幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う


 朝の光は、やけに柔らかかった。
 優しい光ほど、壊れたものを目立たせる。
 莉緒はベッドの中でそのことを知ってしまっていて、カーテンを開ける気になれなかった。

 欠席から、二日。
 体は熱もないのに重い。
 胃がきゅっと縮んだまま、食事を受け付けない。
 喉の奥に何かが詰まっているみたいで、呼吸が浅い。

 母は「休んでいい」と言う。
 父は「無理しなくていい」と言う。
 ——誰も責めない。
 責めないほど、莉緒は自分を責める。

(私は、婚約者として失格)
(私は、弱い)

 けれど今日は、どうしても外へ出なければならなかった。
 母から「佐倉さんが渡したいものがある」と言われたからだ。
 慈善団体の書類かもしれない。
 発表会後の関係者への礼状の件かもしれない。
 どちらにしても、逃げ続けることはできない。

 莉緒はようやく着替え、髪をまとめ、薄化粧をした。
 鏡の中の顔は整っている。
 整っているほど、目の奥の空っぽさが目立つ。

 玄関で靴を履くと、黒川が静かに近づいた。

「お嬢さま、車を回します」

 いつもならそれで終わる。
 今日は、黒川がほんの一瞬だけ言い淀んだ。

「……一条様が、お見えです」

 心臓が小さく跳ねた。
 陸の名前じゃないのに跳ねる自分に、罪悪感が湧く。
 でも同時に、呼吸が少しだけ楽になるのも感じた。

 門の外、車のそばに隼人が立っていた。
 黒いジャケット。手には折り畳み傘。
 視線は鋭いのに、近づき方がうるさくない。

「よお」

 隼人の声はいつも通りだった。
 いつも通りの“普通”が、今は救いになる。

「……隼人」

 莉緒の声は小さかった。
 小さい声のままでも、隼人は聞き返さない。

「佐倉から連絡きた。今日は俺が付き添う」

 付き添う。
 その言葉が、胸に落ちる。
 押しつけじゃない。
 でも、逃げ道でもない。

「……ごめん」

 反射的に謝りそうになって、莉緒は唇を噛んだ。
 謝る癖を、少しだけ止めたい。
 でも止められない。

 隼人はぶっきらぼうに言った。

「謝るな。歩けるならそれでいい」

 歩けるなら。
 条件付きの優しさが、逆に安心だった。
 無理をさせない、という線引き。

 待ち合わせは街の小さなホテルラウンジだった。
 大ホールの名門ホテルではない。
 それだけで、少しだけ胸の圧が弱まる。

 けれど、ラウンジの入口に立った瞬間、莉緒の喉がひくりと震えた。
 ガラス、花、照明。
 “ホテル”という単語が、まだ心を刺す。

 隼人が莉緒の歩幅に合わせる。
 合わせるのに、前に出ない。
 背中を押さない。
 ただ隣にいる。

 それが、陸の優しさと違う。
 陸は理由を言わない優しさで、莉緒を孤独にした。
 隼人は理由を求めない優しさで、莉緒に息をさせる。

 ラウンジの席に着くと、佐倉美紗が駆け寄ってきた。

「莉緒! 来てくれてよかった……」

 美紗の目が潤んでいる。
 それを見た瞬間、莉緒の胸が痛くなる。
 自分が周りを心配させている事実が、また罪になる。

「……ごめんね」

「謝らないで。ほんとに、謝らないで」

 美紗が首を振る。
 隣で隼人が小さく息を吐いた。
 “謝る癖”を止めたい気持ちが、隼人にも伝わっている。

「これ、渡したくて」

 美紗が封筒を差し出す。
 中身は慈善団体からの礼状と、次回の打ち合わせ資料。
 それから、小さなメモが挟まっていた。

『莉緒へ。無理しないで。あなたは何も悪くない。私は味方だよ』

 たったそれだけの文字で、喉の奥が熱くなった。
 莉緒は笑おうとして、笑えない。
 涙も出ない。
 感情の出口が見つからない。

「……ありがとう」

 やっと、それだけ言えた。

 美紗は、隼人を見て小さく頷いた。
 “来てくれてありがとう”という目。
隼人は気づかないふりをして、コーヒーのメニューを閉じた。

「莉緒、なんか飲め」

 隼人の声は命令みたいで、でも優しい。
 莉緒は頷いた。

「……ココア」

「そればっかだな」

 隼人が言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。
 笑ったのではなく、緩めただけ。
 その“緩み”が、莉緒の胸を少しだけほどく。

 美紗が席を外し、スタッフが飲み物を運んでくる。
 湯気。
 甘い香り。
 両手で包むと、指先が温まる。

(温かい)

 温かさがあると、涙が出そうになる。
 出そうになって、莉緒は必死に瞬きをした。

 その瞬間、視界がふっと揺れた。

 ——足元が遠い。
 ——椅子の感触が薄い。
 ——音が少し遅れて聞こえる。

(また……)

 吐き気と同じ。
 心が限界になると、体が先に逃げる。

 莉緒の指がカップの縁から滑りそうになる。
 隼人がすぐに気づいた。

「莉緒」

 名前を呼ぶ声が低い。
 騒がない。
 騒がないことで、莉緒の恥を守る。

 隼人の手が、そっと莉緒の肘を支えた。
 力を入れすぎない。
 でも、落とさない。

 莉緒は息を吸おうとして、吸えない。
 喉が細い。
 胸が痛い。

「……大丈夫」

 また言ってしまいそうになって、莉緒は口を閉じた。
 大丈夫じゃない。
 今日だけは、その嘘をやめたかった。

 隼人が短く言う。

「大丈夫じゃない顔だ。立つな。座ってろ」

 命令みたいで、でも救い。
 莉緒は頷くしかない。

 隼人はスタッフに目配せし、静かに水を頼んだ。
 大げさにしない。
 その大げさにしない優しさが、莉緒の心を守る。

 美紗が戻ってきて、莉緒の顔色を見て息を呑んだ。

「莉緒……」

「平気。……ちょっとだけ」

 言いかけて、言葉が切れる。
 平気じゃない。
 でも、平気じゃないと言ったら、今度こそ壊れる。

 隼人が美紗に言った。

「今日はここまでだ。送る」

 “送る”という言葉が、莉緒の胸を震わせた。
 陸の「送る」とは違う。
 隼人の「送る」は、理由が要らない。

 会計を済ませ、ラウンジを出る。
 外の空気が冷たくて、莉緒は少しだけ息を吸えた。
 吸えた瞬間に、足元がふらりとした。

 隼人が迷いなく、莉緒の肩を支える。
 支え方が自然すぎて、周囲の目がそれを“当たり前”と認識してしまう。
 それが、後で致命傷になる。

 莉緒は小さく言った。

「……隼人、ごめん」

「謝るな」

 また、ぶっきらぼうに。
 そのぶっきらぼうが、莉緒の胸を少しだけ楽にした。

 車寄せへ向かう途中、ふいに莉緒は気づく。
 視線。
 どこかから刺さる視線。

 振り返る勇気がない。
 振り返ったら、また“誰かに見られている”世界に戻る。

 でも、隼人が一瞬だけ、目を細めた。
 誰かを見た目だった。