雨は降っていないのに、空気が湿っていた。
火消しの打ち合わせを終えてから、莉緒の胸の中にはずっと、くすぶる煙が残っている。
燃えているのに、誰もそれを“火事”と呼ばない。
それが一番苦しい。
今日は、発表前の顔合わせを兼ねた小さな会食だった。
西条側の関係者、佐山側の関係者、そして“慈善団体”の代表者。
名目は立派で、実態は――世間に見せるための並びを整える場。
会場はホテルのラウンジ。
あの雨の日のホテルとは違う。
違うはずなのに、ホテルというだけで胸が痛む。
磨かれた床、甘い花の香り、優雅な照明。
――どれも、麗奈の匂いに似ている。
莉緒は、完璧な笑顔を作って入った。
仮面を被れば、ここでは生きられる。
「佐山さま、本日はありがとうございます」
受付で名を告げると、スタッフが恭しく頭を下げる。
その礼儀が、妙に冷たい。
(私は“婚約者”としてここにいる)
(莉緒としてではなく)
ラウンジの奥、指定された席へ向かう。
陸はまだ来ていない。
それだけで胸がざわつくのに、ざわつく自分を叱る。
(期待しない)
(期待したら、また痛い)
佐山側の席に着くと、父が小声で言った。
「莉緒、今日も頼む。……西条家の顔を立てる場だ」
“頼む”。
それは娘への言葉ではなく、駒への言葉みたいに聞こえる。
莉緒は微笑んで頷いた。
「分かっています」
分かっている。
分かってしまったから、痛い。
程なくして、陸が現れた。
黒いスーツ、整った表情。
仕事の顔。
いつものように、背筋が正しい。
莉緒は立ち上がり、婚約者として正しい角度で頭を下げる。
「お疲れさまです、陸さん」
呼び方は丁寧。
距離を含んだ丁寧さ。
陸の目が、僅かに揺れる。
それが“痛い”と分かるほど、莉緒はまだ陸を見てしまう。
見てしまう自分を、また殺す。
「……ああ。待たせたな」
短い声。
優しいのに、どこか焦っている。
会食が始まる。
乾杯。
グラスの触れ合う音。
笑い声。
予定された会話。
莉緒は完璧に振る舞った。
笑う。頷く。話題に合わせる。
その中でだけ、自分は生きていられる気がした。
――そして、事件は“偶然”の顔をしてやってきた。
ラウンジの入口が開き、風が通る。
外の湿った空気が混ざった瞬間、香りが流れ込んだ。
甘いのに冷たい香り。
上品で、逃げ道を塞ぐ香り。
莉緒の指先が、勝手に冷える。
(来た)
見なくても分かった。
身体が先に知ってしまう。
九条麗奈が、そこにいた。
今日は偶然を装うには十分な装いだった。
派手ではない。控えめなのに、目が奪われる。
黒髪が柔らかく光り、白い肌が照明に映える。
笑みは薄いのに、場の中心がそちらへ傾く。
「まあ……陸さま」
麗奈の声は、鈴が鳴るみたいに綺麗だった。
そして、驚いたふりが完璧だった。
「こんなところでお会いするなんて。……偶然ですね」
偶然。
その一言が、莉緒の胸を締めつける。
陸の表情が僅かに硬くなる。
ほんの一瞬、警戒する目。
けれどそれは“冷たく拒む”目にはならない。
「……九条」
陸がそう呼んだ瞬間、莉緒の喉の奥がきゅっと痛んだ。
名で呼ぶ距離。
それだけで、いくつも想像が増殖する。
麗奈はさらに一歩近づき、軽く頭を下げた。
「佐山さまもいらしていたのですね。失礼いたしました」
礼儀正しい。
完璧な挨拶。
だからこそ、拒絶できない。
「……九条さま」
莉緒も頭を下げる。
笑顔は崩さない。崩したら負ける。
麗奈が口元を柔らかくし、言った。
「私、こちらで慈善団体の方と打ち合わせがありまして。……偶然、通りかかっただけなんです」
“通りかかっただけ”。
それは嘘ではないかもしれない。
でも、嘘じゃないことが、莉緒には一番残酷だった。
陸が何か言いかける。
「今日は――」
その瞬間。
麗奈の足元が、ほんの少しだけ揺れた。
ほんの一瞬。
誰もが見落とす程度。
でも陸は見落とさない。
陸の手が伸びた。
麗奈の腕を、支える。
その動作は、反射だった。
反射だからこそ、優しい。
優しいからこそ、刺さる。
莉緒の視界が白くなる。
心臓が一拍遅れて跳ね、次の瞬間、どこかが冷たく固まった。
麗奈が小さく笑う。
「ごめんなさい。少し……立ちくらみが」
立ちくらみ。
雨が苦手。
弱い自分。
守ってあげたくなる理由。
