雨は降っていなかった。
なのに空気は重く、街の匂いが少し湿っている。
陸は車の後部座席で、指先をきつく握りしめていた。
眠れていない。
眠れないまま朝が来て、昼が来て、また夜になった。
瞼を閉じるたびに、莉緒が扉の向こうで目を閉じていた姿が浮かぶからだ。
(休ませてください)
(——俺から、離れたいってことか)
違う、と言い聞かせても、心は勝手に最悪の形に変換する。
陸はこの数日、ずっとその恐怖と戦っていた。
車内の前方から、城戸の声がする。
「陸様、本日のこの後の予定ですが——」
陸は短く言った。
「……今はいい」
城戸が一瞬、言葉を止める。
止めるのは、慣れている。
陸の“今は”は、いつも何かを飲み込む合図だ。
窓の外の景色が流れる。
ビル、信号、人の波。
世界は何も知らない顔で回っている。
陸は、携帯を握り直した。
莉緒に電話して、謝ればいい。
言えばいい。
「違う」ではなく、理由を。
自分の気持ちを。
——でも、言えない。
赤い角印の封筒が頭の中に浮かぶ。
守秘。脅迫。九条家。
言えば、莉緒を巻き込む。
(守るために黙る)
(……その結果、失う)
その矛盾が、陸の胸を焼く。
城戸が低く告げた。
「佐山様が、本日外出されています」
陸の指が止まる。
「……どこに」
「詳しくは不明です。ただ——一条隼人様が同行されています」
その名前を聞いた瞬間、陸の視界が一瞬だけ白くなった。
血が引く、という感覚が初めて分かった。
(隼人)
幼馴染。
莉緒の隣に自然に立てる男。
自分が今、一番怖い相手。
「……どこだ」
声が低くなった。
自分でも分かる。
冷静さが剥がれている。
城戸が僅かに眉を寄せ、慎重に言う。
「ホテルラウンジの可能性が高いです。佐倉美紗様の動きと一致しています」
ホテル。
その単語が、陸の胸に針を刺した。
(また、ホテル)
(また、俺の知らない場所で——)
陸は拳を握りしめた。
握りしめた骨がきしむ。
「……行く」
城戸が一拍置く。
「陸様、今は——」
「行く」
短い言葉。
短いほど、決定だった。
車がホテルの車寄せに滑り込む。
あの日と同じように、ガラスの扉が回り、甘い花の香りが流れてくる。
陸はそれを吸い込んだ瞬間、胃の奥が冷たくなるのを感じた。
ロビーの人混みを抜け、ラウンジへ向かう。
足音が絨毯に吸われる。
吸われるほど、心の音が大きくなる。
(莉緒)
(莉緒、どこだ)
探す目が、勝手に泳ぐ。
——見つけた。
窓際の席。
柔らかい照明の下で、莉緒が座っていた。
顔色はまだ白い。
肩が少し落ちている。
それだけで陸の胸は痛くなる。
(こんなに弱ってるのに)
(俺は、何もできてない)
その瞬間、隼人が莉緒の横にいた。
距離が近い。
近いのに、不自然じゃない。
不自然じゃないことが、陸の心を壊す。
莉緒がふらりと揺れた。
——倒れそうになる。
隼人の手が、迷いなく莉緒の肘を支えた。
支え方が自然すぎて、長い時間そうしてきたみたいだった。
陸の胸の奥で、何かが切れた。
(触るな)
声にならない叫びが、喉の奥で暴れる。
足が勝手に前へ出そうになる。
でも、出られない。
なぜなら——陸の隣に、麗奈がいたからだ。
今日の麗奈は“同行”しているわけじゃない。
会う約束ではない。
ただ、タイミングよく“ここにいる”だけ。
麗奈の香りが、甘く冷たく陸の鼻を刺す。
そして、麗奈の声が柔らかく言う。
「陸さま、こちらでしたのね。……大丈夫? お顔色が」
心配する声。
善意の声。
その善意が、陸の動きを縛る。
ここで騒げば、また憶測が増える。
ここで走れば、莉緒を巻き込む。
ここで隼人を押しのければ、莉緒が怯える。
——でも、見てしまった。
莉緒が隼人の肩に少しだけ体重を預ける瞬間を。
陸の視界が、狭くなる。
音が遠くなる。
心臓だけがうるさい。
(俺のものだ)
