電話を切ったあと、部屋の空気が一段冷えた気がした。
スマートフォンの画面が暗くなっただけなのに、胸の中の灯りまで消えたように感じる。
(義務なんだ)
(婚約者だから、連絡しただけ)
そう結論づけて、そう思い込んで、そうするしかない――と自分に言い聞かせた。
けれど思い込めば思い込むほど、呼吸が浅くなる。
息が胸の上で止まり、肺の奥まで届かない。
莉緒はコートを羽織って家を出た。
理由を作るのは簡単だ。
発表に向けた小物の準備。贈答品の確認。母への頼まれごと。
実際、やることはいくらでもある。
でも本当は、ただ――この家の静けさから逃げたかった。
外は、雨が降り始めていた。
細くて冷たい雨。
針みたいに肌を刺す。
傘を持っていないことに気づいたのは、門を出て数歩歩いてからだった。
(戻ろう)
そう思ったのに、足が止まらない。
戻ったら、また“待つ場所”に戻ってしまう気がした。
陸からの言葉を、理由を、説明を――待ってしまう場所へ。
雨は少しずつ強くなる。
髪の先が湿り、頬が冷える。
コートの肩が重くなる。
それが、今の自分にちょうどよかった。
濡れている方が、痛みが麻痺する気がする。
商店街のアーケードが見えた。
そこへ入れば、雨は避けられる。
けれどアーケードの明るさが、今日は眩しすぎた。
人の笑い声、店の呼び込み、温かい匂い。
普通の生活が、莉緒の心だけを置き去りにする。
足を早めようとして、ふらりと視界が揺れた。
自分が思っている以上に、身体が疲れている。
心が削れていると、身体は追いつけない。
「……っ」
踏み止まろうとした瞬間、雨が一気に強くなった。
雫が頬を打ち、視界が滲む。
そのとき――傘の布が、頭上を覆った。
雨音が、少し遠くなる。
世界が一枚、柔らかい膜で守られたみたいに。
「傘も持たずに、何やってんだ」
聞き慣れた声が、すぐ横から落ちた。
ぶっきらぼうなのに、温度がある声。
莉緒が顔を上げると、一条隼人が立っていた。
黒いコート。濡れた前髪。
でも目だけははっきりと莉緒を捉えている。
「……隼人」
呼んだ瞬間、喉がきゅっと痛んだ。
自分が今、どれだけ無理をしているのか、バレてしまう気がした。
「風邪ひくぞ」
隼人はそれだけ言って、傘を少しだけ莉緒側に傾けた。
自分の肩が濡れる角度。
その角度が、嫌な記憶を連れてくる。
――陸が麗奈に差した傘の角度。
胸がきゅっと縮んで、莉緒は反射的に目を逸らした。
比べたくないのに比べてしまう。
比べるほど自分が惨めになる。
隼人は気づいたのか、気づかないふりをしたのか。
何も言わずに言葉を変えた。
「雨宿り。あそこ」
指差した先には、小さなカフェの軒先があった。
窓ガラスが曇り、温かい灯りが滲んでいる。
そこへ逃げ込むように入るのが、今の莉緒にはちょうどいい。
「……うん」
声が小さくなる。
小さくなっても、隼人は聞き返さない。
聞き返さない優しさが、胸に沁みた。
店内は甘い焼き菓子の匂いがした。
濡れたコートを脱ぐと、肩の重さが少し軽くなる。
軽くなった途端、胸の中の重さが目立ってしまうのが怖い。
隼人がメニューを見ながら言う。
「温かいの。何がいい」
命令でも、提案でもなく、ただの確認。
その“普通”が、今は救いだった。
「……ココア」
言った瞬間、自分でも驚いた。
陸に出すために用意するココアじゃない。
誰にも見せない自分の“好き”を口にした。
隼人は短く頷いた。
「了解」
それだけで、莉緒の胸の奥が少し緩んだ。
席に座ると、窓の外の雨が見える。
雨粒がガラスを叩き、細い線になって流れていく。
それは、ホテルロビーの日からずっと、同じ形で心に残っている線だった。
隼人が戻ってきて、ココアを置いた。
湯気が立ち上り、甘い香りが鼻先を撫でる。
両手でカップを包むと、指先から熱が沁みてくる。
(温かい)
それだけで、涙が出そうになった。
温かさは、弱さを引き出す。
「……大丈夫か」
