の不正の尻尾。
そして“佐山不動産”の名前。
——ノックが一つ。
城戸の声がする。
「陸様、九条様が……」
陸の指が止まる。
嫌な予感が背骨を上る。
それでも、拒絶できない。拒絶すれば、次に来るのが“表”だから。
「入れ」
扉が開く。
甘いのに冷たい香りが、部屋の空気を一段変えた。
九条麗奈は、今夜も完璧だった。
控えめなドレス、上品な微笑み、同情の目。
そして、どこにも“悪意”を置かない所作。
「夜分に失礼します、陸さま」
声は柔らかい。
柔らかいからこそ、拒絶しにくい。
陸は立ち上がらず、短く言った。
「用件は」
冷たく聞こえる声。
けれど麗奈は動じない。動じないことで、“正しい側”に立つ。
麗奈は机上の封筒をちらりと見た。
赤い角印。
そして、視線を陸の顔へ戻す。
「……佐山さまの件、進んでいるようですね」
その一言で、陸の胃が冷たくなった。
(知っている)
(こいつは、最初から)
陸は声を低くする。
「……何が言いたい」
麗奈は微笑んだ。
微笑みのまま、言葉の刃をゆっくり抜く。
「陸さまは、本当に責任感が強い方。——守るべきものを守るためなら、ご自分を削れる」
褒め言葉の形をした鎖。
麗奈は続ける。
嘘をつかない。
事実だけを、最悪の角度で並べる。
「佐山不動産、来月の返済が危ないと聞きました」
「このままでは、噂になります」
「噂になれば……婚約発表どころではなくなる」
噂。
また噂。
噂は、莉緒の心を刺してきた針。
今度は、家を刺す針になる。
陸は歯を食いしばった。
「どこから情報を——」
麗奈は遮らない。遮らず、静かに頷く。
「政財界は狭いんです。特に……銀行筋は」
当たり前の事実。
だから反論できない。
陸は低く言った。
「佐山には触れるな」
麗奈は、驚いたように目を丸くする。
驚いたふり。
でも目の奥は凪いでいる。
「触れていません。私はただ……心配しているだけです」
心配。
善意の仮面。
その仮面が、陸の動きをさらに縛る。
陸は拳を握りしめ、指の関節が白くなる。
「……条件は何だ」
言ってしまった瞬間、陸は自分に吐き気がした。
交渉の言葉だ。
莉緒を守るために、麗奈と交渉する自分。
麗奈は微笑んだ。
勝った顔ではない。
“当然の話”をする顔。
「簡単です」
麗奈は一歩、机に近づく。
距離を詰めても、圧は見せない。
圧を見せないのが、彼女の圧だ。
「佐山家を守りたいなら、私を“切り捨てない”でください」
切り捨てない。
つまり、否定しない。
つまり、距離を置かない。
つまり——莉緒の前でも、麗奈を守るように見える振る舞いを続けろ、ということ。
陸の胸が焼けた。
「ふざけるな」
短い声。
声が荒い。
荒くなるほど、自分が追い詰められている証拠。
麗奈は、傷ついたふりをする。
眉を下げ、唇を少しだけ震わせる。
“弱い女”の形。
「ふざけてなんていません。陸さま」
そして、決定打を小声で落とす。
誰にも聞こえない距離。
でも陸の胸だけに刺さる距離。
「佐山さま……莉緒さんは、耐えられますか?」
莉緒。
名前を出された瞬間、陸の背中に冷たい汗が滲んだ。
「週刊誌は、断片しか出しません」
「断片は、否定しづらい」
「否定しづらい断片を、少しずつ増やせば——」
麗奈は、微笑みを崩さずに続けた。
「莉緒さんは、もっと心を閉ざす」
「そして、発表は“形”だけになる」
「形だけになれば……佐山は守れます」
守れる。
その言葉が、陸の喉を締める。
(守るために、壊す)
(守るために、莉緒の心を——)
陸は息を吐いた。
息が震えた。
悔しい。
こんな脅しに、屈したくない。
でも現実がある。
佐山不動産の資金繰り。
父の顔。
母の目。
そして莉緒が背負わされている重さ。
麗奈はとどめを刺すように、さらに小さく囁いた。
「陸さま。あなたは選べます」
「莉緒さんの“家”を守るか」
「莉緒さんの“心”を守るか」
その二択は、最悪だった。
本来、両方守るべきものを、片方しか守れないように見せる。
それが麗奈のやり方。
陸は目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、莉緒の白い顔が浮かぶ。
吐き気を堪える姿。
「休ませてください」と言った声。
そして、隼人の傘の下で息をしていた横顔。
(失う)
(このままじゃ、失う)
陸は、低く言った。
「……分かった」
言ってしまった瞬間、胸の奥で何かが折れた。
折れたのは誇りだ。
折れたのに、守るために折れたと自分に言い聞かせるしかない。
麗奈は、勝ち誇らない。
勝ち誇らないことが、さらに残酷だ。
「ありがとうございます。陸さま」
丁寧に頭を下げる。
善意の人のように。
「私はただ……皆が傷つかない形を望んでいるだけです」
皆。
そこに莉緒の心は含まれていない。
含まれていないのに、“善意”の言葉として成立してしまうのが怖い。
麗奈は去り際に、もう一度だけ振り返った。
「発表会の席の件も……ご配慮、助かりました」
あれは事故じゃない。
でも陸は、否定できなかった。
否定しなかった。
否定できない事情があった。
扉が閉まる。
香りだけが残る。
甘くて冷たい香りが、陸の喉の奥を刺す。
城戸が静かに入ってきた。
陸の顔を見て、何も言わない。
言えないのだ。
ここがもう、崖だと知っているから。
陸はデスクに手をついた。
指先が冷たい。
息が苦しい。
(佐山を守るために)
(莉緒を守るために)
(俺は、何をしている)
答えは残酷だ。
陸は、莉緒の心を“今は”守れない。
だから、沈黙を選ぶ。
だから、麗奈を切れない。
その選択が、莉緒をさらに追い込むことを知りながら。

