婚約発表の前倒しが決まってから、時間の流れが変わった。
昨日まで“まだ間に合う”と思えていたものが、突然、カウントダウンになる。
佐山家の朝はいつも静かだ。
けれど今朝の静けさは、整っているのではなく、張りつめていた。
食器の触れ合う音が、やけに大きい。
時計の針の音が、やけに正しい。
莉緒は朝食の席で、母の淹れた紅茶を飲んだ。
香りはいいのに、味がよく分からない。
喉が通っているかどうかさえ曖昧だった。
「……今日は、衣装の打ち合わせね」
母が、できるだけ平静な声で言う。
“婚約発表”のための。
莉緒は頷いた。
「はい。神原さんから、時間が送られてきています」
送られてきている、という言い方が他人行儀だと、自分でも思った。
でも、事実だ。
予定はすでに組まれていて、莉緒はその中に“配置”されている。
母は莉緒の指先を見た。
カップを持つ手が、ほんの少し震えている。
「莉緒……」
母が何か言いかけた。
けれど言葉を選んでいる間に、莉緒が先に笑った。
「大丈夫」
大丈夫という言葉が、最近、口癖になっている。
大丈夫と言うたびに、本当の自分が少しずつ遠ざかっていくのに。
出かける支度を整える。
髪を結い、淡い色のワンピースを選び、コートの襟を整える。
鏡の中の自分は、完璧な令嬢だった。
(これが“婚約者”の仮面)
仮面は軽い。
軽いから、長く着けられる。
長く着けられるほど、外せなくなる。
打ち合わせ会場は西条グループ関連のサロンだった。
白い壁、柔らかな照明、端正な花。
神原がすでに資料を並べて待っている。
「佐山さま、本日はありがとうございます。こちら、当日の想定質疑です」
想定質疑。
“何を聞かれ、どう答えるか”が先に決められている。
莉緒は笑顔で受け取った。
「ありがとうございます。確認いたしますね」
声は滑らか。頷きも正確。
神原の目が一瞬だけ莉緒の顔に留まる。
“問題ない”と判断される視線。
そこへ、ドアが開いた。
陸が入ってくる。
黒いスーツ。整った横顔。
仕事の顔。
莉緒は胸が跳ねる前に、呼吸を整えた。
(ここは仕事の場)
(ここで心が動いたら、負け)
莉緒は立ち上がって頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。陸さん」
呼び方は変えない。
“陸くん”は出さない。
出したら、期待が戻る。
陸の眉がわずかに動いた。
違和感に気づいている。
でも、何が違うのか掴めない顔。
「……こちらこそ」
陸の返事は短い。
短いけれど、視線だけが莉緒を追う。
神原が淡々と説明を始める。
当日の導線、撮影位置、発表コメント案。
莉緒は頷き、質問をし、必要な箇所にチェックを入れる。
“完璧な婚約者”の仕事。
そこに感情は不要だ。
不要だと自分に言い聞かせるほど、胸の奥で何かが鳴る。
打ち合わせが終わり、神原が席を外す。
控室に二人きりになる瞬間が生まれた。
静けさが落ちる。
花の香りが濃くなる。
陸の気配が近い。
「……莉緒」
陸が呼んだ。
その声には、昨夜の続きが混ざっている。
“違う”の続き。
“今は言えない”の続き。
莉緒は微笑んだまま、視線を上げる。
「はい。何でしょうか」
丁寧な敬語。
柔らかい笑顔。
でも、距離は一歩も縮めない。
陸が一歩近づきかけて、止まる。
伸ばしかけた手を、握り込むように下ろした。
「……最近、変だ」
変。
その単語が胸に刺さる。
変なのは当たり前だ。心が壊れかけているのだから。
莉緒は笑った。
笑うことで、刺さった針を隠す。
「そうですか。いつも通りだと思います」
陸の瞳が細くなる。
苛立ちではない。困っている。
困っているのに、言葉が足りない。
「……何かあっただろ」
莉緒は首を振った。
「何もありません」
完璧な嘘。
嘘が上手になってしまった自分が、怖い。
陸が息を吐く。
短く、荒い息。
いつも冷静な陸の呼吸が乱れるのを見るのは、珍しい。
「……俺に、言いたいことはないのか」
その問いは、昨日の食卓の続きだった。
莉緒の胸が跳ねる。
跳ねた心臓を、また踏みつける。
(言ったって、言えない)
(聞いたって、答えない)
莉緒は微笑みを崩さずに言った。
「ありません。陸さんがお忙しいのは分かっていますから」
理解しているふり。
それは“良い婚約者”の最も残酷な武器だ。
陸の表情が一瞬だけ固くなる。
その固さに、莉緒の胸が痛む。
痛むのに、止められない。
神原が戻ってくる気配がして、陸は言葉を飲み込んだ。
また。
また、飲み込んだ。
莉緒はそれを見て、胸の中で結論を強くする。
(私は、後回し)
(言えない事情がある)
(そして、その事情の中には私がいない)
帰り道、莉緒は車窓を眺めていた。
街の光が流れ、看板が滲む。
世界は普通に動いているのに、自分だけが透明になったみたいだ。
家に戻ると、母が待っていた。
「どうだった?」
莉緒は微笑む。
「順調だったよ。問題ない」
問題だらけなのに。
それでも“問題ない”と言える自分が、仮面の強さだ。
夜。
陸が佐山家に来る日だった。
会長の意向で、発表までの間は“二人の関係が良好に見えるよう”食事や同席を増やす。
――表のために、内側を削る。
陸が玄関に入ってくる。
コートを預け、ネクタイを緩め、食堂へ向かう。
その一連の動作が“慣れている”ことに、莉緒はまた勝手な想像をしてしまう。
(誰かの隣で、同じことをしていたの?)