隼人が言った。
声は低い。
心配しているのに、押しつけない声。
莉緒は“仮面の答え”を口にしそうになって、やめた。
ここでまで「大丈夫」と言ったら、息ができなくなる。
「……分からない」
出たのは、それだった。
綺麗な言葉じゃない。
完璧な令嬢の言葉じゃない。
隼人は驚かなかった。
頷いただけだった。
「そっか」
その短さが、優しかった。
「説明しろ」と言わない。
「泣くな」と言わない。
「頑張れ」と言わない。
隼人はただ、ココアのカップを莉緒の近くへ少し寄せた。
それだけの動作で、“ここにいていい”と言ってくれる。
莉緒は湯気越しに、自分の指先を見た。
震えている。
震えているのに、気づかないふりをしてきた。
気づいたら崩れてしまうから。
「今日、どこ行ってた」
隼人が聞いた。
責める口調じゃない。
“事実”を聞く口調。
「……発表の準備」
「ふうん」
隼人はそれ以上突っ込まない。
突っ込めば、莉緒が息を止めると知っているみたいに。
静けさが落ちる。
でも、嫌な静けさじゃない。
“話さなくても壊れない静けさ”だった。
莉緒は、ぽつりと零した。
「私、ちゃんと笑ってたと思う」
言ってから、胸が痛くなった。
笑っていた。
笑っているほど、自分の心が死んでいく。
隼人は少しだけ眉を寄せた。
「……笑ってたな」
事実だけを言う。
嘘を混ぜない。
嘘を混ぜないからこそ、優しい。
莉緒はカップを握りしめた。
熱いのに、冷たい。
「笑ってるとね……楽になるの」
楽になる。
それは本当だ。
楽になる代わりに、何かが抜けていくのも本当だ。
隼人は小さく息を吐いた。
「楽になってるなら、それでいい」
“それでいい”。
その言葉が、胸を震わせた。
隼人は続ける。
「でも、息ができなくなるなら――ここに来い」
命令じゃない。
約束でもない。
ただの、避難所の提示。
莉緒の喉が熱くなった。
涙が出そうになるのを、湯気のせいにして瞬きをする。
「……隼人、迷惑じゃない?」
「迷惑なら来てねえよ」
ぶっきらぼうに言って、隼人は視線を外した。
照れ隠し。
その照れ隠しが、莉緒の心を少しだけ救った。
そこへ、スマートフォンが震えた。
画面にはまた陸の名前が出た。
莉緒の指が止まる。
湯気が、急に冷たく見える。
隼人は画面を見ないふりをした。
見ないふりをすることで、莉緒の選択を奪わない。
「……出ないのか」
ただ、それだけ言う。
責めない。促さない。
莉緒は首を振った。
「……今は、無理」
“今は”。
陸がよく使う言葉。
でも、莉緒の“今は”は違う。
今は壊れるから、という意味だ。
隼人が頷く。
「なら、それでいい」
それでいい。
また、その言葉。
陸に言われた「信じてくれ」は、理由がないから苦しかった。
隼人の「それでいい」は、理由がなくても、息ができた。
雨が少し弱くなっていた。
窓の外の線が細くなる。
莉緒はカップの底に残った甘さを感じながら、思った。
(私は今、陸じゃない場所で呼吸をしている)
その事実が、少し怖い。
でも、怖いほど救われる。
店を出ると、雨は小降りになっていた。
隼人が傘を差す。
今度は少しだけ、自分の肩も濡れる角度で。
「送らない」
隼人は先に言った。
「送ったら、またお前が気を使う。家までの道、覚えてるだろ」
突き放すみたいで、突き放していない。
線引きの優しさ。
「……うん」
莉緒は頷いた。
頷いた瞬間、胸が少しだけ軽い。
「ありがと」
「礼はいらない」
隼人はそれだけ言って、踵を返した。
背中が遠ざかる。
それでも、安心が残る。
莉緒は一人で歩き出した。
雨粒が頬に当たる。冷たい。
でもさっきより痛くない。
――この夜、莉緒は“避難所”を持ってしまった。
それは陸にとって、最も怖い兆しになる。
そして莉緒自身も気づく。
優しさには、二種類ある。
理由を言わずに押しつける優しさと、何も言わずに守る優しさ。
