幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

空は薄い灰色で、泣くほどではないのに、ずっと湿っている。
 雨が降らない日は、感情の逃げ場がない。
 莉緒は窓辺でそれをぼんやり眺め、呼吸の浅さをごまかすように肩をすくめた。

陸が部屋に来て、手首に触れた。
 触れられた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
 跳ねたのに、すぐ怖くなった。
 近づかれるほど、聞いてしまう。
 聞いたら、答えが怖い。
 だから莉緒は、また仮面を厚くした。

 それでも、手首の熱だけが残っている。
 残っているのが悔しい。

(まだ、期待してる)

 期待を殺したはずなのに。
 隼人の傘の下で息ができたはずなのに。
 陸の指先ひとつで、心が戻りそうになる自分が嫌だった。

 午前中、佐山家には西条側の段取り確認の連絡が入っていた。
 神原からの連絡内容を母が読み上げ、莉緒は淡々と頷く。
 “婚約者の仕事”が、容赦なく日常に戻ってくる。

 そして昼過ぎ、陸から直接、短い連絡が入った。
 “会えるか”。
 “少し話したい”。
 その文字は短いのに、莉緒の胸を掻き乱した。

 会う。
 話す。
 それは怖い。
 でも逃げ続ければ、父の会社も、婚約も、すべてが崩れる。

 莉緒は指定された場所へ向かった。
 西条グループの関連施設の小さな応接室。
 大袈裟な会場ではない。
 だから余計に、逃げられない。

 部屋に入ると、陸が立っていた。
 スーツのまま。ネクタイはきっちり締まっているのに、目の下に薄い影がある。
 眠れていない影。
 その影を見た瞬間、莉緒の胸が痛んだ。

(私のせいで?)
(でも、私だって——)

