幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 その日の空は、曇っていた。
 雨が落ちる前の、重たい灰色。
 けれど莉緒の胸の中は、もうとっくに雨季だった。乾く気配がない。

 前日の「寄り添い写真」が出回ってから、周囲の空気が変わった。
 人の視線が“確認”になる。
 言葉が“質問”ではなく“判定”になる。

 佐山家の玄関ホールで、母が莉緒のコートの襟元を整えた。
 ほんの短い触れ方。けれどそれは「崩れないで」という合図にも見えた。

「莉緒、いい? 今日はね……」

 母の声が、少しだけ低い。
 普段の優しさの中に、覚悟が混ざっている声。

「……分かってる」

 莉緒は先に答えた。
 分かっている。
 自分が今、何を求められているのか。

 婚約者として、揺れないこと。
 騒がないこと。
 “綺麗に”見せること。

 西条グループ本社へ向かう車内は、静かだった。
 黒川が運転する。
 バックミラー越しに視線が触れたが、黒川は何も言わない。
 言わない優しさが、今はありがたい。

 ビルに入ると、空気がさらに冷たくなった気がした。
 ガラスと金属の匂い。
 磨かれた床。
 そこには人間の感情よりも、“段取り”が優先される世界がある。

 応接室の扉を開けると、神原がすでに立っていた。
 資料が机上に整然と並び、ホワイトボードには対応案が箇条書きされている。
 火消しの現場はいつも“清潔”だ。
 清潔すぎて、汚れた心が浮く。

「佐山様、本日はありがとうございます」

 神原の声は丁寧で、温度がない。
 悪意もない。
 それが一番怖い。

 陸が窓際に立っていた。
 背中が少しだけ硬い。
 いつもなら整っているはずの気配が、今日はわずかに乱れている。

 莉緒は礼をした。

「お時間をいただき、ありがとうございます」

 完璧な婚約者の声。
 心臓が痛いのに、声は滑らかに出る。
 仮面はもう、顔に馴染んでしまった。

 神原が切り出す。

「週刊誌の予告に関して、当社の方針を共有いたします」

 方針。
 その単語が、もう“決定”であることを示している。

「まず、交際の事実は否定します。ただし――強い否定、特に九条家の名前を出した否定は避けます」

 莉緒の喉がきゅっと締まった。

(名前を出せない)
(なぜ?)

 “出せない”ということは、“出したくない”理由があるということ。
 その理由の中心に、麗奈がいるように思えてしまう。

 神原は淡々と続ける。

「先日のホテル前での同席は“業務上の対応”として説明可能です。写真は事実ですが、意味づけをしない」

 意味づけ。
 ――意味づけをしてしまったのは、誰だろう。
 週刊誌? 噂?
 それとも、莉緒自身?

 莉緒は自分を責める方向へ、心が滑っていくのを感じた。

(私が勝手に意味づけした)
(私が勝手に傷ついた)

