幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 雨は、最初から怒っていたわけじゃない。
 ただ、空が限界まで息を溜め込んで――今にも泣き出しそうな顔をしていただけだ。

 名門ホテルの車寄せに滑り込むと、アスファルトはすでに濡れていた。街灯の光が水たまりに滲み、黒い地面が鏡のように街を映している。
 ドアが開いた瞬間、湿った空気が頬を撫で、莉緒の指先がわずかに冷えた。

「お嬢さま、足元にお気をつけください」

「……ありがとうございます」

 傘を差してもらい、莉緒は裾を押さえながら車を降りる。雨粒が傘の布を叩く音が、心臓の鼓動に似ていた。

 今日、陸と約束していた。
 会合の前に少しだけ会って話そう――そう言ったのは陸だった。具体的な甘い言葉など一つもなかったのに、莉緒はそれだけで胸が温かくなる自分がいた。

(約束、してくれた)
(私のための時間を、作ってくれた)

 そんな期待が、胸の奥で小さく灯る。
 その灯りを消さないように、莉緒は背筋を正してホテルの自動扉をくぐった。

 ロビーは別世界の匂いがした。
 磨かれた大理石、シャンデリアの白い光、甘い花の香り。外の雨の気配は遮断され、代わりに静かな緊張が漂っている。
 ヒールが床を叩く音が、やけに響いた。

 受付に名前を告げ、視線をエレベーターホールへ向ける。
 陸は、もう来ているだろうか。少し遅いくらいなら、いつものことだ。
 そう思って歩き出したときだった。

 ロビーの奥、回廊につながる扉が開く気配がした。
 ほんの少し、風が通る。
 湿った雨の匂いが、甘い香りに混ざって胸を刺した。

 そして――

 鈴が転がるような、女性の笑い声。

 莉緒は足を止める。
 反射的にそちらを見てしまった。
 見なければよかったのに、視線を逸らせなかった。

 扉の向こうから現れたのは、西条陸だった。

 黒いコート。整いすぎる横顔。背筋のまっすぐな立ち姿。
 いつも通りの、冷静で、隙のない姿。

 ――ただひとつ、“いつも通りじゃない”ものがあった。

 陸の隣に、ぴたりと寄り添う女がいる。
 艶やかな黒髪が肩で揺れ、白い肌に雨の光が滑る。微笑んでいるだけなのに、周囲の空気の温度を変えてしまうような美しさ。

 九条麗奈。

 社交界で知らぬ者はいない令嬢。
 そして最近、陸の周りで囁かれている名前――。

(……噂の)

 喉の奥が、ひくりと震えた。
 胸の灯りが、風に煽られて揺らぐ。

 陸が一瞬、麗奈の肩に落ちそうになった髪を指で払った。
 それはほんの僅かな所作。優雅で、自然で、仕事の延長と言われたら反論できない程度の触れ方。

 なのに。

 莉緒の目には、それが“恋人の距離”に見えた。

 麗奈が小さく何かを言い、陸が頷く。
 陸の表情は変わらない。いつもの淡々とした顔のまま。
 だからこそ、彼女を隣に置くことが“当たり前”に見えてしまう。

(違う、よね)
(仕事の関係、だよね)

 必死に言い聞かせる。
 でも、次の瞬間――言い聞かせが、綺麗に崩れた。

 陸が、麗奈に傘を差し出した。
 自分の肩が濡れても構わないという角度で、彼女の頭上を守るように。

 莉緒の胸の奥で、何かが「とん」と落ちる音がした。
 落ちたのが何か、すぐに分かった。

 ――あの傘。
 泣いていた自分に差し出された傘と、同じ角度だ。

(……噂は、本当だったんだ)

 確信になった瞬間、世界の色が薄くなる。
 ロビーの光が白く冷たく感じ、雨音だけが大きくなる。

 陸が顔を上げた。
 視線が、ふいに莉緒に向く。

 目が合った。
 ――一瞬だけ、陸の瞳が揺れた気がした。

 驚いたのか。
 困ったのか。
 それとも、ただ状況を計算しているだけなのか。

 莉緒には分からない。
 分からないまま、背筋だけが勝手に伸びた。

(婚約者なんだから)
(ここで取り乱したら、みっともない)