どちらが救いになるかを、心がもう知ってしまった。
スマートフォンの画面が暗くなっただけなのに、胸の中の灯りまで消えたように感じる。
(義務なんだ)
(婚約者だから、連絡しただけ)
そう結論づけて、そう思い込んで、そうするしかない――と自分に言い聞かせた。
けれど思い込めば思い込むほど、呼吸が浅くなる。
息が胸の上で止まり、肺の奥まで届かない。
莉緒はコートを羽織って家を出た。
理由を作るのは簡単だ。
発表に向けた小物の準備。贈答品の確認。母への頼まれごと。
実際、やることはいくらでもある。
でも本当は、ただ――この家の静けさから逃げたかった。
外は、雨が降り始めていた。
細くて冷たい雨。
針みたいに肌を刺す。
傘を持っていないことに気づいたのは、門を出て数歩歩いてからだった。
(戻ろう)
そう思ったのに、足が止まらない。
戻ったら、また“待つ場所”に戻ってしまう気がした。
陸からの言葉を、理由を、説明を――待ってしまう場所へ。
雨は少しずつ強くなる。
髪の先が湿り、頬が冷える。
コートの肩が重くなる。
それが、今の自分にちょうどよかった。
濡れている方が、痛みが麻痺する気がする。
商店街のアーケードが見えた。
そこへ入れば、雨は避けられる。
けれどアーケードの明るさが、今日は眩しすぎた。
人の笑い声、店の呼び込み、温かい匂い。
普通の生活が、莉緒の心だけを置き去りにする。
足を早めようとして、ふらりと視界が揺れた。
自分が思っている以上に、身体が疲れている。
心が削れていると、身体は追いつけない。
「……っ」
踏み止まろうとした瞬間、雨が一気に強くなった。
雫が頬を打ち、視界が滲む。
そのとき――傘の布が、頭上を覆った。
雨音が、少し遠くなる。
世界が一枚、柔らかい膜で守られたみたいに。
「傘も持たずに、何やってんだ」
聞き慣れた声が、すぐ横から落ちた。
ぶっきらぼうなのに、温度がある声。
莉緒が顔を上げると、一条隼人が立っていた。
黒いコート。濡れた前髪。
でも目だけははっきりと莉緒を捉えている。
「……隼人」
呼んだ瞬間、喉がきゅっと痛んだ。
自分が今、どれだけ無理をしているのか、バレてしまう気がした。
「風邪ひくぞ」
隼人はそれだけ言って、傘を少しだけ莉緒側に傾けた。
自分の肩が濡れる角度。
その角度が、嫌な記憶を連れてくる。
――陸が麗奈に差した傘の角度。
胸がきゅっと縮んで、莉緒は反射的に目を逸らした。
比べたくないのに比べてしまう。
比べるほど自分が惨めになる。
隼人は気づいたのか、気づかないふりをしたのか。
何も言わずに言葉を変えた。
「雨宿り。あそこ」
指差した先には、小さなカフェの軒先があった。
窓ガラスが曇り、温かい灯りが滲んでいる。
そこへ逃げ込むように入るのが、今の莉緒にはちょうどいい。
「……うん」
声が小さくなる。
小さくなっても、隼人は聞き返さない。
聞き返さない優しさが、胸に沁みた。
店内は甘い焼き菓子の匂いがした。
濡れたコートを脱ぐと、肩の重さが少し軽くなる。
軽くなった途端、胸の中の重さが目立ってしまうのが怖い。
隼人がメニューを見ながら言う。
「温かいの。何がいい」
命令でも、提案でもなく、ただの確認。
その“普通”が、今は救いだった。
「……ココア」
言った瞬間、自分でも驚いた。
陸に出すために用意するココアじゃない。
誰にも見せない自分の“好き”を口にした。
隼人は短く頷いた。
「了解」
それだけで、莉緒の胸の奥が少し緩んだ。
席に座ると、窓の外の雨が見える。
雨粒がガラスを叩き、細い線になって流れていく。
それは、ホテルロビーの日からずっと、同じ形で心に残っている線だった。
隼人が戻ってきて、ココアを置いた。
湯気が立ち上り、甘い香りが鼻先を撫でる。
両手でカップを包むと、指先から熱が沁みてくる。
(温かい)
それだけで、涙が出そうになった。
温かさは、弱さを引き出す。
「……大丈夫か」
隼人が言った。
声は低い。
