夜は、静かに冷えていた。
窓の外では街の灯りが滲み、遠くの車の音が薄く漂う。
雨は降っていない。
けれど莉緒の胸の中には、ずっと針みたいな雨が降り続いていた。
会食から戻ってから、莉緒は自分の呼吸が浅いことに気づいていた。
息を吸うと胸が痛い。
吐くと、何かが抜けていく気がして怖い。
だから、浅く、浅く。
(確定した)
(私じゃない)
そう結論づけたはずなのに、心はまだ陸を探す。
探してしまう自分が嫌で、莉緒は部屋の灯りを少し暗くした。
暗い方が、感情の輪郭がぼやける気がしたから。
リビングのテーブルには、発表用の資料が積み重なっている。
コメント案、導線、衣装の候補。
どれも整っている。整っているほど、莉緒の心はそこに居場所を見つけられない。
佐山の母が廊下を通りかかり、控えめに声をかけた。
「莉緒、温かいもの、飲む?」
莉緒は微笑んだ。
「大丈夫。ありがとう」
大丈夫。
またこの言葉。
言うたびに、心が少しずつ遠ざかるのに、止められない。
母は何も言わず、そっと扉を閉めた。
その気遣いがありがたいのに、胸が痛む。
――そのとき、スマートフォンが震えた。
机の上で短く、規則正しく振動する。
音は小さいのに、莉緒の心臓は跳ねた。
画面には短い名前。
【陸】
たった二文字が、胸の奥を掻き乱す。
出たい。
出たら、何かが変わるかもしれない。
でも――出たら、また期待してしまう。
期待は毒だ。
毒だと知っているのに、指が勝手に画面を滑らせた。
「……もしもし」
『莉緒。遅くなる』
陸の声は低く、短い。
用件だけを切り取った声。
仕事の声。
莉緒は、胸の中に何かが沈むのを感じた。
“遅くなる”という事実より、“それだけ”で済ませる声が痛かった。
「……分かりました」
『心配するな』
心配するな。
優しい言葉の形をしている。
でも莉緒には、その優しさが“義務”に見えた。
(婚約者だから、連絡している)
(責任感で言っている)
(本当は――他の人のところにいるのに)
思考が勝手に走る。
止めたいのに止まらない。
「……お仕事ですか」
口に出した瞬間、後悔した。
詰問に聞こえる。
詰問なんてしたくない。
したら惨めになる。
陸は一拍置いた。
『ああ。仕事だ』
短い。
具体がない。
具体がないほど、想像は増える。
(仕事、って何)
(誰と)
(どこで)
問いが喉まで来て、全部飲み込む。
飲み込むほど、胸が苦しい。
「……そうなんですね」
莉緒は笑う気配だけを声に混ぜた。
笑っていないのに、笑っている声。
これが、仮面の声だ。
『……莉緒』
陸が名前を呼んだ。
その呼び方に、ほんの少しだけ温度があった。
それだけで心が揺れる。
(揺れるな)
(期待するな)
莉緒は、先に言った。
「大丈夫です。気にしないでください」
大丈夫。
気にしないで。
それは優しさの形をした拒絶だ。
陸の呼吸が、電話越しに微かに乱れた気がした。
『……お前、何かあったのか』
その問いに、莉緒の胸が痛む。
あった。
ある。
ずっとある。
でも言えない。
言ったら、陸が困る。
困らせたくない。
――まだ好きだから。
「何もありません」
完璧な嘘。
嘘が上手になった自分が、今日も嫌だった。
『……そうか』
陸の声が少し硬い。
苛立ちか、焦りか。
莉緒には分からない。分からないことが怖い。
沈黙が落ちる。
電話越しの沈黙は、部屋の沈黙より残酷だった。
距離があるから、触れられない。
触れられないから、誤解が育つ。
莉緒は、沈黙を終わらせた。
終わらせることで、自分を守る。
「陸さん、お忙しいでしょうから……切りますね」
『待て』
陸の声が少しだけ強くなる。
その強さに、胸が跳ねた。
(止めてくれる?)
(言ってくれる?)
(“違う”の続きを?)
