幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 雨の匂いが、まだ家の中に残っていた。
 昨夜降った針みたいな雨は止んだのに、廊下の冷たさだけが消えない。
 莉緒は朝の支度をしながら、父の書斎から聞こえた「資金繰り」「返済」「西条」という単語を、何度も頭の中で転がしていた。

(婚約は、恋じゃない)
(家を繋ぐための、道具)

 そう決めたはずなのに、心はまだ陸を探す。
 探す自分が嫌で、莉緒は鏡の前で口角の角度を整えた。

 今日の予定は、西条側との“段取り確認”。
 発表会に向けた最終調整の一部。
 神原から指定された時間と場所。
 そこに「莉緒の都合」という欄はない。

 車で西条グループ本社へ向かう道すがら、街は普段通りに動いていた。
 通勤の波、信号、ビルのガラス。
 その普段通りが、莉緒の胸を余計に苦しくさせる。
 自分の家だけが崩れそうで、自分の恋だけが壊れている気がした。

 ビルのエントランスを抜け、案内されたのは会長室フロアではなく、奥まった小会議室だった。
 窓が少ない。
 外の光が届きにくい場所。
 そこにいるだけで、“表に出せない話”が漂っている。

 廊下で待つように言われ、莉緒は一人でソファに座った。
 背筋を伸ばし、膝の上に手を揃える。
 こうしていれば、崩れない。
 崩れないふりができる。

 ——ドアの向こうから、低い声が聞こえた。

 陸の声。
 それだけで胸が小さく跳ねる。
 跳ねた瞬間、また踏みつける。

(期待しない)
(期待は毒)

 けれど、次に聞こえた名前が莉緒の心を刺した。

「……九条の件は、これ以上表に出すな」

 九条。
 麗奈。
 喉がひくりと鳴った。

 莉緒は反射的に、息を止めた。
 止めた息が、肺の奥で冷たくなる。

 さらに、別の男の声が混ざる。
 落ち着いた、事務的な声。
 法務か、監査か。どちらにしても、家庭の会話ではない。

「……現状では、相手側も把握しています。こちらが動くなら、条件が——」

 条件。
 また条件。
 莉緒の胸の中で、恋がまた一枚剥がれ落ちる音がした。

 陸の声が低くなる。

「条件は飲む。だが、佐山には触らせるな」

 ——佐山。

 その二文字で、莉緒の視界が一瞬白くなった。
 父の会社。
 資金繰り。
 融資。
 西条に縋るしかない現実。

 陸が、佐山を守る?
 そんなはずがない。
 そう思いたいのに、耳は確かにそう聞いてしまった。

(守るため?)
(それとも——)

 次の瞬間、心は最悪の形に変換する。

(“取引”のために、佐山を材料にしてる)
(麗奈のために、佐山を守るふりをしてる)

 悪い想像は、いつも最短で心を破壊する。

 ドアが少し開き、城戸秘書が顔を出した。
 いつも通り無表情。
 だが今日の城戸は、目が忙しい。

「佐山様、お待たせしております。もう少々——」

 莉緒は立ち上がった。
 立ち上がる動作が機械的すぎて、自分でも驚く。

「……陸さんは、今、お忙しいんですよね」

 城戸の眉がほんの僅かに動いた。
 “気づかれた”という気配。
 でも城戸は何も言わない。言えない。

「はい。重要な確認事項がありまして」

 重要。
 やはり“表に出せない”話。

 莉緒は微笑んだ。
 仮面の微笑み。
 それしかできない。

「分かりました。では、私も……できることを」

 言葉が丁寧であるほど、胸が遠ざかる。
 城戸は一瞬だけ、何か言いたそうに口を開きかけて、やめた。

「……ありがとうございます」

 その「ありがとうございます」が、やけに冷たく響いた。
 まるで、莉緒が“協力する駒”であることを確認したみたいに。

 莉緒は廊下の奥へ視線を落とす。
 ドアの向こうで続く声は、もう聞かないと決めた。
 聞いたら、崩れるから。

 ——それでも、最後に一つだけ聞こえてしまった。

「……麗奈の身柄は、こちらで確保する」

 陸の声だった。

 莉緒の心臓が、氷水に沈む。
 確保。
 守る。
 囲う。
 そういう言葉に聞こえた。

(やっぱり)
(やっぱり、九条さんなんだ)

 その結論が、胸の奥で固まった。
 固まったものは、もう溶けない。

 数分後、ドアが開く。
 陸が出てきた。

 いつも通りの顔。
 いつも通りの整った表情。
 ただ、目の奥だけが疲れている。

 莉緒は頭を下げた。
 完璧に。
 仕事のように。

「お忙しいところ、失礼します」

 陸の目が揺れる。
 莉緒の声が丁寧すぎることに、気づいている。
 気づいているのに、何が原因か掴めない。

「……待たせたな」

 陸が言う。
 いつもより少し柔らかい声。
 それでも莉緒の胸は動かないように、自分で抑えた。

(動くな)
(ここで動いたら、また壊れる)

 陸が近づきかける。
 その一歩が、昨夜なら救いだったかもしれない。
 今は怖い。
 触れられたら、聞いてしまう。
 聞いたら、答えが怖い。

「……何かあった?」

 陸が低く聞く。
 莉緒は微笑んだ。

「いいえ。何も」

 完璧な嘘。
 嘘の方が安全だと、心が学んでしまった。

 陸の視線が、莉緒の目元を探る。
 いつもならそこにあった柔らかさが、ない。
 それが陸を追い詰める。

「……今日の打ち合わせに入ろう」

 陸はそう言って、話題を仕事へ切り替えた。
 切り替えたというより、逃げたように見えた。

 莉緒は頷き、書類へ視線を落とす。
 紙の上の言葉は整っていて、感情がいらない。
 感情がいらない場所は、少しだけ息ができる。

 ——けれど、息をするほど、胸が痛い。

 打ち合わせの最中、陸は何度も莉緒を見た。
 短い視線。
 言葉にならない問い。
 「どうした」と言いたい目。

 莉緒は見ないふりをした。
 見たら、崩れる。
 崩れたら、陸に縋ってしまう。
 縋れば、惨めになる。

(もう、十分惨めだ)

 そう思った瞬間、心がさらに冷たくなる。

 会議室を出るとき、廊下の窓に自分の姿が映った。
 完璧な令嬢。
 完璧な婚約者。
 その完璧さが、息を殺しているのに、外からは見えない。

 莉緒は知ってしまった。
 陸は水面下で動いている。
 動いているのに、自分には言わない。
 言わないということは――自分は“共有する相手”ではない。

 その結論が、また一段、莉緒の心を閉ざした。

 そして同時に、次の章への火種ができる。
 麗奈は、この“密談”の影を嗅ぎつけ、さらに上品に、さらに綺麗に、匂わせる。
 「陸様は責任感が強い方」——と。