 自責は楽だ。
 誰も責めなくていい。
 その代わり、自分の心だけが削れる。

 神原が紙を一枚、莉緒の前に置いた。
 発表コメント案。
 “幸せです”“支え合ってまいります”“温かく見守ってください”。

 どれも正しい。
 正しいから苦しい。
 本当の言葉が入る余地がない。

「莉緒様には当日、こちらのコメントを基本線としてお願いしたいと考えております」

 お願い、という形をした命令。
 莉緒は微笑んで頷いた。

「承知しました」

 承知しました。
 その言葉の中に、莉緒の気持ちは一つもない。

 そのとき、ドアが開いて、香りが流れ込んできた。
 甘くて、上品で、逃げ道を塞ぐ匂い。

 西条香織――陸の母。

 淡い色の装い。声は柔らかく、目は鋭い。

「失礼します。少し状況を確認したくて」

 香織は微笑んで莉緒の隣に座った。
 座り方が優雅で、完璧で、圧がある。

「莉緒さん、大丈夫?」

 大丈夫。
 またその言葉。
 莉緒は反射的に微笑む。

「はい、大丈夫です」

 香織の視線が、莉緒の目元に留まる。
 泣いていないことを確かめるように。
 そして、泣いていないことに満足したように微笑む。

「そう。あなたは本当に偉いわ」

 偉い。
 その褒め言葉が、莉緒の胸を刺した。

 偉い=我慢できる。
 偉い=騒がない。
 偉い=“都合がいい”。

 香織は神原の資料を一枚手に取り、淡々と口にする。

「ここは“きちんと”しましょうね。余計な憶測は、西条にとっても、佐山にとっても良くない」

 “きちんと”。
 その言葉は、莉緒の心を整えるためではなく、世間体を整えるための言葉だ。

 陸が口を開こうとした。

「母上――」

 香織は微笑んだまま、視線だけで制する。

「陸。今は、家のために動きなさい」

 “今は”。
 またその言葉。
 莉緒の中で、何かが冷たく固まった。

 家のため。
 つまり、私のためではない。

 神原が頷く。

「はい。発表を前倒ししたのも、そのためです。ここで婚約者として“並び”を見せる」

 並び。
 商品みたいな言い方。

 莉緒は微笑む。
 微笑みながら、胸の奥が遠ざかっていく。

 香織が、さらに柔らかく言った。

「莉緒さん。あなたがしっかりしていれば、何も問題は起きないわ」

 しっかり。
 つまり、黙れ。
 つまり、泣くな。
 つまり、疑うな。

 莉緒は頷いた。
 頷くしかない。
 頷いた瞬間、自分の中の小さな叫びが潰れる音がした。

 神原が火消しの手順を説明する。
 記者対応、質問制限、写真撮影の位置。
 すべてが“正しい”。

 その正しさが、余計に燃える。
 火消しを急げば急ぐほど、「何かある」と見える。
 それは周囲の空気も分かっていて、だからこそ憶測が増殖する。

 莉緒は気づいてしまう。

(火消しが火種になる)

 神原が言った。

「九条家には当社からも連絡を入れます。先方にも動きがあるでしょう」

 先方。
 九条家。
 その名前が出るだけで、莉緒の心はまた勝手に結論を作る。

(やっぱり、九条さんは特別)
(だから、名前を出して否定できない)

 陸が、ようやく言葉を絞り出した。

「莉緒、俺は――」

 その声が、少しだけ震えていた。
 陸の声が震えるのを、莉緒は初めて聞いたかもしれない。

 期待が喉元までせり上がる。
 選ぶと言ってくれる?
 守ると言ってくれる?
 理由を言ってくれる?

 でも、城戸の咳払いが、また空気を切った。
 ほんの小さな音。
 それなのに、陸の言葉は止まる。

 止まる。
 止められる。
 ――言ってはいけないことがある。

 莉緒は、ゆっくりと微笑んだ。
 自分を守るために。
 そして、相手を責めないために。

「陸さん、大丈夫です」

 大丈夫じゃないのに。
 でもこれ以上、ここで心を見せたら、全部壊れる。

「私、準備します」

 自分の役割に戻る。
 戻れば、痛みが少しだけ麻痺するから。

 香織が満足そうに頷いた。

「そう。あなたは賢いわ」

 賢い。
 つまり、都合がいい。
 莉緒の胸の奥で、また何かが死んだ。

 打ち合わせが終わり、応接室を出る。
 廊下は静かで、窓の外はさらに暗い灰色になっていた。
 雨が落ちそうな空。

 エレベーターホールの前で、陸が追ってきた。

「莉緒」

 呼ばれた。
 心臓が跳ねる。
 跳ねたまま、平静を装う。

「はい」

 陸は言った。

「……信じてくれ」

 また、それだけ。
 理由はない。
 “信じて”というお願いだけ。

 莉緒は微笑んだ。
 微笑みが、少しだけ疲れているのを自分でも感じた。

「信じたいです」

 本音だった。
 信じたい。
 でも――

「でも、信じるための言葉が足りないです」

 丁寧に言った。
 丁寧な言葉は、刃になる。

 陸の目が揺れる。
 揺れるのに、言えない。
 言えないことがある。
 その事実だけが、莉緒の中で大きくなる。

 莉緒は軽く頭を下げた。

「お忙しいでしょうから、失礼します」

 “丁寧な撤退”。
 拒絶じゃない。
 でも、距離を確定させる撤退。

 エレベーターの扉が閉まる。
 鏡に映る自分の顔は、笑っている。

(完璧な婚約者)

 その完璧さが、今日も莉緒の心を一枚削った。

 火消しは、正しい。
 正しいから、誰も悪者にならない。
 悪者にならないまま、莉緒だけが静かに燃えていく。

 だから、閉ざすしかない。

 雨はまだ降っていない。
 けれど、莉緒の中ではずっと、針みたいな雨が降り続いていた。