期待が喉元までせり上がって、莉緒は必死に飲み込んだ。
『……明日、時間を作る』
陸が言った。
短い約束。
莉緒の胸の奥で、火が小さく灯りそうになる。
灯ったら危険だ。
灯れば、また燃える。
「……ありがとうございます」
礼儀正しく言ってしまう。
恋人みたいに「待ってる」とは言えない。
婚約者としての仮面が、それを許さない。
『……莉緒』
陸がもう一度名前を呼ぶ。
言いたいことがある声。
けれど言葉が続かない。
また、飲み込む。
また、黙る。
(言えない)
(私には言えない)
(九条さんには――)
莉緒はその考えを振り払おうとして、できない。
できない自分が嫌で、声を整える。
「本当に大丈夫です。……おやすみなさい」
先に言ってしまう。
先に終わらせてしまう。
終わらせれば、これ以上期待しなくて済むから。
『……おやすみ』
陸の声が遠ざかる。
通話が切れる。
スマートフォンの画面が暗くなると同時に、莉緒の心も暗くなった。
――たった数十秒の電話。
用件だけ。
優しさの形だけ。
それが、莉緒には“義務”に見える。
もし陸が本当に好きなら、もっと何か言うはずだ。
説明するはずだ。
怖いなら抱きしめるはずだ。
でも陸は言わない。
抱きしめない。
ただ短く連絡をして、短く安心させようとする。
(義務なんだ)
(婚約者だから)
(責任だから)
その結論が、喉の奥を冷たく塞いだ。
莉緒はスマートフォンを伏せた。
伏せた画面に、自分の顔が薄く映る。
笑っていない。
泣いてもいない。
ただ、静かだった。
静かであることが、“ちゃんとしている”証拠みたいに思えてしまう。
ちゃんとしていれば、傷つかない。
そう思い込もうとする。
窓の外で、遠くの車のライトが流れた。
光は消えていく。
消えていくものを追いかけると、また痛い。
(追いかけない)
(期待しない)
(私は、良い婚約者でいればいい)
その夜、莉緒はまた一つ、心の扉を閉めた。
鍵は小さく、静かに回った。
音はほとんどしなかったのに、胸の奥だけが大きく軋んだ。
窓の外では街の灯りが滲み、遠くの車の音が薄く漂う。
雨は降っていない。
けれど莉緒の胸の中には、ずっと針みたいな雨が降り続いていた。
会食から戻ってから、莉緒は自分の呼吸が浅いことに気づいていた。
息を吸うと胸が痛い。
吐くと、何かが抜けていく気がして怖い。
だから、浅く、浅く。
(確定した)
(私じゃない)
そう結論づけたはずなのに、心はまだ陸を探す。
探してしまう自分が嫌で、莉緒は部屋の灯りを少し暗くした。
暗い方が、感情の輪郭がぼやける気がしたから。
リビングのテーブルには、発表用の資料が積み重なっている。
コメント案、導線、衣装の候補。
どれも整っている。整っているほど、莉緒の心はそこに居場所を見つけられない。
佐山の母が廊下を通りかかり、控えめに声をかけた。
「莉緒、温かいもの、飲む?」
莉緒は微笑んだ。
「大丈夫。ありがとう」
大丈夫。
またこの言葉。
言うたびに、心が少しずつ遠ざかるのに、止められない。
母は何も言わず、そっと扉を閉めた。
その気遣いがありがたいのに、胸が痛む。
――そのとき、スマートフォンが震えた。
机の上で短く、規則正しく振動する。
音は小さいのに、莉緒の心臓は跳ねた。
画面には短い名前。
【陸】
たった二文字が、胸の奥を掻き乱す。
出たい。
出たら、何かが変わるかもしれない。
でも――出たら、また期待してしまう。
期待は毒だ。
毒だと知っているのに、指が勝手に画面を滑らせた。
「……もしもし」
『莉緒。遅くなる』
陸の声は低く、短い。
用件だけを切り取った声。
仕事の声。
莉緒は、胸の中に何かが沈むのを感じた。
“遅くなる”という事実より、“それだけ”で済ませる声が痛かった。
「……分かりました」
『心配するな』
心配するな。
優しい言葉の形をしている。
でも莉緒には、その優しさが“義務”に見えた。
