幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 翌朝、莉緒は目を覚ました瞬間から、世界が遠かった。

 天井の白が眩しい。
 カーテンの隙間から差し込む光が、刃みたいに鋭い。
 昨夜の発表会の照明が、そのまま瞼の裏に残っているみたいだった。

 ——陸の隣に座る麗奈。
 ——“正しい理由”で奪われた席。
 ——拍手とフラッシュの中で言わされた「幸せです」。

 思い出すたびに、胸の奥が冷たく軋む。
 泣けないのに、息ができない。
 息ができないのに、顔は平静を保とうとする。

 起き上がろうとして、視界が揺れた。
 身体が先に拒否する。
 胃のあたりが、きゅっと縮む。

(……無理)

 無理だ、と心が言うより早く、体が言った。

 ベッドの脇に置かれた水を一口飲もうとして、手が震える。
 コップの縁が歯に当たり、乾いた音がした。
 その音がひどく情けなくて、莉緒は目を閉じた。

 ノックの音。

「莉緒、起きてる?」

 母の声だ。
 優しい。優しいのに、今は怖い。
 優しい声に触れたら、壊れてしまう気がする。

「……うん」

 返事はできた。
 返事はできる。
 だから余計に、自分が壊れていることが悔しい。

 扉が静かに開いて、母が入ってくる。
 湯気の立つハーブティーのカップを持っている。
 その湯気が、昨日の舞台の光と違って、柔らかい。

「顔、白いよ。大丈夫?」

 大丈夫。
 またその言葉。
 この家でも、逃げ道が“大丈夫”しかなくなる。

 莉緒は微笑もうとして、微笑めなかった。
 口角が動かない。
 動かないことが、答えだった。

 母がベッドの端に座り、莉緒の額に手を当てる。
 熱はない。
 でも、冷たい汗が薄く滲んでいる。

「……今日は予定があるの?」

 母は知っているはずだ。
 発表会の翌日は、関係者への挨拶、取材のフォロー、企業側の会食。
 “婚約者”としての仕事が山ほどある。

 莉緒は、喉の奥で言葉を探した。
 探して、見つからない。
 見つからないまま、息だけが浅くなる。

「……行けない」

 やっと出た声は、小さかった。
 小さすぎて、自分でも驚いた。

 母の目が揺れる。
 揺れるのに、すぐに微笑む。
 微笑むことで、莉緒を責めないように。

「そう。……じゃあ、休もう」

 その言葉が、逆に胸を痛めた。
 休んでいいと言われるほど、今の自分が情けなくなる。

(私が弱いから)
(堂々とできないから)
(隣の席を奪われても、笑うしかなくて)

 責めたいのは麗奈じゃない。
 責めたいのは陸じゃない。
 ——本当は、責めたい。
 でも責められない。
 だから、自分を責める。

 スマートフォンが震えた。
 画面に出る名前。

 【陸】

 心臓が跳ねる。
 跳ねた瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。

 出たら、何を言えばいい?
 「昨日、あなたの隣は私じゃなかった」?
 「私、笑ってたよね」?
 言えば壊れる。
 言わなくても壊れる。

 莉緒は画面を伏せた。
 伏せた瞬間、胸が少しだけ楽になる。
 楽になるほど、罪悪感が湧く。

 母がスマートフォンを見ないふりをした。
 見ないふりの優しさが、また痛い。

 ——数分後。
 玄関の方で足音がした。
 家の空気が変わる。
 “外の人”が入ってきた気配。

 黒川の低い声が聞こえる。

「西条様、お越しでございます」

 陸が来た。
 来てしまった。

 莉緒の胸が、どくんと鳴る。
 嬉しい、ではない。
 怖い、だ。

(見られたくない)
(弱い私を見られたくない)
(それなのに、会いたい)

