発表会当日の朝は、驚くほど静かだった。
空は薄い雲に覆われているのに、雨の気配がない。
その“泣けない天気”が、莉緒には残酷だった。
鏡の中の自分は、完璧だった。
髪は艶やかにまとめられ、淡い色のドレスは体にぴたりと合う。
耳元の宝石は上品に光り、指先のネイルも整っている。
――完璧に整えられているほど、“私の意志”が薄くなる。
母が背後からネックレスを留めながら言った。
「大丈夫。……あなたは、とても綺麗よ」
綺麗。
褒め言葉なのに、涙が出そうになる。
「ありがとう、お母さま」
莉緒は微笑んだ。
いつものように。
仮面のように。
会場は名門ホテルの大ホールだった。
ガラスの回廊、磨かれた大理石、白い花。
ホテルの匂いは、莉緒の胸を締めつける。
——雨の日のロビーが、呼吸の奥から蘇る。
控室へ案内される途中、モニターが目に入った。
「本日:西条グループ婚約発表」
大きな文字で表示されている。
世間の中で、もう出来事は完成している。
当人の心が追いつく前に。
神原が控室で段取りを確認し、城戸が淡々と時間を告げる。
皆が“正しい仕事”をしている。
正しい仕事の中に、莉緒の心だけが置き去りになる。
「莉緒様、次の導線はこちらです。撮影はこの位置。発表コメントはこの順に」
神原の声は丁寧だ。
丁寧であるほど、怖い。
丁寧な言葉は、拒否を許さない。
莉緒は頷いた。
頷ける自分が怖い。
そこへ、陸が入ってきた。
黒のタキシード。
整った横顔。
いつもより少しだけ疲れた目元。
——それでも、陸は完璧だった。
“御曹司”として。
“発表会の主役”として。
「……莉緒」
陸が名前を呼ぶ。
それだけで胸が跳ねる。
跳ねた瞬間、また自分で殺す。
(期待しない)
(今日は、舞台)
莉緒は微笑んだ。
「お疲れさまです、陸さん」
丁寧すぎる声。
その丁寧さに、陸の瞳が一瞬だけ揺れた。
陸が何か言いかける。
けれど城戸が咳払いを一つ。
小さな音が、空気を切る。
「……時間です」
城戸の声が、会話の余白を奪う。
奪われた余白に、また“言えない事情”が残る。
舞台袖へ向かう。
照明が眩しい。
客席のざわめきが、波のように押し寄せる。
心臓がうるさい。
でも表情は動かさない。
動かしたら、崩れるから。
——発表会が始まった。
会長の挨拶。
拍手。
フラッシュ。
記者のペンの音。
陸が紹介され、ステージ中央へ進む。
その歩き方は迷いがない。
迷いがないほど、莉緒は怖い。
次に呼ばれるのは、莉緒のはずだった。
段取りはそうなっていた。
練習も、台本も、導線も。
なのに。
ステージ袖の係員が、ほんの一瞬、顔色を変えた。
インカム越しに短く何かを言い、周囲が微かに動く。
神原が一歩前へ出る。
城戸が眉を寄せる。
“予定外”の匂い。
——その瞬間、客席側の扉が開いた。
空気が一段冷える。
誰かが入ってくる気配。
そして、甘いのに冷たい香りが流れ込む。
(来た)
莉緒は見なくても分かった。
身体が先に恐れる。
九条麗奈。
白に近い淡いドレス。
派手ではないのに、照明を奪う。
まるで“ここに立つため”に選ばれた色。
場がざわめく。
「九条令嬢?」
「なぜ?」
囁きが波になって広がる。
莉緒の足が、床に縫い付けられたみたいに動かない。
この場で一番動いてはいけないのは、婚約者だ。
そう教えられてきた。
麗奈は、驚いた顔をしている。
驚いた顔の作り方まで完璧だった。
「……すみません、遅れてしまって」
それは謝罪の形をしている。
けれど、謝罪は舞台への入場券になる。
神原がすぐに近づき、低い声で何かを告げようとする。
だが麗奈は微笑みを崩さず、客席に向けて軽く会釈をした。
“私も関係者です”と言わんばかりに。
