幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 雨は上がっていた。
 なのに地面はまだ湿っていて、夜の灯りを鈍く反射している。
 濡れたアスファルトは、ひとたび踏み出すと靴裏に冷たさがまとわりついた。

 莉緒は家へ戻る道すがら、カフェで飲んだココアの温かさを思い出していた。
 胸の奥が少しだけ緩んだ。
 息が、ほんの少しだけ深く入った。
 それが嬉しいのに、同時に怖い。

(陸じゃない場所で呼吸した)

 その事実が、罪みたいに重かった。
 でも、呼吸できないよりはましだと、心が知ってしまった。

 門をくぐると、佐山家の窓がいくつか灯っている。
 いつもなら安心する光。
 今は、戻りたくない場所の光に見えた。

 玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩く。
 足音が静かすぎて、自分の鼓動がうるさい。
 部屋へ戻ろうとした瞬間、食堂側から光が漏れているのに気づいた。

(誰かいる)

 母だろうか。
 父だろうか。
 そう思ったのに、聞こえてきた低い声で足が止まった。

「……莉緒」

 陸の声だった。

 胸が跳ねる。
 跳ねた瞬間、また自分で踏みつける。

(期待しない)
(期待したら、また痛い)

 食堂に入ると、陸が立っていた。
 スーツの上着を脱いで椅子の背にかけている。ネクタイが僅かに緩んで、髪がほんの少し乱れていた。
 いつも整っている陸の“乱れ”が、逆に今夜の危険を知らせる。

 テーブルには、手をつけられていない料理が並んでいた。
 温かい湯気が上がっている。
 温かいのに、空気は冷たい。

「……帰ってきたんだな」

 陸の声は低い。
 短い。
 けれど、いつもより硬い。

「はい。ただいま戻りました」

 莉緒は微笑んだ。
 仮面の笑顔。
 “良い婚約者”の声。

 陸の視線が、莉緒のコートの端、髪の湿り、手元へと移る。
 そして、目が止まった。

「……どこに行ってた」

 問い方が、すでに優しくない。
 詰問ではないはずなのに、詰問に聞こえる。

 莉緒は喉の奥を整えた。

「少し、用事があって。買い物と……」

 言いかけて、言葉が詰まる。
 ココア、という単語が浮かんでしまった。
 隼人。
 傘。
 避難所。

 陸の目が細くなる。
 “言い切らない”ことに苛立っている目。

「買い物? この時間に?」

 声が少しだけ強くなる。
 それだけで、莉緒の胸がきゅっと縮んだ。

(怒られる理由なんてない)
(でも、怒られているみたい)

 莉緒は微笑みを崩さない。崩せない。

「遅くなってしまって、ごめんなさい」

 謝罪が先に出る。
 癖になっている。
 謝れば場が静まると、心が学んでしまった。

 陸の顎が僅かに固くなる。
 怒りではない。焦りだ。
 何かを掴めない焦り。

「……俺に連絡は?」

 “連絡”。
 その言葉が、さっきの短い電話を思い出させる。
 義務の優しさ。
 理由のない“信じてくれ”。

 莉緒は首を振った。

「すみません。必要だと思わなくて……」

 正しい答えではない。
 でも本音でもない。
 本音は――陸に言う言葉を持っていなかった、だ。

 陸は一歩近づいた。
 距離が縮まる。
 縮まるほど、莉緒は一歩引きたくなる。

 引きたいのに引けない。
 引いたら“拒絶”になる。
 拒絶したら、陸が壊れる気がする。
 ――そんなことを考える自分が、まだ陸を好きだと告げている。

「……お前、最近ずっとそうだ」

 陸の声が低くなる。
 怒っている。
 でも怒りの奥に、苦しさがある。

「何を聞いても“何もありません”。何を言っても“大丈夫です”。……俺が何をした」

 最後の言葉が、少しだけ震えていた。
 陸の声が震えるのは、珍しい。
 それを聞いた瞬間、莉緒の胸が揺れた。

(揺れるな)
(揺れたら、また期待する)