心配しているのに、押しつけない声。
莉緒は“仮面の答え”を口にしそうになって、やめた。
ここでまで「大丈夫」と言ったら、息ができなくなる。
「……分からない」
出たのは、それだった。
綺麗な言葉じゃない。
完璧な令嬢の言葉じゃない。
隼人は驚かなかった。
頷いただけだった。
「そっか」
その短さが、優しかった。
「説明しろ」と言わない。
「泣くな」と言わない。
「頑張れ」と言わない。
隼人はただ、ココアのカップを莉緒の近くへ少し寄せた。
それだけの動作で、“ここにいていい”と言ってくれる。
莉緒は湯気越しに、自分の指先を見た。
震えている。
震えているのに、気づかないふりをしてきた。
気づいたら崩れてしまうから。
「今日、どこ行ってた」
隼人が聞いた。
責める口調じゃない。
“事実”を聞く口調。
「……発表の準備」
「ふうん」
隼人はそれ以上突っ込まない。
突っ込めば、莉緒が息を止めると知っているみたいに。
静けさが落ちる。
でも、嫌な静けさじゃない。
“話さなくても壊れない静けさ”だった。
莉緒は、ぽつりと零した。
「私、ちゃんと笑ってたと思う」
言ってから、胸が痛くなった。
笑っていた。
笑っているほど、自分の心が死んでいく。
隼人は少しだけ眉を寄せた。
「……笑ってたな」
事実だけを言う。
嘘を混ぜない。
嘘を混ぜないからこそ、優しい。
莉緒はカップを握りしめた。
熱いのに、冷たい。
「笑ってるとね……楽になるの」
楽になる。
それは本当だ。
楽になる代わりに、何かが抜けていくのも本当だ。
隼人は小さく息を吐いた。
「楽になってるなら、それでいい」
“それでいい”。
その言葉が、胸を震わせた。
隼人は続ける。
「でも、息ができなくなるなら――ここに来い」
命令じゃない。
約束でもない。
ただの、避難所の提示。
莉緒の喉が熱くなった。
涙が出そうになるのを、湯気のせいにして瞬きをする。
「……隼人、迷惑じゃない?」
「迷惑なら来てねえよ」
ぶっきらぼうに言って、隼人は視線を外した。
照れ隠し。
その照れ隠しが、莉緒の心を少しだけ救った。
そこへ、スマートフォンが震えた。
画面にはまた陸の名前が出た。
莉緒の指が止まる。
湯気が、急に冷たく見える。
隼人は画面を見ないふりをした。
見ないふりをすることで、莉緒の選択を奪わない。
「……出ないのか」
ただ、それだけ言う。
責めない。促さない。
莉緒は首を振った。
「……今は、無理」
“今は”。
陸がよく使う言葉。
でも、莉緒の“今は”は違う。
今は壊れるから、という意味だ。
隼人が頷く。
「なら、それでいい」
それでいい。
また、その言葉。
陸に言われた「信じてくれ」は、理由がないから苦しかった。
隼人の「それでいい」は、理由がなくても、息ができた。
雨が少し弱くなっていた。
窓の外の線が細くなる。
莉緒はカップの底に残った甘さを感じながら、思った。
(私は今、陸じゃない場所で呼吸をしている)
その事実が、少し怖い。
でも、怖いほど救われる。
店を出ると、雨は小降りになっていた。
隼人が傘を差す。
今度は少しだけ、自分の肩も濡れる角度で。
「送らない」
隼人は先に言った。
「送ったら、またお前が気を使う。家までの道、覚えてるだろ」
突き放すみたいで、突き放していない。
線引きの優しさ。
「……うん」
莉緒は頷いた。
頷いた瞬間、胸が少しだけ軽い。
「ありがと」
「礼はいらない」
隼人はそれだけ言って、踵を返した。
背中が遠ざかる。
それでも、安心が残る。
莉緒は一人で歩き出した。
雨粒が頬に当たる。冷たい。
でもさっきより痛くない。
――この夜、莉緒は“避難所”を持ってしまった。
それは陸にとって、最も怖い兆しになる。
そして莉緒自身も気づく。
優しさには、二種類ある。
理由を言わずに押しつける優しさと、何も言わずに守る優しさ。
どちらが救いになるかを、心がもう知ってしまった。