(……違う、そんな言い方は)
(でも、奪われる)
奪われる、という恐怖が、現実になる。
陸の手が震えた。
震えを隠すために、拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
城戸が陸の背後で小さく囁く。
「陸様、今は——」
今は。
またその言葉。
今は、黙れ。
今は、我慢しろ。
今は、負けろ。
陸は、笑いそうになった。
笑ったら、壊れる。
壊れたら、全部終わる。
視線の先で、隼人が莉緒に水を差し出す。
莉緒が小さく頷く。
その頷きが、陸には“信頼”に見えた。
(俺には、頷かなかった)
(俺には、目を閉じたままだった)
陸は喉の奥で息を押し殺した。
ここで名前を呼んだら、莉緒は振り向くだろうか。
振り向いた瞬間、隼人の手が離れるだろうか。
——そんな考えをした自分が、怖かった。
麗奈が、陸の袖に指先を添える。
添えるだけ。掴まない。
掴まないほど、上品で、外からは“ただの同伴者”に見える。
「陸さま、行きましょう。……お仕事、戻らないと」
優しい声。
正しい声。
正しいからこそ、陸を縛る声。
陸は、もう一度だけ莉緒を見た。
莉緒は気づいていない。
気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。
その瞬間、陸の中で何かが決まった。
(もう、黙れない)
(このままじゃ、本当に失う)
嫉妬が、臨界点に達した。
嫉妬は醜い。
でも今の陸にとっては、唯一の“生きている証拠”だった。
陸は、低く言った。
誰に向けた言葉でもない。
自分に向けた誓いのように。
「……次は、取り返す」
その言葉が、胸の奥で火になった。
火はすぐには燃えない。
でも確実に、陸を動かす火になる。
そして同時に、莉緒の中でも何かが始まる。
隼人の傘の下で息ができたことが、陸をさらに追い詰めることを、彼女はまだ知らない。
なのに空気は重く、街の匂いが少し湿っている。
陸は車の後部座席で、指先をきつく握りしめていた。
眠れていない。
眠れないまま朝が来て、昼が来て、また夜になった。
瞼を閉じるたびに、莉緒が扉の向こうで目を閉じていた姿が浮かぶからだ。
(休ませてください)
(——俺から、離れたいってことか)
違う、と言い聞かせても、心は勝手に最悪の形に変換する。
陸はこの数日、ずっとその恐怖と戦っていた。
車内の前方から、城戸の声がする。
「陸様、本日のこの後の予定ですが——」
陸は短く言った。
「……今はいい」
城戸が一瞬、言葉を止める。
止めるのは、慣れている。
陸の“今は”は、いつも何かを飲み込む合図だ。
窓の外の景色が流れる。
ビル、信号、人の波。
世界は何も知らない顔で回っている。
陸は、携帯を握り直した。
莉緒に電話して、謝ればいい。
言えばいい。
「違う」ではなく、理由を。
自分の気持ちを。
——でも、言えない。
赤い角印の封筒が頭の中に浮かぶ。
守秘。脅迫。九条家。
言えば、莉緒を巻き込む。
(守るために黙る)
(……その結果、失う)
その矛盾が、陸の胸を焼く。
城戸が低く告げた。
「佐山様が、本日外出されています」
陸の指が止まる。
「……どこに」
「詳しくは不明です。ただ——一条隼人様が同行されています」
その名前を聞いた瞬間、陸の視界が一瞬だけ白くなった。
血が引く、という感覚が初めて分かった。
(隼人)
幼馴染。
莉緒の隣に自然に立てる男。
自分が今、一番怖い相手。
「……どこだ」
声が低くなった。
自分でも分かる。
冷静さが剥がれている。
城戸が僅かに眉を寄せ、慎重に言う。
「ホテルラウンジの可能性が高いです。佐倉美紗様の動きと一致しています」
ホテル。
その単語が、陸の胸に針を刺した。
(また、ホテル)
(また、俺の知らない場所で——)
陸は拳を握りしめた。