麗奈は“善意を引き出す形”を知っている。
だからこそ、陸は冷たくできない。
陸が短く言う。
「無理をするな」
その言葉の温度。
莉緒は、それを自分に向けて聞いたことがあったはずだ。
なのに今、麗奈に向けている。
その瞬間、莉緒の胸の奥で何かが折れた。
(やっぱり)
(やっぱり、あの人は特別)
その“確定”を、麗奈はさらに丁寧に押し固める。
莉緒の視界に入った、その瞬間だけ。
麗奈の指先が、陸の袖口にそっと触れた。
掴むのではない。
縋るのでもない。
ただ、“恋人みたいに見える角度”で触れる。
触れたのは一秒にも満たない。
でも莉緒には、永遠みたいに長かった。
陸の体が僅かに硬直する。
振り払えない。
振り払えば、麗奈が倒れるかもしれない。
倒れたら、場が騒ぐ。
騒げば、週刊誌は喜ぶ。
陸は動けない。
――動けない理由がある。
莉緒はその理由を知らない。
知らないから、見えているものだけが真実になる。
麗奈が莉緒を見る。
目は優しい。
口元は柔らかい。
同情のようにも見える。
「佐山さま、ご心配をおかけしてしまって……」
心配。
その単語が、莉緒の心をさらに縛る。
心配しているふりをしなければならない。
怒れない。
嫌な顔をしたら、“狭量な婚約者”になる。
莉緒は微笑んだ。
喉が痛い。
「……大丈夫です」
大丈夫じゃないのに。
大丈夫という言葉で、自分を縛る。
そこへ、桐谷由香がふわりと現れた。
いつも軽い。軽いから、針を刺すのに向いている。
「まあ、九条さま! いらしてたのね!」
由香の声が弾み、周囲の視線が集まる。
集まった視線は、莉緒の皮膚を刺す。
「陸さまって本当に優しいのよね。ねえ佐山さま、九条さまにまであんなに気遣いできるんだもの、素敵よねえ」
“九条さまにまで”。
その言い方が、莉緒の胸を裂く。
まで。
つまり、特別。
つまり、私だけではない。
莉緒は笑った。
完璧に。
完璧であるほど、心が遠ざかる。
「……陸さんは、お優しい方ですから」
優しい方。
それはもう、“私だけの優しさ”ではない。
麗奈が、困ったように眉を下げる。
慈善の微笑み。
毒の微笑み。
「陸さま、本当に……いつも助けてくださって」
助けて。
またその言葉。
事実だけが積み重なる。
嘘がない。
だから反論できない。
だから怒れない。
陸が小さく息を吐き、麗奈に言った。
「……落ち着いたら、席に戻れ」
冷たくない。
突き放さない。
最低限の線引きのつもりなのに、莉緒には“優しい拒否”に見える。
拒否ですら優しいなら、麗奈はどれほど大事なのだろうと、心が勝手に決めてしまう。
莉緒は、自分の指先が震えているのを感じた。
グラスを持てば震えが見える。
だから、何もしない。
何もしないことが、今の自分の唯一の防御だった。
父が、隣で小さく咳払いをした。
“耐えろ”という合図。
莉緒は頷く。
頷けてしまう自分が怖い。
麗奈が、最後にもう一度だけ莉緒へ微笑みかけた。
「佐山さま、どうか……お気になさらないでくださいね」
お気になさらないで。
それは優しさの形をしている。
でも実際は、莉緒の口を塞ぐ言葉だ。
怒るな。
疑うな。
黙れ。
そして麗奈は、すっと立ち去った。
香りだけを残して。
甘くて冷たい香りが、席の空気に薄く残る。
その香りは、まるで“証拠”みたいに莉緒の肺に入り、吐いても消えない。
陸が、莉緒を見る。
何か言いたい目。
けれど言えない目。
「……莉緒」
呼ばれて、莉緒は微笑み返す。
微笑むしかない。
ここで崩れたら、負ける。
「大丈夫です」
また言ってしまう。
大丈夫じゃないのに。
陸の眉が僅かに寄る。
その表情に一瞬だけ胸が痛む。
でも、その痛みすら、莉緒は押し潰した。
(確定した)
(私じゃない)
(選ばれるのは、あの人)
会食が再開され、笑い声が戻る。
戻ったのに、莉緒の耳には遠い。
“偶然”は、偶然じゃない。
麗奈は、莉緒が見ている瞬間だけ、寄り添った。
それが、莉緒の心に確定の判を押すためだと、証拠はない。
証拠はないのに、胸が知ってしまった。
その夜、莉緒はもう一つ学ぶ。
嘘は反論できる。
でも、嘘のない善意は反論できない。
反論できないものは、心を静かに殺す。
莉緒は、笑顔をさらに上手にした。
上手にすればするほど、陸の手が届かなくなると知りながら。
