幼馴染の婚約者は、別の女に寄り添う

 朝の空気は、乾いていた。
 雨は降っていない。風も強くない。
 それなのに、莉緒の胸の中だけが湿っている。息をするたびに、どこかがじわりと痛む。

 佐山家の玄関ホールで、黒川が新聞を受け取っていた。
 いつもなら父が先に目を通し、重要な記事だけを静かに話題にする。
 今朝は、黒川が受け取った瞬間に手元を少しだけ迷わせた。

 それが、嫌な予感だった。
 莉緒の肌が先に反応する。
 ――噂の針は、こういう形で刺してくる。

「お嬢さま」

 黒川が控えめに呼ぶ。
 声が低い。いつもより慎重な音。

「……どうしたの」

 莉緒は微笑んだ。
 仮面は、朝からもう着けている。

 黒川は新聞を差し出さず、いったん抱え込むように持ち替えた。
 その仕草が、答えだった。

「……社交欄に、少し……」

 少し。
 その言葉が一番怖い。
 “少し”の針ほど、深く刺さる。

 莉緒は手を伸ばした。
 指先が冷たくなる。
 冷たさを誤魔化すように、丁寧な動作で新聞を受け取る。

 紙の匂い。
 インクの匂い。
 その二つが、胃の奥をひりつかせた。

 目に飛び込んできたのは、大きな記事ではない。
 社会面でもない。
 たった一枠の“予告”だった。

 ――週刊誌の広告。

『財閥御曹司×美貌令嬢 密会写真入手』
『名門ホテルから寄り添い退館――婚約者はどうする?』

 文面は煽りだ。
 煽り文句は、どこまでも無責任だ。
 でも――写真は無責任じゃない。

 小さなサムネイル。
 荒い粒子。
 それでも、分かってしまう。

 雨。
 ホテルの車寄せ。
 傘。
 寄り添う二つの影。

 ――陸と、九条麗奈。

 莉緒の喉が鳴った。
 音にならない呼吸が胸を擦る。

(見間違いじゃなかった)
(私が勝手に疑ってるだけじゃなかった)

 思った瞬間、救われるどころか、もっと痛かった。
 “疑い”が事実に寄りかかると、心は簡単に折れる。

 莉緒は新聞を畳んだ。
 丁寧に。
 丁寧すぎるほど丁寧に。

 その丁寧さは、崩れないための儀式だった。

「……黒川、ありがとう」

「……お嬢さま」

 黒川の声が揺れた。
 揺れたのは心配だ。
 莉緒はそれを見ないふりをする。見たら、自分が壊れる。

「大丈夫。行きましょう」

 大丈夫じゃない。
 でも“婚約者”は大丈夫でいなければならない。

 車に乗り込むと、窓の外の景色が滑るように流れた。
 信号、看板、歩行者。
 街は何も変わらないのに、自分だけが透明になったみたいだ。

 スマートフォンが震えた。
 通知ではなく、着信。

 ――陸。

 莉緒の指が止まる。
 鳴り続ける振動が、心臓の鼓動と重なって気持ち悪い。

(出たら、何を言えばいい?)
(写真のことを?)
(それとも、何も知らないふり?)

 迷っている間に、着信が切れた。
 画面に残る不在着信の表示が、刺さった針みたいに残る。

 すぐに、別の通知が入った。
 西条グループ広報・神原からの短い連絡。

『本日、対応のため会長室へ。莉緒様にも後ほどご連絡差し上げます』

 ――対応。
 つまり、火消しが始まる。

 莉緒はスマートフォンを伏せた。
 伏せる動作が、心を伏せる動作と重なる。

 西条グループ本社ビルは、いつもより冷たく見えた。
 ガラスの壁は空の灰色を映し、入口の回転扉が吸い込むように人を飲み込む。

 受付を通され、会長室近くの応接へ。
 廊下の絨毯は柔らかいのに、歩く音が響く気がする。

 そこに城戸秘書が立っていた。
 いつも通り無表情で、いつもより目が忙しい。

「佐山様、こちらへ」

 案内されるまま、応接室へ入る。
 すでに神原が資料を広げている。
 机上には、週刊誌の紙面コピーが並んでいた。

 そして、陸が立っていた。

 ――彼の顔色が、少し悪い。
 目の下に薄い影。ネクタイの結び目が普段より僅かに乱れている。
 それだけで、胸が勝手に揺れる。

(揺れるな)
(期待するな)