 莉緒は、ゆっくりと息を吸った。

「……何もしていません」

 嘘。
 何もしていないはずがない。
 でも、ここで“ホテル”と言ったら全部が壊れる。

 陸の目が、一瞬だけ暗くなる。

「……じゃあ、なんで」

 言葉が切れる。
 陸は拳を握りしめる。
 指の関節が白くなる。

「なんで、俺から離れる」

 その言葉が、莉緒の胸を刺した。
 離れているつもりはない。
 ただ、期待を殺しているだけ。
 でも、その違いは伝わらない。

 莉緒は笑った。
 笑ってしまった。
 笑うしかなかった。

「離れていません。婚約者として、きちんと……」

 きちんと。
 その単語が、陸の眉をさらに寄せた。

「きちんと?」

 陸が低く反復する。
 その声が、刃みたいに冷たい。

「俺は、“婚約者としてきちんと”が欲しいんじゃない」

 その言葉が、莉緒の胸を熱くする。
 ――じゃあ、何が欲しいの。
 言って。
 言ってくれたら、私は――

 期待が生まれそうになって、莉緒は慌ててそれを殺した。

「……陸さん」

 呼び方を変えたまま、戻さない。
 幼馴染に戻ったら、崩れる。

「私、疲れていて……」

 逃げだ。
 逃げだと分かっている。
 でも逃げるしかない。ここで踏み込んだら、泣いてしまう。

 陸の苛立ちが、ついに言葉になる。

「疲れてる? ――俺だって疲れてる」

 その声が、少しだけ大きい。
 食堂の空気が震えた。

 莉緒は肩が跳ねるのを抑えた。
 怒鳴られたわけじゃない。
 それでも、胸の奥が条件反射で縮む。

 陸は続ける。

「……お前が笑ってるほど、俺は不安になる。お前が丁寧になるほど、俺は……」

 言葉が止まる。
 言いかけて、飲み込む。
 また、飲み込む。

 飲み込む理由がある。
 その理由の中に、麗奈がいる――
 莉緒の心が勝手に結論を作る。

 陸が、最後に言ってしまった。
 言ってはいけない言葉を。

「……そんなに嫌なら、もういい」

 その一言は、ナイフみたいに鋭かった。
 勢いで出た言葉。
 本心じゃない言葉。
 でも、莉緒の心には“本心”として刺さる。

(嫌……?)
(私が、嫌がってる?)

 違う。
 嫌じゃない。
 好きだから、怖い。
 好きだから、傷つく。
 好きだから、閉ざす。

 でも、それを言える言葉が、莉緒にはない。

 莉緒は微笑んだ。
 頬が痺れるほど、上手に。

「……分かりました」

 その返事は、陸をさらに追い込む。
 怒鳴り返さない。泣きつかない。
 ただ、丁寧に受け取って離れる。

 陸の目が大きく揺れる。
 ――違う。
 ――そういう意味じゃない。
 そう叫んでいるような目。

 けれど陸は、言葉にできない。
 言葉にしたら、何かを告白しなければならないから。
 今まで黙っていた理由を。

 莉緒は頭を下げた。

「おやすみなさい」

 それだけ言って、食堂を出た。

 廊下は冷たい。
 足音が響く。
 背中に陸の視線が刺さるのに、振り返らない。

 振り返ったら、縋ってしまう。
 縋ったら、惨めになる。
 惨めになったら、もう立てなくなる。

 部屋に戻って鍵をかける。
 鍵の音が、心の錠前みたいに響いた。

 ベッドに腰を下ろした瞬間、膝が震えた。
 震えているのに、涙は出ない。
 泣いたら負けだと思ってしまうから。

(嫌なら、もういい)

 陸の言葉が、何度も頭の中で反響する。
 本心じゃないと分かっているのに、心は本心として受け取る。

(やっぱり、私は邪魔)
(やっぱり、私は必要ない)
(だから、九条さんのところへ――)

 結論が、また冷たく固まる。
 固まった結論は、ひどく楽だ。
 期待しなくて済むから。

 でも、楽になるほど、胸の奥が痛い。

 窓の外では、雨がまた降り始めていた。
 細い針みたいな雨が、ガラスを叩く。

 莉緒は布団を引き寄せ、目を閉じた。
 心を閉ざす練習をするみたいに。

 ――陸の苛立ちは、愛の裏返しだった。
 けれど莉緒には、それが“拒絶”にしか聞こえなかった。

 すれ違いは、こうしてまた一段、深くなる。