火消しの打ち合わせを終えてから、莉緒の胸の中にはずっと、くすぶる煙が残っている。
燃えているのに、誰もそれを“火事”と呼ばない。
それが一番苦しい。
今日は、発表前の顔合わせを兼ねた小さな会食だった。
西条側の関係者、佐山側の関係者、そして“慈善団体”の代表者。
名目は立派で、実態は――世間に見せるための並びを整える場。
会場はホテルのラウンジ。
あの雨の日のホテルとは違う。
違うはずなのに、ホテルというだけで胸が痛む。
磨かれた床、甘い花の香り、優雅な照明。
――どれも、麗奈の匂いに似ている。
莉緒は、完璧な笑顔を作って入った。
仮面を被れば、ここでは生きられる。
「佐山さま、本日はありがとうございます」
受付で名を告げると、スタッフが恭しく頭を下げる。
その礼儀が、妙に冷たい。
(私は“婚約者”としてここにいる)
(莉緒としてではなく)
ラウンジの奥、指定された席へ向かう。
陸はまだ来ていない。
それだけで胸がざわつくのに、ざわつく自分を叱る。
(期待しない)
(期待したら、また痛い)
佐山側の席に着くと、父が小声で言った。
「莉緒、今日も頼む。……西条家の顔を立てる場だ」
“頼む”。
それは娘への言葉ではなく、駒への言葉みたいに聞こえる。
莉緒は微笑んで頷いた。
「分かっています」
分かっている。
分かってしまったから、痛い。
程なくして、陸が現れた。
黒いスーツ、整った表情。
仕事の顔。
いつものように、背筋が正しい。
莉緒は立ち上がり、婚約者として正しい角度で頭を下げる。
「お疲れさまです、陸さん」
呼び方は丁寧。
距離を含んだ丁寧さ。
陸の目が、僅かに揺れる。
それが“痛い”と分かるほど、莉緒はまだ陸を見てしまう。
見てしまう自分を、また殺す。
「……ああ。待たせたな」
短い声。
優しいのに、どこか焦っている。
会食が始まる。
乾杯。
グラスの触れ合う音。
笑い声。
予定された会話。
莉緒は完璧に振る舞った。
笑う。頷く。話題に合わせる。
その中でだけ、自分は生きていられる気がした。
――そして、事件は“偶然”の顔をしてやってきた。
ラウンジの入口が開き、風が通る。
外の湿った空気が混ざった瞬間、香りが流れ込んだ。
甘いのに冷たい香り。
上品で、逃げ道を塞ぐ香り。
莉緒の指先が、勝手に冷える。
(来た)
見なくても分かった。
身体が先に知ってしまう。
九条麗奈が、そこにいた。
今日は偶然を装うには十分な装いだった。
派手ではない。控えめなのに、目が奪われる。
黒髪が柔らかく光り、白い肌が照明に映える。
笑みは薄いのに、場の中心がそちらへ傾く。
「まあ……陸さま」
麗奈の声は、鈴が鳴るみたいに綺麗だった。
そして、驚いたふりが完璧だった。
「こんなところでお会いするなんて。……偶然ですね」
偶然。
その一言が、莉緒の胸を締めつける。
陸の表情が僅かに硬くなる。
ほんの一瞬、警戒する目。
けれどそれは“冷たく拒む”目にはならない。
「……九条」
陸がそう呼んだ瞬間、莉緒の喉の奥がきゅっと痛んだ。
名で呼ぶ距離。
それだけで、いくつも想像が増殖する。
麗奈はさらに一歩近づき、軽く頭を下げた。
「佐山さまもいらしていたのですね。失礼いたしました」
礼儀正しい。
完璧な挨拶。
だからこそ、拒絶できない。
「……九条さま」
莉緒も頭を下げる。
笑顔は崩さない。崩したら負ける。
麗奈が口元を柔らかくし、言った。
「私、こちらで慈善団体の方と打ち合わせがありまして。……偶然、通りかかっただけなんです」
“通りかかっただけ”。
それは嘘ではないかもしれない。
でも、嘘じゃないことが、莉緒には一番残酷だった。
陸が何か言いかける。
「今日は――」
その瞬間。
麗奈の足元が、ほんの少しだけ揺れた。
ほんの一瞬。
誰もが見落とす程度。
でも陸は見落とさない。
陸の手が伸びた。
麗奈の腕を、支える。
その動作は、反射だった。
反射だからこそ、優しい。
優しいからこそ、刺さる。
莉緒の視界が白くなる。
心臓が一拍遅れて跳ね、次の瞬間、どこかが冷たく固まった。
麗奈が小さく笑う。
「ごめんなさい。少し……立ちくらみが」
立ちくらみ。
雨が苦手。
弱い自分。
守ってあげたくなる理由。
麗奈は“善意を引き出す形”を知っている。