莉緒の喉が、ひくりと鳴った。
息ができない。
(どうして、ここにいるの)
(招待されたとしても、今じゃない)
(今この瞬間に現れるのは——)
仕掛けだ。
そう思うのに、証拠はない。
証拠がないからこそ、もっと怖い。
陸が、ステージ中央から視線を向けた。
一瞬だけ驚いた目。
そして次の瞬間、表情を整える。
整える、という行為は残酷だ。
残酷なくらい、陸は“場”を優先できる。
麗奈が、ふらりとよろめいた。
ほんの少し。
誰もが「大丈夫?」と反射する程度。
陸が動いた。
ステージから降りるには遠い。
だが最前列にいたスタッフが麗奈を支えようとするより早く、陸の足が一歩、前へ出た。
動いたのは“心”ではなく“反射”かもしれない。
それが最も残酷だった。
城戸が低く言う。
「陸様——」
止める声。
でも止まらない。
陸は結局、ステージの端で止まり、神原が麗奈を控室へ誘導しようとする。
その一瞬――
麗奈の指先が、陸の袖を掴んだ。
掴むというより、触れる。
触れるだけで、恋人の距離になる角度。
莉緒の視界に入る角度。
莉緒の心が、音を立てて崩れた。
(私の見ている前で)
(堂々と)
(当たり前みたいに)
そして何より――
陸はその手を振り払わなかった。
振り払えなかったのか。
振り払わなかったのか。
莉緒にはもう、判別できない。
神原が素早く場を整える。
「皆さま、少々進行を調整いたします。すぐ再開いたしますので――」
再開。
この状況で、再開する。
莉緒の体が冷える。
手の先が痺れる。
世界が遠い。
——そして決定的だったのは、“席”だった。
司会が再びマイクを握り、会長が短く補足する。
段取りを戻そうとする。
その“戻し方”の中で、誰かが判断した。
麗奈は客席ではなく、壇上近くの関係者席に案内された。
しかも、陸のすぐ隣に。
“事故”の処理として。
“体調が悪い令嬢”の安全のために。
“九条家への配慮”として。
理由は正しい。
正しいから、誰も反対できない。
莉緒だけが、息ができない。
(隣が、私の席じゃない)
(最初から、そういうこと?)
莉緒は舞台袖で、台本を握りしめた。
紙が少しだけ皺になる。
それが、自分の心の皺みたいで嫌だった。
神原が駆け寄ってくる。
低い声で囁く。
「莉緒様、予定を変更します。コメントは短く。笑顔で。大丈夫です」
大丈夫。
またその言葉。
大丈夫であるはずがないのに。
莉緒は微笑んだ。
仮面を貼り付ける。
「……分かりました」
舞台に出る。
照明が眩しい。
フラッシュが眩しい。
眩しいほど、涙が出そうになる。
陸の隣に、麗奈が座っている。
麗奈は気づかないふりをしている。
気づかないふりが完璧すぎる。
莉緒は台本通りに挨拶した。
“幸せです”
“支え合って”
“温かく見守って”
言葉が喉を裂く。
裂いても、声は揺れない。
揺れないように、心を殺してきたから。
記者の質問が飛ぶ。
神原が制限する。
場は進む。
進むほど、莉緒の中の何かが終わっていく。
終わったのは、夢だ。
“唯一の人”に選ばれる夢。
控室に戻った瞬間、莉緒は壁に手をついた。
息が吸えない。
吸えないのに、泣けない。
泣いたら“負け”になる気がする。
母が駆け寄る。
けれど母の声は遠い。
「莉緒……!」
莉緒は小さく笑ってしまった。
笑うしかない。
「大丈夫」
大丈夫じゃない。
でもそう言うしかない。
鏡に映る自分の顔は、白かった。
唇は微笑みの形を保っているのに、目だけが空っぽだった。
――“事故”は、偶然の顔をしていた。
でも莉緒の心は知ってしまう。
麗奈は、莉緒の視界に入る瞬間だけ、陸に触れた。
そして、誰にも反対できない“正しい理由”で、陸の隣に座った。
嘘がないから、怒れない。
