幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 空は明るかった。
 雲はあるのに、雨は降らない。
 こういう日が一番苦しい、と莉緒は知ってしまっている。
 雨なら泣ける。雨なら隠せる。
 晴れ間は、仮面の歪みをくっきり映す。

 発表会が近づき、莉緒の予定は“詰め物”のように埋められていった。
 衣装合わせ。コメントの練習。導線の確認。
 神原の用意した台本通りに動くほど、“自分”が薄くなる。

 その日、莉緒は慈善団体の小さな理事会に顔を出していた。
 名目は寄付者としての挨拶。
 実態は、婚約者としての“印象づけ”。

 会場は古い洋館を改装したサロンで、木の匂いがした。
 花の甘さではなく、古い本のような乾いた匂い。
 それが少しだけ救いだった。
 麗奈の香りを連れてこない匂いだから。

 ――そう思った瞬間に、香りが混ざった。

 甘いのに冷たい香り。
 上品で、逃げ道を塞ぐ香り。

 莉緒の指先が勝手に冷える。

(来た)

 振り向く前から分かった。
 身体が先に恐れる。

「佐山さま」

 鈴のような声。
 振り向けば、九条麗奈が微笑んで立っていた。

 今日は“控えめ”という言葉の意味を塗り替える装いだった。
 派手ではない。上品。
 でも、視線を奪う。
 人の心の隙間を見つけて入り込む、完璧な美しさ。

 莉緒は微笑みを作る。
 作ることに迷いがないのが、怖い。
 仮面が顔に馴染みすぎている。

「九条さま。お久しぶりです」

「ええ。先日は……失礼しました。あの時は少し、ふらついてしまって」

 ふらつき。
 雨が苦手。
 助けていただいて。
 事実だけの言葉が、また丁寧に並べられる。

 嘘じゃない。
 嘘じゃないから、莉緒は怒れない。

「……お身体は大丈夫ですか」

 莉緒の口から出たのは、婚約者として正しい言葉だった。
 優しさの形をした、敗北の言葉でもあった。

 麗奈は目元を柔らかくして頷く。

「ありがとうございます。佐山さまは本当にお優しい」

 その“優しい”が、莉緒の口を塞ぐ。
 優しいなら、疑ってはいけない。怒ってはいけない。
 そう刷り込む言葉。

 周囲の理事たちが微笑み、二人の会話を“美しいもの”として眺める。
 その視線が、莉緒には針みたいに痛い。

 麗奈は少し声を落とした。
 内緒話の距離。
 でも、内緒話ほど周囲の耳は敏い。

「……発表会、もうすぐですね」

 莉緒は頷いた。

「はい」

 短くしか答えられない。
 余計な言葉を出せば、心が揺れるから。

 麗奈は、微笑みを崩さないまま、肝心の言葉を落とした。

「陸さまは、責任感が強い方ですものね」

 責任感。
 その単語は褒め言葉だ。
 褒め言葉だからこそ、毒になる。

 責任感が強い=誰かを放っておけない。
 責任感が強い=守るべきものを守る。
 責任感が強い=“選んだから”ではなく、“責任だから”。

 莉緒の胸の奥に、冷たい結論が滑り込む。

(私に優しいのも、責任)
(私と婚約したのも、責任)
(本当の気持ちは、別のところに――)

 麗奈は続ける。
 あくまで“正しいこと”だけを。

「先日も、私が少し気分を悪くしただけで、すぐに支えてくださいました。……誰に対しても同じなんですよね。陸さまは」

 誰に対しても。
 その言葉が、莉緒を切り裂いた。

 陸の優しさは、莉緒にとって唯一のものだった。
 唯一だと思っていた。
 でも麗奈は、上品に、それを“誰にでもある”ものへと変えていく。

 莉緒は微笑んだ。
 頬が痺れるほど、上手に。

「……そうですね。陸さんは、お優しい方ですから」

 自分の口から出た言葉が、胸に刺さる。
 優しい方。
 その言い方は、もう恋人の言葉ではない。
 第三者の言葉だ。

 麗奈はほんの少しだけ眉を下げた。
 同情の形。
 同情は、上から降ってくる刃だ。

「佐山さま、きっとお忙しいですよね。発表の準備も……」

 忙しい。
 便利な言葉。
 感情を隠す言葉。

 麗奈はその便利さを利用して、次の針を刺す。

「でも、陸さまは……無理をなさいます。責任感が強すぎて」

 無理をする。
 責任感。
 つまり、婚約者としての“役割”のために無理をしている。
 そう聞こえる。

(無理をさせてるのは、私?)
(私は……重い?)

 自責の刃が内側から伸びる。
 麗奈は何も言っていないのに、莉緒の心が勝手に刺さる。

 そこへ、桐谷由香が笑いながら近づいてきた。
 軽い声は、針を刺すのに最適だ。

「まあ九条さま! ここにいらしたのね!」

 由香の声に周囲の視線が集まる。
 集まった視線の中心で、莉緒はさらに“婚約者らしく”微笑まなければならない。

「佐山さま、発表会、楽しみねえ。九条さまも来るんでしょう?」

 来る。
 その一言で、莉緒の胸が冷える。

(来るの?)
(なぜ?)
(陸の隣に立つため?)

 麗奈はあくまで礼儀正しく答える。

「ご招待いただけるなら、もちろん。お祝いですもの」

 お祝い。
 誰のお祝い?
 莉緒の?
 それとも――陸と麗奈の“勝利”の?

 莉緒は喉の奥で息を押し込めた。
 吐いたら震える。
 震えたら負ける。

 麗奈が、最後にもう一度だけ小さく言った。
 周囲には聞こえない距離。
 でも莉緒には、はっきり刺さる距離。

「佐山さま。陸さまは……本当にお優しい方です。だから、きっと――」

 “きっと”の続きは言わない。
 言わないから、想像が最悪の形で完成する。

(きっと、私を捨てられないだけ)
(きっと、本当は――)

 麗奈は微笑んで距離を取った。
 距離を取るほど、“善意の人”に見える。
 善意に見えるほど、莉緒は悪者になれない。

 理事会の話が再開され、寄付の話が続く。
 数字、計画、支援。
 現実的な言葉が飛び交うのに、莉緒の耳には届かない。

 頭の中には、麗奈の一言だけが残っていた。

 ――責任感が強い方。
 ――誰に対しても同じ。
 ――無理をする。

 全部、褒め言葉。
 だからこそ、最悪の刃。

 帰り道、車窓に映った自分の顔は、笑っていなかった。
 泣いてもいなかった。
 ただ、静かに凍っていた。

(陸は、責任で私の隣にいる)
(本当に望んでいるのは、別の人)

 その結論が、“確定”に近づく。


 発表会の“席”は、もう舞台だ。
 舞台の上で、誰がどこに立つか。
 ――麗奈はそれを知っている。

 そして次の章で、麗奈は“事故”を装ってその席を奪いに来る。