朝の新聞は、静かに嫌な匂いを運んできた。
紙とインクの匂いの奥に、焦げたものみたいな不吉さが混じっている。
莉緒は食卓で紅茶に口をつけながら、父の様子を盗み見ていた。
父・佐山恒一は新聞を読んでいる――ように見える。
だが、ページをめくる指が同じ場所で止まっている。目線も、文字を追っていない。
母は何も言わずにパンを切り分け、皿を整えている。
整えることで、崩れそうなものを支えようとしているように。
昨夜の陸の言葉――「そんなに嫌なら、もういい」――が、まだ胸の奥でひりついていた。
それなのに、今日はそれどころではない空気が家の中に漂っている。
父のスマートフォンが何度も鳴る。
着信音を切って、画面を伏せる。
その動作が“いつもの仕事”とは違う焦りを含んでいる。
「……お父さま」
莉緒が呼びかけると、父は一拍遅れて顔を上げた。
笑おうとして、笑えなかった顔。
「なんだ、莉緒。……大丈夫だ」
またその言葉。
大丈夫。
この家でも、“大丈夫”が増殖している。
莉緒は頷いた。
頷いてしまう。
頷くことで、家庭の空気を壊さないように。
朝食のあと、父が書斎に入るのを見送ってから、莉緒は廊下を歩いた。
窓の外は曇り。
今にも雨が降りそうな色が、心の内側と同じだった。
書斎の扉はきっちり閉まっている。
普段なら近づかない。
けれど今日は、足が止まらなかった。
――中から声が聞こえる。
低く押し殺した声。
電話口に向ける“会社の声”。
「……資金繰りは持つ。だが、来月の返済が……」
「……担保? 今それを動かすと余計に……」
「……西条の案件が予定通りなら、繋げる」
西条。
その名前が出た瞬間、莉緒の胸が冷たくなった。
(西条の案件が、繋げる)
(つまり……)
政略婚約の重さが、今さら現実になる。
家と家の都合。
利益。
バランス。
――“悪い話ではない”と言われたあの言葉が、喉に刺さる。
莉緒は一歩、後ずさった。
聞いてはいけない。
聞いたら、自分が“駒”であることを認めてしまう。
そのとき、廊下の角から母が現れた。
音もなく近づき、莉緒の肩にそっと手を置く。
「……莉緒」
母の声は小さかった。
叱るでもなく、責めるでもなく、ただ止める声。
莉緒は息を飲んだ。
「お母さま……」
母は一瞬だけ目を伏せた。
その目が、すべての答えだった。
(やっぱり、危ないんだ)
(うちは……)
母は微笑もうとして、微笑まなかった。
「大丈夫。……あなたは、あなたのままでいて」
その言葉が、痛いほど優しい。
優しいのに、守りきれないことも含んでいる。
莉緒は首を振りたかった。
“私のまま”ではいられない。
もう、自分のままでいる場所がない。
その日の午後、佐山不動産の専務・相沢が屋敷に来た。
足音が慌ただしい。会釈が浅い。目が忙しい。
仕事の人間が“追い詰められた”匂いがした。
応接間へ運ばれた資料は、厚かった。
金融機関の一覧、返済予定、工事の遅延、取引先の動き。
文字が整列しているほど、現実が残酷になる。
莉緒は隣室で待つよう言われた。
待つ。
また待つ。
莉緒は待つことばかり上手くなる。
扉越しに漏れる声が、時折聞こえた。
「……メインバンクが姿勢を硬化させています」
「……このままでは、来月が」
「……西条の融資継続があれば、なんとか」
西条。
また、その名前。
莉緒は指先を握りしめた。
爪が掌に食い込む痛みが、現実を繋ぎ止める。
(陸は……知っていたの?)
(私との婚約は、最初から……)
恋だったはずのものが、条件に見える。
唯一の人だったはずの陸が、“安全策”に見える。
胸が痛い。
でも今の痛みは、恋の痛みだけじゃない。
自分の家が崩れる痛み。
父が追い詰められている痛み。
母が笑えない痛み。
夕方、父が応接間から出てきた。
背中が少しだけ小さく見えた。
「莉緒」
父が呼ぶ。
呼び方はいつもと同じなのに、声の奥が擦れている。
「心配するな。……なんとかする」
なんとか。
曖昧で、重い言葉。
莉緒は笑おうとして、笑えなかった。
代わりに頷いた。
「……はい」
その返事が、ひどく軽く聞こえて、莉緒は自分が怖くなった。
夜。
莉緒は自室の机の上に、発表コメント案を広げた。
“支え合ってまいります”
“温かく見守ってください”
“幸せです”
紙の上の言葉は、どれも綺麗で、空っぽだった。
(支え合うって、何)
(私は、支えられる側なのに)
(支える側にされるだけなのに)
ふと、陸の顔が浮かぶ。
陸は何も言わない。
言わないのに、家は西条に縋ろうとしている。
その矛盾が、莉緒の心をさらに閉ざす。
(陸は、私を選んだんじゃない)
(佐山を守るために、仕方なく……)
“仕方なく”という言葉が、胸の奥で形になる。
形になったものは、剥がれない。
窓の外で、雨が落ち始めた。
細い針みたいな雨が、ガラスを叩く。
莉緒は目を閉じた。
逃げ場が消えたのは、婚約発表だけじゃない。
家の中にも、もう逃げ場がない。
その夜、莉緒の“閉ざした心”はさらに深く沈んだ。
恋が壊れる音に、家が崩れる音が重なったから。