 言えない。
 言ったら、優しさに縋ってしまう。

「……莉緒」

 陸が呼んだ。
 声が低い。
 いつもより少しだけ焦りが混ざっている。

 莉緒は微笑んだ。
 完璧な婚約者の微笑み。

「お疲れさまです、陸さん」

 陸の眉がわずかに動く。
 その丁寧さが、距離そのものだと気づいている顔。

「……座れ」

「はい」

 座る。
 向かい合う。
 テーブルの上にはミネラルウォーターが二本。
 それが“話し合い”の舞台装置みたいに見える。

 沈黙が落ちる。
 陸が先に口を開いた。

「……昨夜は、悪かった」

 謝罪。
 莉緒の胸が一瞬、揺れた。
 揺れた瞬間に、また殺す。

「いえ。大丈夫です」

 大丈夫。
 また言ってしまう。
 言うたびに、心が遠ざかるのに。

 陸の顎が僅かに固くなる。

「“大丈夫”じゃない。……俺には分かる」

 分かる。
 分かるなら、どうして言わないの。
 どうして説明しないの。
 その問いが喉まで来て、莉緒は飲み込んだ。

 飲み込んだら、代わりに別の言葉が出る。

「陸さんも……お忙しいでしょうから」

 気遣いの形。
 拒絶の形。

 陸が一歩、近づこうとする気配があった。
 けれど踏み込まない。
 踏み込めない事情がある。
 その“事情”の匂いが、また胸を刺す。

「……今日、俺は」

 陸が言いかける。
 何か言おうとしている。
 言えば、やっと“違う”の続きが来るのかもしれない。

 莉緒の胸が危険なほど期待する。
 期待が生まれる前に、莉緒は自分でそれを殺そうとして——

「……すみません」

 口から出たのは謝罪だった。
 謝る必要なんてないのに。
 謝れば、この場が終わる気がしたから。

「私、あまり長くは——」

 言い切る前に、陸の声が被さった。

「逃げるな」

 低い。
 強い。
 けれど怒鳴り声ではない。
 縋る声に近い。

 莉緒の肩が僅かに跳ねる。
 強い言葉は怖い。
 でも、それ以上に怖いのは——強い言葉が“本気”を含んでいることだ。

「逃げてないです」

 莉緒は反射的に言った。
 逃げている。
 心はずっと逃げている。

 陸は一息で言う。

「……隼人といる時のお前は、違った」

 その一言で、莉緒の背筋が冷える。
 見られていた。

あの瞬間を。

 莉緒は視線を落とした。
 言い訳を探す。
 でも言い訳なんてない。
 隼人の傘の下で、息ができたのは事実だ。

 陸の声が低くなる。

「俺の前では笑うだけなのに、隼人の前では……息をしてた」

 息をしてた。
 言い当てられた瞬間、喉の奥が熱くなる。
 涙が出そうになる。
 出そうになって、莉緒は必死に瞬きをした。

「……それは」

 否定できない。
 否定したら嘘になる。
 嘘を重ねるほど、自分が汚れていく。

 莉緒は苦しくて、逃げ道を探してしまった。
 そして、無意識に——一番言ってはいけない言葉を出してしまう。

「……隼人が、いるから」

 言った瞬間、空気が止まった。

 莉緒自身が凍る。
 自分の声が、他人みたいに聞こえた。
 言葉が口を離れた瞬間に、取り返しがつかないと分かった。

(言っちゃった)
(今のは——)

 陸の表情が、真っ白になった。
 怒りではない。
 衝撃だ。
 胸を撃ち抜かれたような顔。

「……隼人が、いるから?」

 陸が反復する。
 声が、掠れている。

 莉緒は慌てて言い直そうとした。

「違います、そういう意味では——」

 でも、言い直した言葉は、火に油だった。
 “そういう意味ではない”と言った時点で、“そういう意味”が存在することを認めてしまう。

 陸の目が、暗く揺れる。
 嫉妬が、痛みに変わる。
 痛みが、怒りに変わる寸前の目。

「……俺は、いらないのか」

 低い声。
 それは問いではなく、恐怖だった。

 莉緒の胸が痛む。
 違う。
 いらないわけじゃない。
 いらないわけじゃないから、こんなに苦しい。

「陸さん……」

 呼んだのに、続ける言葉がない。
 “好き”と言えば縋ってしまう。
 “嫌いじゃない”と言えば嘘になる。
 “信じたい”と言えばまた傷つく。

 陸が一歩近づく。
 机越しに、距離が縮まる。
 縮まった分だけ、莉緒は反射的に肩を引いた。

 その反応が、陸を完全に刺した。

「……触れられるのも嫌か」

 声が低く、硬い。
 自分を保つために硬くしている声。

 莉緒は首を振った。
 振ったのに、言葉が追いつかない。

「嫌じゃないです。ただ……」

 ただ、が続かない。
 続けたら、壊れる。

 陸は笑いそうになった。
 笑っていない。
 痛みで口元が歪んだだけ。

「ただ、何だ」

 問い詰める声。
 問い詰められるほど、莉緒は閉ざすしかない。

 莉緒は、仮面の声で言った。

「……すみません。私、もう——」

 陸が、低く遮った。

「もう、何だ」

 その声が、怖い。
 怖いのに、胸の奥が震える。
 震えるのは、まだ好きだからだ。

 莉緒は俯き、絞り出すように言った。

「……今日は、ここまでにさせてください」

 逃げる言葉。
 でも逃げないと崩れる。

 陸の拳が、机の端で僅かに震えた。
 怒りではない。
 抑えきれない衝動を押さえつけている震え。

 陸は、低く言った。

「……分かった」

 分かった。
 その二文字が、終わりの音に聞こえる。

 莉緒は立ち上がり、頭を下げた。
 婚約者として完璧な角度で。

「失礼します」

 扉へ向かう。
 背中に陸の視線が刺さる。
 振り返りたい。
 でも振り返ったら縋ってしまう。

 扉の前で、陸が最後に言った。

「……隼人のところへ行け」

 その言い方が、冷たすぎた。
 突き放しではなく、諦めの色。

 莉緒の喉が痛む。
 言い返せない。
 言い返したら、泣いてしまう。

 扉を出た瞬間、莉緒は壁に手をついた。
 足が震える。
 息が苦しい。

(私が言った)
(私が……刺した)

 “隼人がいるから”
 その一言が、陸の中で何を壊したか、莉緒は分かってしまっている。

 そして、陸の中でも何かが決まる。
 このままでは失う。
 でも踏み込めない事情がある。
 その事情を、麗奈は嗅ぎつけている。

 次の章で、麗奈は陸に小声で追い込む。
 ——佐山の件を盾に。