幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 夜は、静かすぎた。
 西条本邸の廊下は広く、広いぶん音が消える。消えるぶん、心の音だけが残る。

 陸は自室のデスクに向かっていた。
 書類は整列している。ペンも時計も、いつもの位置。
 完璧に整っているのに、頭の中だけが散らかっている。

 ——莉緒が欠席した。
 ——扉の前で目を閉じたまま、名前を呼んでも開かなかった。
 ——「今日は休ませてください」

 その言葉が、何度も脳内で反響する。
 拒絶ではないはずなのに、陸の心は“拒絶”として受け取ってしまう。

(嫌われた)
(……俺は、嫌われた)

 そう思った瞬間、胃の奥が冷たくなる。
 冷たさが背骨を上り、肩の力を奪う。

 陸はネクタイを外し、シャツの襟元を緩めた。
 息がしづらい。
 呼吸はしているのに、肺の奥まで空気が届かない。

 スマートフォンに指を伸ばし、莉緒の番号を開く。
 押したい。
 でも押せない。
 押しても、また「大丈夫です」と言われる気がする。
 押しても、また丁寧に距離を取られる気がする。

 陸は画面を伏せた。
 伏せた瞬間、胸の奥が痛んだ。
 自分がこんなふうに、弱いことが許せない。

(俺は、何をしてる)

 ふと、デスクの端に置かれたメモが目に入る。
 城戸が置いていった簡潔な行動予定。
 神原からの広報対応の要点。
 “九条家にはこちらから連絡済み”という一文。

 九条。
 その名前が出ただけで、陸の奥歯が噛み締められる。

(あいつのせいで)
(いや……違う)
(悪いのは、俺だ)

 陸は分かっている。
 莉緒に言えなかった。
 言わなかった。
 守るために黙った――つもりで、結果的に一番傷つけた。

 部屋の隅で、時計が鳴る。
 深夜を告げる音。
 音が鳴っただけで焦りが増す。
 時間が進むほど、莉緒が遠ざかる気がする。

 ベッドに入っても、眠れなかった。
 目を閉じると、光景が蘇る。

 発表会の壇上。
 陸の隣に座る麗奈。
 舞台袖で、笑顔の仮面を貼り付けて立つ莉緒。

 ——あのとき、止められたはずだ。
 ——あのとき、麗奈の席を変えられたはずだ。
 ——あのとき、莉緒の隣に立てたはずだ。

 陸は枕に顔を押しつけた。
 息が苦しい。
 胸の奥が焼ける。

 ふいに、ドアがノックされた。

「陸」

 会長――父の声。

 陸は起き上がり、短く返事をした。

「……どうぞ」

 扉が開き、会長が入ってくる。
 夜でも背筋が崩れない人だ。
 その姿勢が、陸をさらに追い詰める。

「眠れていない顔だな」

 会長の声は淡々としている。
 心配ではなく、観察。

「……少し」

「少しで済むなら、いい」

 会長は窓の外を一瞥して言った。

「婚約発表は予定通り進める。今日の件は――処理した」

 処理。
 その言葉が、陸の胸を刺す。
 莉緒の心は“処理”できない。
 なのに父は、数字と段取りのように言う。

「……莉緒は」

 陸が名前を出した瞬間、会長の目がわずかに細くなる。

「佐山の令嬢なら、分別はある。多少の動揺は時間が解決する」

 時間が解決する。
 その言葉は、陸の中で最悪の形に変換された。

(時間が経てば、戻らない)
(時間が経てば、完全に閉ざす)
(俺が取り返しのつかないことをした)

 会長は続けた。

「それよりも、九条家への配慮を怠るな。余計な敵を作るな」

 九条家。
 配慮。
 またその言葉。

 陸の喉が鳴る。
 苛立ちと、焦りと、後悔が絡まって、言葉が鋭くなりそうになる。

「……父上。俺は——」

 会長は遮った。

「感情で動くな。西条は感情で勝たない」

 その一言で、陸の胸の奥にあるものが、さらに窒息した。
 感情で動けない。
 言葉にできない。
 だから、莉緒が壊れた。

 会長が出ていく。
 扉が閉まる。
 静けさが戻る。
 戻った静けさは、今までより残酷だった。

 陸はスマートフォンを手に取り、莉緒の画面を開いた。
 指が震える。
 震える指で、通話ボタンの上をなぞる。

 押したい。
 でも押せない。
 押しても、言えないままだから。
 押しても、同じことを繰り返すだけだから。

(言え)
(言えよ)
(守るために黙るなんて、ただの言い訳だ)

 陸は自分に腹が立った。
 莉緒にじゃない。
 麗奈にじゃない。
 自分に。

 ふと、机の上の封筒が目に入る。
 赤い角印。
 法務案件の印。
 触れた瞬間、指先が冷える。
 ——これがある限り、軽々しく言えない。
 それが、陸の現実だった。

(でも、言えないで失うくらいなら)
(全部捨ててもいい)

 そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
 熱くなったのに、体は冷たい。
 矛盾が、眠りを奪う。

 陸はベッドに戻り、天井を睨む。
 眠れない。
 眠ると、明日が来る。
 明日が来れば、莉緒がさらに遠ざかる。

 ——深夜二時。
 ——三時。
 ——四時。

 時計の針だけが進む。
 陸の心だけが置き去りになる。

 薄い光がカーテンの隙間から差し込む頃、陸はようやく理解した。

 自分は怖いのだ。
 莉緒がいなくなることが。
 莉緒が心を閉ざして、二度とこちらを見なくなることが。

 それが、恋の恐怖だと気づいたとき、陸は初めて自分が“手遅れ”に近づいていることを知った。