握りしめた骨がきしむ。
「……行く」
城戸が一拍置く。
「陸様、今は——」
「行く」
短い言葉。
短いほど、決定だった。
車がホテルの車寄せに滑り込む。
あの日と同じように、ガラスの扉が回り、甘い花の香りが流れてくる。
陸はそれを吸い込んだ瞬間、胃の奥が冷たくなるのを感じた。
ロビーの人混みを抜け、ラウンジへ向かう。
足音が絨毯に吸われる。
吸われるほど、心の音が大きくなる。
(莉緒)
(莉緒、どこだ)
探す目が、勝手に泳ぐ。
——見つけた。
窓際の席。
柔らかい照明の下で、莉緒が座っていた。
顔色はまだ白い。
肩が少し落ちている。
それだけで陸の胸は痛くなる。
(こんなに弱ってるのに)
(俺は、何もできてない)
その瞬間、隼人が莉緒の横にいた。
距離が近い。
近いのに、不自然じゃない。
不自然じゃないことが、陸の心を壊す。
莉緒がふらりと揺れた。
——倒れそうになる。
隼人の手が、迷いなく莉緒の肘を支えた。
支え方が自然すぎて、長い時間そうしてきたみたいだった。
陸の胸の奥で、何かが切れた。
(触るな)
声にならない叫びが、喉の奥で暴れる。
足が勝手に前へ出そうになる。
でも、出られない。
なぜなら——陸の隣に、麗奈がいたからだ。
今日の麗奈は“同行”しているわけじゃない。
会う約束ではない。
ただ、タイミングよく“ここにいる”だけ。
麗奈の香りが、甘く冷たく陸の鼻を刺す。
そして、麗奈の声が柔らかく言う。
「陸さま、こちらでしたのね。……大丈夫? お顔色が」
心配する声。
善意の声。
その善意が、陸の動きを縛る。
ここで騒げば、また憶測が増える。
ここで走れば、莉緒を巻き込む。
ここで隼人を押しのければ、莉緒が怯える。
——でも、見てしまった。
莉緒が隼人の肩に少しだけ体重を預ける瞬間を。
陸の視界が、狭くなる。
音が遠くなる。
心臓だけがうるさい。
(俺のものだ)
(……違う、そんな言い方は)
(でも、奪われる)
奪われる、という恐怖が、現実になる。
陸の手が震えた。
震えを隠すために、拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
城戸が陸の背後で小さく囁く。
「陸様、今は——」
今は。
またその言葉。
今は、黙れ。
今は、我慢しろ。
今は、負けろ。
陸は、笑いそうになった。
笑ったら、壊れる。
壊れたら、全部終わる。
視線の先で、隼人が莉緒に水を差し出す。
莉緒が小さく頷く。
その頷きが、陸には“信頼”に見えた。
(俺には、頷かなかった)
(俺には、目を閉じたままだった)
陸は喉の奥で息を押し殺した。
ここで名前を呼んだら、莉緒は振り向くだろうか。
振り向いた瞬間、隼人の手が離れるだろうか。
——そんな考えをした自分が、怖かった。
麗奈が、陸の袖に指先を添える。
添えるだけ。掴まない。
掴まないほど、上品で、外からは“ただの同伴者”に見える。
「陸さま、行きましょう。……お仕事、戻らないと」
優しい声。
正しい声。
正しいからこそ、陸を縛る声。
陸は、もう一度だけ莉緒を見た。
莉緒は気づいていない。
気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。
その瞬間、陸の中で何かが決まった。
(もう、黙れない)
(このままじゃ、本当に失う)
嫉妬が、臨界点に達した。
嫉妬は醜い。
でも今の陸にとっては、唯一の“生きている証拠”だった。
陸は、低く言った。
誰に向けた言葉でもない。
自分に向けた誓いのように。
「……次は、取り返す」
その言葉が、胸の奥で火になった。
火はすぐには燃えない。
でも確実に、陸を動かす火になる。
そして同時に、莉緒の中でも何かが始まる。
隼人の傘の下で息ができたことが、陸をさらに追い詰めることを、彼女はまだ知らない。