 笑わなきゃ。
 完璧に。
 そう思うのに、口元が重い。

「……莉緒」

 陸の声は低い。いつも通り落ち着いている。
 その“いつも通り”が、今は痛かった。

「ここにいたのか」

「……うん」

 返事が幼い頃のままになりかけて、莉緒はすぐに喉を整えた。
 そして、息を吸う。
 責めるためじゃない。責めたら自分が壊れる。
 だから――笑って終わらせるために。

「陸くん」

 呼び方だけが、ぎりぎりで幼馴染の名残りだった。

「今日、私たち……約束していたよね」

 陸の眉がわずかに動いた。
 ほんの一瞬、言葉を探す気配が見えた。

「……ああ」

 その一拍が、莉緒には長い。
 胸の灯りが、また揺らぐ。

 莉緒は微笑んだ。
 上手に。壊れないように。

「でも、もう大丈夫。……先に帰るね?」

 優しい言い方。
 優しい言い方のはずなのに、その言葉は刃みたいに自分の喉を裂いた。

 陸が一歩、前に出かける。

「待て、莉緒――」

 その声が伸びる瞬間。
 麗奈がふわりと、二人の間に入るように笑った。

「陸さま、私……雨が苦手で。送ってくださって、本当に助かりました」

 送って。
 その二文字が、莉緒の胸に落ちて、冷たい雨になって広がった。

 陸の言葉が止まる。
 止まったのではなく、止められたみたいに見えた。

 莉緒は、もう頷くしかない。

「……そうなんだね」

 声は笑っている。
 心だけが笑っていない。

「私、今日は体調が万全じゃなくて……ごめんね。会合の件は、父に伝えておくから」

 言い訳を重ねるほど、本音が透ける。
 だから丁寧に、短く、綺麗に。

 莉緒は最後にもう一度だけ陸を見た。
 ――見たかったのは説明じゃない。弁解じゃない。
 ただ、「違う」と言い切る声が欲しかった。

 でも陸は、何も言わない。
 言えないのか、言わないのか。莉緒にはもう判別できない。

 莉緒は微笑みのまま、頭を下げた。

「じゃあ……失礼します」

 踵を返す。
 ヒールの音が大理石の床に冷たく跳ねる。甘い花の香りが急に息苦しく感じた。

 背中に視線が刺さった。
 陸のものか、麗奈のものかは分からない。
 ただ、刺さるのに、引き止めてはくれない。

 エレベーターの鏡に映った自分の顔は、笑っていた。
 頬は上がっている。目元も崩れていない。

(……上手)

 そう思った瞬間、なぜか笑いそうになった。
 声を出したら、泣き声になるのが分かっていたから、笑えない。

 ホテルの外へ出ると、雨はさらに強くなっていた。
 傘を差しても、足元が濡れる。髪がわずかに湿る。
 冷たさが、心まで染み込んでくる。

 車寄せの屋根の下で、莉緒は一度だけ振り返りそうになった。
 ――陸が追ってきて、「違う」と言ってくれるかもしれない。
 そう願ってしまう自分が、まだいる。

 けれど、振り返らなかった。
 振り返ったら、期待が残る。
 期待が残れば、次に壊れるのはもっと痛い。

(約束してたのに)
(私だけが、約束を大事にしてたのかな)

 胸の奥の灯りが、雨に濡れて消えていく。
 代わりに残ったのは、きちんと整列した言葉だった。

 ――陸には好きな人がいる。
 ――私は仕方なく選ばれた。
 ――問い詰めるのはみっともない。
 ――すがったら、もっと嫌われる。

 思考が、きれいに、冷たく整っていく。
 涙が出ないのは、心が先に固まったからだ。

「……帰りましょう」

 運転手が傘を差し出す。
 莉緒は小さく頷いて車に乗り込んだ。

 ドアが閉まる。
 雨音がガラス越しに遠ざかり、街の光がにじむ。

 そのにじみの向こうで、ホテルの入り口はまだ明るく輝いていた。
 そこに、自分の居場所がない気がして――莉緒は目を伏せた。

(もう、いい)
(期待しなければ、傷つかない)

 そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
 痛いのに、泣けない。泣けないまま、ただ、静かに決める。

 陸に心を閉ざそう。
 笑って、丁寧に、完璧に。
 彼を責めずに、自分を守るために。

 車が動き出す。
 雨が窓を叩き、線になって流れていく。

 まるで、今から始まる“すれ違い”の予告みたいに。