幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 雨は降っていなかった。
 それなのに、陸の胸の中は嵐みたいだった。

 窓際の席。
 顔色の悪い莉緒。
 迷いなく支える隼人の手。
 そして——自分が一歩も踏み出せなかった事実。

(俺は、何をしてる)

 西条本社の夜は明るい。
 窓の外はビルの灯りで白く、会議室の蛍光灯は冷たく均一に照らす。
 その明るさが、陸の焦りをさらに暴く。

 机上には資料。
 九条家関連の案件。
 広報対応。
 そして——佐山不動産の資金繰りに関するメモ。

 陸はペンを握り、紙に何かを書こうとしてやめた。
 書いた瞬間、それが“決定”になる気がしたから。

 背後で、城戸が静かに言う。

「陸様、今夜はこれ以上は——」

 陸は低く言った。

「……莉緒を呼べ」

 城戸の眉が僅かに動く。
 止めたい。
 でも止められないと知っている顔。

「佐山邸へですか」

「ここへ」

 言い切る声が、すでに冷静ではない。
 冷静さの代わりにあるのは、恐怖だ。

(取られる)
(このままだと、本当に)

 城戸が少し間を置き、最低限の現実を差し出す。

「今、動くと……九条側が」

 九条。
 その名前だけで、陸の奥歯が鳴る。

「分かってる」

 分かっている。
 分かっているのに、止められない。

 ——数十分後。
 陸は佐山邸の玄関に立っていた。

 空気が違う。
 西条の“冷たい整い”とは違う、人の住む家の匂い。
 けれど今夜は、それすら陸の胸を焦がす。

 黒川が応対に出た。
 一瞬、驚いたように目を見開き、すぐにいつもの無表情に戻す。
 目撃者の目。
 “何かが起きている”ことを知っている目。

「西条様……」

「莉緒は」

 陸の声が、短い。
 短いほど、余裕がない。

「……お嬢さまは、お部屋に」

 黒川の言い方が慎重だった。
 “今日は、近づかない方がいい”という気配が混ざっている。
 だが陸は止まれない。

「通してくれ」

 黒川が迷う。
 迷った末に、小さく頭を下げた。

「……こちらへ」

 廊下を歩く。
 佐山邸の廊下は長い。
 長い廊下を歩くたび、陸は胸の奥が痛んだ。

(ここに莉緒がいる)
(なのに俺は、ずっと届かなかった)

 莉緒の部屋の前。
 ノックをする。

「莉緒」

 返事はない。
 陸はもう一度、声を落として呼ぶ。

「……莉緒。俺だ」

 沈黙。
 沈黙が、刃みたいに刺さる。

(また、閉じたままか)

 陸の中で焦りが膨らみ、言葉が荒くなりそうになる。
 だが陸は、それを飲み込んだ。
 飲み込んだ瞬間、余計に苦しい。

 ドアが少しだけ開いた。
 隙間から覗いたのは、莉緒の目ではなく、母の顔だった。

「陸さん……今日は」

 母の声は穏やかだ。
 穏やかだからこそ、拒絶がはっきりする。

「少しだけ、話をさせてください」

 陸が言うと、母は一拍置いた。
 その一拍の間に、陸は“判断されている”と感じた。
 西条の御曹司としてではなく、莉緒を傷つけた男として。

「……莉緒が嫌がったら、すぐに引いて」

 母がそう言って、道を開けた。

 部屋に入ると、照明は落とされていた。
 カーテンは半分閉まり、外の光が薄く差すだけ。
 その薄暗さが、莉緒の心の形みたいだった。

 ベッドの端に、莉緒が座っていた。
 髪はまとめられている。服も整っている。
 整っているのに、目だけが遠い。

 陸は、一歩近づく。
 近づくだけで、莉緒の肩が僅かに強張った。

 その反応が、陸の胸を刺す。

「……来ると思ってた?」

 陸が問うと、莉緒は小さく首を振った。

「……いいえ」

 声が小さい。
 でも、その小ささは“弱さ”ではなく“拒むための静けさ”だった。

 陸は、限界に近かった。
 嫉妬で。
 恐怖で。
 後悔で。

「……今日、お前」

 言いかけて、陸は言葉を変えた。
 責めたら終わる。
 でも、責めないと壊れる。

「……大丈夫だったのか」

 精一杯の、優しさの形。

 莉緒は微笑んだ。
 仮面の微笑み。
 でも、以前より薄い。

「大丈夫です」

 またその言葉。
 陸はそれを聞いた瞬間、頭の中が白くなった。

(大丈夫じゃないのに)
(大丈夫と言う)
(俺の前では、ずっと)