 矛盾が胸を裂く。

 母が立ち上がり、静かに言った。

「私が対応する。莉緒は無理しないで」

 無理。
 無理という言葉が、逃げ道になる。
 逃げ道にすがる自分が、惨めだ。

 廊下の向こうで、陸の声がした。

「……莉緒は」

 母が答える。

「体調が優れないの。今日は休ませるわ」

 休ませる。
 “婚約者の仕事”を休む。
 それは逃げだ。
 でも逃げないと、壊れる。

 陸の足音が近づく。
 扉の前で止まる。
 ノック。

「莉緒」

 陸の声は低い。
 昨日の舞台とは違う、少しだけ柔らかい声。
 その柔らかさが、今は凶器だった。
 触れたら泣いてしまうから。

 莉緒は答えられなかった。
 喉が動かない。
 返事をしたら、扉が開く。
 扉が開いたら、心の扉も開いてしまう。

 もう開けたくない。
 開けたら、昨日の席の光景が流れ込んでくる。

「莉緒……入るぞ」

 陸が言う。
 入ってきてほしい気持ちと、入ってきてほしくない気持ちが同時に胸を叩く。

 母が廊下から声を落として言った。

「陸さん、今日は——」

「少しだけでいい」

 陸の声が強い。
 焦りが混ざっている。

 扉が開く。
 陸が入ってきた。

 黒いスーツ。
 目の下に薄い影。
 疲れている。
 なのに、莉緒は“私のせいだ”と勝手に思ってしまう。

「……大丈夫か」

 陸がベッドの端に座ろうとして、躊躇する。
 触れていい距離を測っているみたいに。

 莉緒は微笑みを作れなかった。
 仮面が、今日は顔に貼りつかない。

「……大丈夫、です」

 声が小さい。
 それでも、言ってしまう。
 言わないと、婚約者として失格みたいだから。

 陸の眉が寄る。

「大丈夫じゃない顔だ」

 その言葉に、莉緒の胸がきゅっと縮む。
 見抜かないでほしい。
 見抜かれたら、全部出てしまう。

 陸が言った。

「昨日のことは——」

 昨日。
 その単語だけで、莉緒の視界が揺れる。
 陸の隣の麗奈。
 フラッシュ。
 「幸せです」。

 莉緒の喉が詰まる。
 呼吸が苦しい。
 体が冷える。

 陸が続けようとした瞬間、莉緒の体が先に拒否した。
 胃が、ぐっと持ち上がる。
 指先が痺れる。

「……っ」

 莉緒は口元を押さえ、ベッドの端に身を屈めた。
 吐くほどではない。
 でも、吐き気は本物だ。
 心が限界を迎えると、体が先に逃げる。

「莉緒!」

 陸が慌てて立ち上がる。
 その慌て方が、彼の本心を少しだけ見せる。
 見せるから、余計に痛い。

 母がすぐに駆け寄り、陸に落ち着くよう手で合図する。

「大丈夫。……ただ、無理が重なっただけ」

 無理。
 無理をしていた。
 笑う無理。
 飲み込む無理。
 座られた席を見ない無理。

 陸が、声を落とした。

「……俺が、何かしたのか」

 その問いに、莉緒は答えられなかった。
 答えたら、陸を傷つける。
 答えたら、自分も壊れる。

 沈黙の中で、莉緒はやっと気づいた。
 自分はもう、戦えない。
 怒れない。
 聞けない。
 信じる材料がない。

 だから体が先に逃げた。
 欠席するという形で、舞台から降りた。

「……ごめんなさい」

 莉緒の口から出たのは謝罪だった。
 謝る必要なんてないのに、謝る。
 謝ることで、相手を責めないために。

 陸の表情が、ひどく苦しそうに歪んだ。

「謝るな」

 低い声。
 怒りではなく、痛みの声。

「……俺は、お前に」

 陸が何か言いかける。
 でも、また飲み込む。
 言えない事情がある。
 言い切れない真実がある。

 莉緒はそれを見て、心が静かに折れた。

(やっぱり、言えない)
(私には言えない)
(だから、私は——)

 莉緒は目を閉じた。
 閉じることで、世界を止める。

「……今日は、休ませてください」

 それは、お願いの形をした撤退だった。
 拒絶ではない。
 でも、距離を確定させる言葉。

 陸が息を呑む。
 何か言いたいのに、言えない目。

 母が静かに言った。

「陸さん。今日はここまでにしましょう。莉緒が壊れてしまう」

 壊れる。
 その言葉が、莉緒の胸に落ちる。
 壊れている。
 もう、半分。

 陸が立ち上がる。
 足音が重い。
 扉へ向かう背中が、いつもより大きく見えた。

 扉の前で、陸が振り返った。

「……莉緒」

 名前を呼ぶ声が、震えていた。

 莉緒は目を開けなかった。
 開けたら、縋ってしまう。
 縋ったら、惨めになる。
 惨めになったら、もう立てない。

 扉が閉まる。
 その音が、舞台の幕が下りる音みたいに聞こえた。

 ——その日、莉緒は“欠席”という形で逃げた。
 逃げたのは卑怯だからではない。
 心が折れて、体が先に逃げたからだ。

 そしてその欠席は、陸の中で最悪の誤解になる。
 「嫌われた」
 「捨てられる」
 その恐怖が、次の夜から陸を壊し始める。