だからこそ、陸は冷たくできない。
陸が短く言う。
「無理をするな」
その言葉の温度。
莉緒は、それを自分に向けて聞いたことがあったはずだ。
なのに今、麗奈に向けている。
その瞬間、莉緒の胸の奥で何かが折れた。
(やっぱり)
(やっぱり、あの人は特別)
その“確定”を、麗奈はさらに丁寧に押し固める。
莉緒の視界に入った、その瞬間だけ。
麗奈の指先が、陸の袖口にそっと触れた。
掴むのではない。
縋るのでもない。
ただ、“恋人みたいに見える角度”で触れる。
触れたのは一秒にも満たない。
でも莉緒には、永遠みたいに長かった。
陸の体が僅かに硬直する。
振り払えない。
振り払えば、麗奈が倒れるかもしれない。
倒れたら、場が騒ぐ。
騒げば、週刊誌は喜ぶ。
陸は動けない。
――動けない理由がある。
莉緒はその理由を知らない。
知らないから、見えているものだけが真実になる。
麗奈が莉緒を見る。
目は優しい。
口元は柔らかい。
同情のようにも見える。
「佐山さま、ご心配をおかけしてしまって……」
心配。
その単語が、莉緒の心をさらに縛る。
心配しているふりをしなければならない。
怒れない。
嫌な顔をしたら、“狭量な婚約者”になる。
莉緒は微笑んだ。
喉が痛い。
「……大丈夫です」
大丈夫じゃないのに。
大丈夫という言葉で、自分を縛る。
そこへ、桐谷由香がふわりと現れた。
いつも軽い。軽いから、針を刺すのに向いている。
「まあ、九条さま! いらしてたのね!」
由香の声が弾み、周囲の視線が集まる。
集まった視線は、莉緒の皮膚を刺す。
「陸さまって本当に優しいのよね。ねえ佐山さま、九条さまにまであんなに気遣いできるんだもの、素敵よねえ」
“九条さまにまで”。
その言い方が、莉緒の胸を裂く。
まで。
つまり、特別。
つまり、私だけではない。
莉緒は笑った。
完璧に。
完璧であるほど、心が遠ざかる。
「……陸さんは、お優しい方ですから」
優しい方。
それはもう、“私だけの優しさ”ではない。
麗奈が、困ったように眉を下げる。
慈善の微笑み。
毒の微笑み。
「陸さま、本当に……いつも助けてくださって」
助けて。
またその言葉。
事実だけが積み重なる。
嘘がない。
だから反論できない。
だから怒れない。
陸が小さく息を吐き、麗奈に言った。
「……落ち着いたら、席に戻れ」
冷たくない。
突き放さない。
最低限の線引きのつもりなのに、莉緒には“優しい拒否”に見える。
拒否ですら優しいなら、麗奈はどれほど大事なのだろうと、心が勝手に決めてしまう。
莉緒は、自分の指先が震えているのを感じた。
グラスを持てば震えが見える。
だから、何もしない。
何もしないことが、今の自分の唯一の防御だった。
父が、隣で小さく咳払いをした。
“耐えろ”という合図。
莉緒は頷く。
頷けてしまう自分が怖い。
麗奈が、最後にもう一度だけ莉緒へ微笑みかけた。
「佐山さま、どうか……お気になさらないでくださいね」
お気になさらないで。
それは優しさの形をしている。
でも実際は、莉緒の口を塞ぐ言葉だ。
怒るな。
疑うな。
黙れ。
そして麗奈は、すっと立ち去った。
香りだけを残して。
甘くて冷たい香りが、席の空気に薄く残る。
その香りは、まるで“証拠”みたいに莉緒の肺に入り、吐いても消えない。
陸が、莉緒を見る。
何か言いたい目。
けれど言えない目。
「……莉緒」
呼ばれて、莉緒は微笑み返す。
微笑むしかない。
ここで崩れたら、負ける。
「大丈夫です」
また言ってしまう。
大丈夫じゃないのに。
陸の眉が僅かに寄る。
その表情に一瞬だけ胸が痛む。
でも、その痛みすら、莉緒は押し潰した。
(確定した)
(私じゃない)
(選ばれるのは、あの人)
会食が再開され、笑い声が戻る。
戻ったのに、莉緒の耳には遠い。
“偶然”は、偶然じゃない。
麗奈は、莉緒が見ている瞬間だけ、寄り添った。
それが、莉緒の心に確定の判を押すためだと、証拠はない。
証拠はないのに、胸が知ってしまった。
その夜、莉緒はもう一つ学ぶ。
嘘は反論できる。
でも、嘘のない善意は反論できない。
反論できないものは、心を静かに殺す。
莉緒は、笑顔をさらに上手にした。
上手にすればするほど、陸の手が届かなくなると知りながら。