 陸は一歩、さらに近づいた。
 距離が縮まる。
 縮まるほど、莉緒は少しだけ顔を背ける。

 その仕草が、陸の中の何かを折った。

「……隼人」

 陸の口から、その名前が出た。
 自分でも驚くほど低い声だった。

 莉緒のまつ毛が、僅かに揺れる。
 それが答えだ。
 触れられたくない場所。

「今日……隼人といたな」

 言い方が、詰問に近い。
 近いのに、陸には止められない。

 莉緒は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
 怒りではなく、疲れの色。

「……はい。佐倉さんから、資料を受け取る予定があったので」

 正しい理由。
正しい理由は、陸の嫉妬を鎮めない。
 むしろ煽る。

「倒れかけたお前を、隼人が支えてた」

 陸の声が低くなる。
 喉の奥が焼ける。

「……俺の目の前で」

 その言葉に、莉緒が初めて陸を見る。
 目は冷静。
 でも、その冷静さが、陸には残酷だった。

「……そうですか」

 他人事みたいな返事。
 それが陸をさらに追い詰めた。

(俺の嫉妬を、気にも留めない)
(もう、どうでもいいのか)
(……俺が)

 陸の胸の奥で、恐怖が臨界点を越える。
 恐怖が、衝動に変わる。

 陸は、思わず莉緒の手首に触れた。
 強く掴むつもりはなかった。
 でも指先は、逃げ道を塞ぐほどしっかりと絡んでしまう。

「……やめて」

 莉緒が小さく言った。
 小さいのに、はっきりした拒絶。

 その拒絶が、陸の心を引き裂く。

「やめない」

 陸は言ってしまった。
 言ってしまった瞬間、自分が怖くなる。

「……お前が、どこかへ行くのが」

 言葉の続きが震える。
 誰にも見せたことのない弱さ。

 莉緒の目が僅かに揺れる。
 揺れて、すぐに凪ぐ。

「陸さん」

 呼び方が丁寧。
 丁寧さが距離を確定させる。

「私は……どこにも行きません」

 嘘だ。
 心はもう、離れかけている。
 でも嘘でも、その言葉に陸は縋りたくなる。

「なら、俺を見ろ」

 陸の声が低くなる。
 命令みたいで、懇願みたいで、自分でも分からない。

 莉緒の唇が僅かに震える。
 震えたのは、恐怖か、怒りか、悲しみか。
 陸には分からない。

 ——そして、現実が陸の手を引き剥がす。

 城戸のメッセージがスマートフォンに表示された。
 短い文字。
 しかし致命的。

『九条側、動き出しました。今夜の接触、危険です』

 危険。
 その二文字が、陸の血を冷やす。
 莉緒を守るために、ここで踏み込めない。

(まただ)
(また、守るために黙って)
(結果、失う)

 陸は歯を食いしばり、莉緒の手首から指を外した。
 外した瞬間、莉緒がわずかに息を吐く。
 その息が、陸には“解放”に見えてしまって、胸が痛んだ。

「……ごめん」

 陸が低く言う。
 謝罪のつもりなのに、すぐに次の言葉が続かない。
 続けば、理由を言わなければならないから。

 莉緒は微笑まなかった。
 ただ、静かに言った。

「……大丈夫です」

 また、その言葉。
 その言葉が、陸を殺す。

 陸は立ち上がった。
 立ち上がるしかなかった。
 今ここで抱きしめたら、莉緒を守れない。
 ——そういう現実がある。

 扉の前で、陸は振り返った。

「……莉緒。俺は」

 言いたい。
 言えない。
 言えないまま、言葉が途切れる。

 莉緒は目を伏せた。
 伏せた目が、陸の心に“終わり”をちらつかせる。

 陸は部屋を出た。
 廊下の冷たさが、胸に沁みた。

(暴走しそうだった)
(引き寄せたかった)
(でも、引き寄せたら——)

 陸は知っている。
 自分は今、壊れかけている。
 嫉妬で。
 恐怖で。
 そして何より、言えない事情で。