(婚約者だから、連絡している)
(責任感で言っている)
(本当は――他の人のところにいるのに)
思考が勝手に走る。
止めたいのに止まらない。
「……お仕事ですか」
口に出した瞬間、後悔した。
詰問に聞こえる。
詰問なんてしたくない。
したら惨めになる。
陸は一拍置いた。
『ああ。仕事だ』
短い。
具体がない。
具体がないほど、想像は増える。
(仕事、って何)
(誰と)
(どこで)
問いが喉まで来て、全部飲み込む。
飲み込むほど、胸が苦しい。
「……そうなんですね」
莉緒は笑う気配だけを声に混ぜた。
笑っていないのに、笑っている声。
これが、仮面の声だ。
『……莉緒』
陸が名前を呼んだ。
その呼び方に、ほんの少しだけ温度があった。
それだけで心が揺れる。
(揺れるな)
(期待するな)
莉緒は、先に言った。
「大丈夫です。気にしないでください」
大丈夫。
気にしないで。
それは優しさの形をした拒絶だ。
陸の呼吸が、電話越しに微かに乱れた気がした。
『……お前、何かあったのか』
その問いに、莉緒の胸が痛む。
あった。
ある。
ずっとある。
でも言えない。
言ったら、陸が困る。
困らせたくない。
――まだ好きだから。
「何もありません」
完璧な嘘。
嘘が上手になった自分が、今日も嫌だった。
『……そうか』
陸の声が少し硬い。
苛立ちか、焦りか。
莉緒には分からない。分からないことが怖い。
沈黙が落ちる。
電話越しの沈黙は、部屋の沈黙より残酷だった。
距離があるから、触れられない。
触れられないから、誤解が育つ。
莉緒は、沈黙を終わらせた。
終わらせることで、自分を守る。
「陸さん、お忙しいでしょうから……切りますね」
『待て』
陸の声が少しだけ強くなる。
その強さに、胸が跳ねた。
(止めてくれる?)
(言ってくれる?)
(“違う”の続きを?)
期待が喉元までせり上がって、莉緒は必死に飲み込んだ。
『……明日、時間を作る』
陸が言った。
短い約束。
莉緒の胸の奥で、火が小さく灯りそうになる。
灯ったら危険だ。
灯れば、また燃える。
「……ありがとうございます」
礼儀正しく言ってしまう。
恋人みたいに「待ってる」とは言えない。
婚約者としての仮面が、それを許さない。
『……莉緒』
陸がもう一度名前を呼ぶ。
言いたいことがある声。
けれど言葉が続かない。
また、飲み込む。
また、黙る。
(言えない)
(私には言えない)
(九条さんには――)
莉緒はその考えを振り払おうとして、できない。
できない自分が嫌で、声を整える。
「本当に大丈夫です。……おやすみなさい」
先に言ってしまう。
先に終わらせてしまう。
終わらせれば、これ以上期待しなくて済むから。
『……おやすみ』
陸の声が遠ざかる。
通話が切れる。
スマートフォンの画面が暗くなると同時に、莉緒の心も暗くなった。
――たった数十秒の電話。
用件だけ。
優しさの形だけ。
それが、莉緒には“義務”に見える。
もし陸が本当に好きなら、もっと何か言うはずだ。
説明するはずだ。
怖いなら抱きしめるはずだ。
でも陸は言わない。
抱きしめない。
ただ短く連絡をして、短く安心させようとする。
(義務なんだ)
(婚約者だから)
(責任だから)
その結論が、喉の奥を冷たく塞いだ。
莉緒はスマートフォンを伏せた。
伏せた画面に、自分の顔が薄く映る。
笑っていない。
泣いてもいない。
ただ、静かだった。
静かであることが、“ちゃんとしている”証拠みたいに思えてしまう。
ちゃんとしていれば、傷つかない。
そう思い込もうとする。
窓の外で、遠くの車のライトが流れた。
光は消えていく。
消えていくものを追いかけると、また痛い。
(追いかけない)
(期待しない)
(私は、良い婚約者でいればいい)
その夜、莉緒はまた一つ、心の扉を閉めた。
鍵は小さく、静かに回った。
音はほとんどしなかったのに、胸の奥だけが大きく軋んだ。