怒れないから、崩れる。
空は薄い雲に覆われているのに、雨の気配がない。
その“泣けない天気”が、莉緒には残酷だった。
鏡の中の自分は、完璧だった。
髪は艶やかにまとめられ、淡い色のドレスは体にぴたりと合う。
耳元の宝石は上品に光り、指先のネイルも整っている。
――完璧に整えられているほど、“私の意志”が薄くなる。
母が背後からネックレスを留めながら言った。
「大丈夫。……あなたは、とても綺麗よ」
綺麗。
褒め言葉なのに、涙が出そうになる。
「ありがとう、お母さま」
莉緒は微笑んだ。
いつものように。
仮面のように。
会場は名門ホテルの大ホールだった。
ガラスの回廊、磨かれた大理石、白い花。
ホテルの匂いは、莉緒の胸を締めつける。
——雨の日のロビーが、呼吸の奥から蘇る。
控室へ案内される途中、モニターが目に入った。
「本日:西条グループ婚約発表」
大きな文字で表示されている。
世間の中で、もう出来事は完成している。
当人の心が追いつく前に。
神原が控室で段取りを確認し、城戸が淡々と時間を告げる。
皆が“正しい仕事”をしている。
正しい仕事の中に、莉緒の心だけが置き去りになる。
「莉緒様、次の導線はこちらです。撮影はこの位置。発表コメントはこの順に」
神原の声は丁寧だ。
丁寧であるほど、怖い。
丁寧な言葉は、拒否を許さない。
莉緒は頷いた。
頷ける自分が怖い。
そこへ、陸が入ってきた。
黒のタキシード。
整った横顔。
いつもより少しだけ疲れた目元。
——それでも、陸は完璧だった。
“御曹司”として。
“発表会の主役”として。
「……莉緒」
陸が名前を呼ぶ。
それだけで胸が跳ねる。
跳ねた瞬間、また自分で殺す。
(期待しない)
(今日は、舞台)
莉緒は微笑んだ。
「お疲れさまです、陸さん」
丁寧すぎる声。
その丁寧さに、陸の瞳が一瞬だけ揺れた。
陸が何か言いかける。
けれど城戸が咳払いを一つ。
小さな音が、空気を切る。
「……時間です」
城戸の声が、会話の余白を奪う。
奪われた余白に、また“言えない事情”が残る。
舞台袖へ向かう。
照明が眩しい。
客席のざわめきが、波のように押し寄せる。
心臓がうるさい。
でも表情は動かさない。
動かしたら、崩れるから。
——発表会が始まった。
会長の挨拶。
拍手。
フラッシュ。
記者のペンの音。
陸が紹介され、ステージ中央へ進む。
その歩き方は迷いがない。
迷いがないほど、莉緒は怖い。
次に呼ばれるのは、莉緒のはずだった。
段取りはそうなっていた。
練習も、台本も、導線も。
なのに。
ステージ袖の係員が、ほんの一瞬、顔色を変えた。
インカム越しに短く何かを言い、周囲が微かに動く。
神原が一歩前へ出る。
城戸が眉を寄せる。
“予定外”の匂い。
——その瞬間、客席側の扉が開いた。
空気が一段冷える。
誰かが入ってくる気配。
そして、甘いのに冷たい香りが流れ込む。
(来た)
莉緒は見なくても分かった。
身体が先に恐れる。
九条麗奈。
白に近い淡いドレス。
派手ではないのに、照明を奪う。
まるで“ここに立つため”に選ばれた色。
場がざわめく。
「九条令嬢?」
「なぜ?」
囁きが波になって広がる。
莉緒の足が、床に縫い付けられたみたいに動かない。
この場で一番動いてはいけないのは、婚約者だ。
そう教えられてきた。
麗奈は、驚いた顔をしている。
驚いた顔の作り方まで完璧だった。
「……すみません、遅れてしまって」
それは謝罪の形をしている。
けれど、謝罪は舞台への入場券になる。
神原がすぐに近づき、低い声で何かを告げようとする。
だが麗奈は微笑みを崩さず、客席に向けて軽く会釈をした。
“私も関係者です”と言わんばかりに。
莉緒の喉が、ひくりと鳴った。