 莉緒は足を止めず、礼儀正しく頭を下げた。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

 仮面の声。
 “婚約者の声”。

 陸が小さく息を吐いた。
 何か言いたいのに、言葉がうまく出ない顔。

「……莉緒」

 名前を呼ばれただけで、胸が痛む。
 痛むのに、表情は変えない。

 神原が淡々と切り出した。

「本日、週刊誌の予告が出ました。内容は、先日のホテル前の写真を含むものです」

 “先日”。
 莉緒の脳裏に雨音がよみがえる。

「写真は、事実です。ただし――」

 神原の言葉が続く前に、莉緒の心は勝手に結論を作ろうとする。
 事実。
 寄り添い。
 ホテル。
 麗奈。

 陸が短く言った。

「……違う」

 また。
 あの夜と同じ否定。
 違う、だけ。

 莉緒は呼吸を整えた。
 整えるほど、心が遠ざかる。

「……何が、違うんですか」

 声が丁寧すぎて、自分でも怖かった。
 感情を出したら壊れる。
 だから、事務的に聞く。

 陸の顎が僅かに固くなる。
 言えない。
 言ってはいけない。
 そういう硬さ。

 神原が割り込む。

「この件は、当社として“交際”としての事実は否定します。ただし、個人名を出した強い否定は逆効果になる可能性が――」

 否定。
 火消しの言葉。

 火消しの言葉は、いつも乾いている。
 乾いているから、心は消えない。
 むしろ燻る。

 莉緒は机上の紙面コピーを見た。
 写真の二人は、確かに寄り添っている。
 角度も距離も、恋人のそれに見える。

(これを見て、誰が信じるの)
(“違う”だけで)

 神原は続けた。

「発表の前倒しは、ここで憶測を断ち切るためでもあります。婚約者としての“並び”を、早めに世間へ示す」

 ――つまり、莉緒を前に出す。
 “盾”として。

 莉緒の胸の奥で、冷たいものが広がった。
 逃げ場が消えたのは、こういうことだった。

 陸が一歩、莉緒に近づきかける。

「……莉緒、俺は」

 言いかけて、止まる。
 城戸が咳払いをひとつ。
 ほんの小さな音。
 でもそれは、“ここで言うな”という合図に見えた。

 莉緒はそれを見て、また結論を固める。

(言えない事情がある)
(私には言えない事情が)
(九条さんには……)

 言葉が喉まで来て、飲み込む。
 飲み込むのに慣れてしまった。

 打ち合わせは続く。
 質疑の想定、導線、発表コメント。
 莉緒は頷き、メモを取り、役割をこなす。

 完璧な婚約者。
 完璧な仮面。

 応接室を出たとき、廊下の窓の向こうに空が見えた。
 曇り。
 今にも雨が落ちそうな色。

 陸が追ってきた。
 足音が少しだけ速い。

「莉緒」

 呼ばれて、莉緒は立ち止まった。
 立ち止まってしまう自分が、まだ陸を好きだと告げている。

 陸が低く言った。

「……信じてくれ」

 たったそれだけ。
 理由はない。説明もない。
 “信じて”というお願いだけ。

 莉緒は笑った。
 上手に。
 涙が出ないように。

「……信じたいです」

 本音だった。
 信じたい。信じたいのに。

 莉緒は続けた。

「でも、信じる材料がないまま、信じろと言われるのは……少し、難しいです」

 丁寧な言葉が、刃になる。
 陸の瞳が揺れる。
 揺れるのに、言葉は出ない。

 莉緒は小さく頭を下げた。

「お忙しいでしょうから、失礼しますね」

 逃げるようで、逃げない。
 拒絶のようで、拒絶じゃない。
 ――“丁寧な撤退”。

 それが一番刺さると、莉緒はもう知ってしまっている。

 エレベーターに乗り、扉が閉まる。
 鏡に映った自分の顔は、笑っていた。

(完璧だ)

 そう思った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
 完璧であるほど、自分の心が遠ざかる。

 ――寄り添い写真は、“事実の断片”だった。
 断片なのに、莉緒の心を決定づけるには十分だった。

 この日から、莉緒の“閉ざし”は一段階深くなる。
 開けるためではなく、崩れないために。