息ができない。
(どうして、ここにいるの)
(招待されたとしても、今じゃない)
(今この瞬間に現れるのは——)
仕掛けだ。
そう思うのに、証拠はない。
証拠がないからこそ、もっと怖い。
陸が、ステージ中央から視線を向けた。
一瞬だけ驚いた目。
そして次の瞬間、表情を整える。
整える、という行為は残酷だ。
残酷なくらい、陸は“場”を優先できる。
麗奈が、ふらりとよろめいた。
ほんの少し。
誰もが「大丈夫?」と反射する程度。
陸が動いた。
ステージから降りるには遠い。
だが最前列にいたスタッフが麗奈を支えようとするより早く、陸の足が一歩、前へ出た。
動いたのは“心”ではなく“反射”かもしれない。
それが最も残酷だった。
城戸が低く言う。
「陸様——」
止める声。
でも止まらない。
陸は結局、ステージの端で止まり、神原が麗奈を控室へ誘導しようとする。
その一瞬――
麗奈の指先が、陸の袖を掴んだ。
掴むというより、触れる。
触れるだけで、恋人の距離になる角度。
莉緒の視界に入る角度。
莉緒の心が、音を立てて崩れた。
(私の見ている前で)
(堂々と)
(当たり前みたいに)
そして何より――
陸はその手を振り払わなかった。
振り払えなかったのか。
振り払わなかったのか。
莉緒にはもう、判別できない。
神原が素早く場を整える。
「皆さま、少々進行を調整いたします。すぐ再開いたしますので――」
再開。
この状況で、再開する。
莉緒の体が冷える。
手の先が痺れる。
世界が遠い。
——そして決定的だったのは、“席”だった。
司会が再びマイクを握り、会長が短く補足する。
段取りを戻そうとする。
その“戻し方”の中で、誰かが判断した。
麗奈は客席ではなく、壇上近くの関係者席に案内された。
しかも、陸のすぐ隣に。
“事故”の処理として。
“体調が悪い令嬢”の安全のために。
“九条家への配慮”として。
理由は正しい。
正しいから、誰も反対できない。
莉緒だけが、息ができない。
(隣が、私の席じゃない)
(最初から、そういうこと?)
莉緒は舞台袖で、台本を握りしめた。
紙が少しだけ皺になる。
それが、自分の心の皺みたいで嫌だった。
神原が駆け寄ってくる。
低い声で囁く。
「莉緒様、予定を変更します。コメントは短く。笑顔で。大丈夫です」
大丈夫。
またその言葉。
大丈夫であるはずがないのに。
莉緒は微笑んだ。
仮面を貼り付ける。
「……分かりました」
舞台に出る。
照明が眩しい。
フラッシュが眩しい。
眩しいほど、涙が出そうになる。
陸の隣に、麗奈が座っている。
麗奈は気づかないふりをしている。
気づかないふりが完璧すぎる。
莉緒は台本通りに挨拶した。
“幸せです”
“支え合って”
“温かく見守って”
言葉が喉を裂く。
裂いても、声は揺れない。
揺れないように、心を殺してきたから。
記者の質問が飛ぶ。
神原が制限する。
場は進む。
進むほど、莉緒の中の何かが終わっていく。
終わったのは、夢だ。
“唯一の人”に選ばれる夢。
控室に戻った瞬間、莉緒は壁に手をついた。
息が吸えない。
吸えないのに、泣けない。
泣いたら“負け”になる気がする。
母が駆け寄る。
けれど母の声は遠い。
「莉緒……!」
莉緒は小さく笑ってしまった。
笑うしかない。
「大丈夫」
大丈夫じゃない。
でもそう言うしかない。
鏡に映る自分の顔は、白かった。
唇は微笑みの形を保っているのに、目だけが空っぽだった。
――“事故”は、偶然の顔をしていた。
でも莉緒の心は知ってしまう。
麗奈は、莉緒の視界に入る瞬間だけ、陸に触れた。
そして、誰にも反対できない“正しい理由”で、陸の隣に座った。
嘘がないから、怒れない。
怒れないから、崩れる。