やめて。
そう自分に言うのに、思考は止まらない。
「……お帰り」
言いかけて、莉緒は言い直した。
「お帰りなさい。陸さん」
“くん”は出ない。
その差が、陸の目を僅かに揺らす。
「……ただいま」
短い返事。
短いほど、空白が増える。
食卓に料理が並ぶ。
湯気はある。温かい匂いがする。
なのに、会話がないと、温かさは届かない。
「……発表、近いな」
陸が言う。
話題を作ろうとしている。
けれど、その話題自体が莉緒の喉を締める。
「はい。準備は進んでいます」
完璧な返事。
仕事の会話。
そこに“私たち”はない。
陸が箸を置く音が、少しだけ強くなる。
「……莉緒」
呼ばれた。
心臓が跳ねる。
でも、跳ねないふりをする。
「はい」
陸が言葉を探している。
探しているのに、出てこない。
出てこない理由がある。
その理由の中に、九条麗奈がいる――と、莉緒の心は勝手に結論づける。
「……俺は」
陸が口を開きかける。
莉緒の胸の奥が、危険なほど期待してしまう。
でも、陸は止めた。
飲み込んだ。
また。
莉緒は笑った。
上手に。
泣かないために。
「陸さん、無理をしなくて大丈夫です」
その言葉は優しさの形をしている。
でも実際は、距離を固定する杭だった。
陸の目が、僅かに細くなる。
苛立ちと、焦りと、痛みが混ざった目。
「……お前は、俺を拒んでいるのか」
拒んでいる。
その言葉が胸に刺さる。
莉緒は首を振った。
拒んでいない。
ただ、期待を殺しているだけ。
「違います」
それだけ言って、莉緒は微笑んだ。
微笑むことで、心を隠す。
微笑むことで、会話を終わらせる。
陸は何も言わなくなった。
言わなくなるほど、空白が増える。
空白が増えるほど、莉緒は仮面を厚くする。
食事が終わる。
陸が席を立つ。
「……送る」
「大丈夫です。黒川がいますから」
また丁寧に断る。
丁寧な断りは、拒絶より残酷だ。
陸の背中が遠ざかる。
追いかけたい気持ちが胸に浮かぶ。
浮かんだ瞬間、莉緒はその気持ちを殺す。
(期待しない)
(期待を殺す)
扉が閉まったあと、母が小さく息を吐いた。
「……莉緒」
莉緒は微笑んだ。
「大丈夫」
その夜、莉緒の仮面は完成した。
表では完璧な婚約者。
家では無音の人形。
そして陸は、会話の糸口を完全に失った。
何を言っても届かない感覚だけが、彼の中で焦りに変わっていく。
昨日まで“まだ間に合う”と思えていたものが、突然、カウントダウンになる。
佐山家の朝はいつも静かだ。
けれど今朝の静けさは、整っているのではなく、張りつめていた。
食器の触れ合う音が、やけに大きい。
時計の針の音が、やけに正しい。
莉緒は朝食の席で、母の淹れた紅茶を飲んだ。
香りはいいのに、味がよく分からない。
喉が通っているかどうかさえ曖昧だった。
「……今日は、衣装の打ち合わせね」
母が、できるだけ平静な声で言う。
“婚約発表”のための。
莉緒は頷いた。
「はい。神原さんから、時間が送られてきています」
送られてきている、という言い方が他人行儀だと、自分でも思った。
でも、事実だ。
予定はすでに組まれていて、莉緒はその中に“配置”されている。
母は莉緒の指先を見た。
カップを持つ手が、ほんの少し震えている。
「莉緒……」
母が何か言いかけた。
けれど言葉を選んでいる間に、莉緒が先に笑った。
「大丈夫」
大丈夫という言葉が、最近、口癖になっている。
大丈夫と言うたびに、本当の自分が少しずつ遠ざかっていくのに。
出かける支度を整える。
髪を結い、淡い色のワンピースを選び、コートの襟を整える。
鏡の中の自分は、完璧な令嬢だった。
(これが“婚約者”の仮面)
仮面は軽い。
軽いから、長く着けられる。
長く着けられるほど、外せなくなる。
打ち合わせ会場は西条グループ関連のサロンだった。
白い壁、柔らかな照明、端正な花。
神原がすでに資料を並べて待っている。
「佐山さま、本日はありがとうございます。こちら、当日の想定質疑です」
想定質疑。
“何を聞かれ、どう答えるか”が先に決められている。
莉緒は笑顔で受け取った。
「ありがとうございます。確認いたしますね」
声は滑らか。頷きも正確。
神原の目が一瞬だけ莉緒の顔に留まる。
“問題ない”と判断される視線。
そこへ、ドアが開いた。
陸が入ってくる。
黒いスーツ。整った横顔。
仕事の顔。
莉緒は胸が跳ねる前に、呼吸を整えた。
(ここは仕事の場)
(ここで心が動いたら、負け)
莉緒は立ち上がって頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。陸さん」
呼び方は変えない。
“陸くん”は出さない。
出したら、期待が戻る。
陸の眉がわずかに動いた。
違和感に気づいている。
でも、何が違うのか掴めない顔。
「……こちらこそ」
陸の返事は短い。
短いけれど、視線だけが莉緒を追う。
神原が淡々と説明を始める。
当日の導線、撮影位置、発表コメント案。
莉緒は頷き、質問をし、必要な箇所にチェックを入れる。
“完璧な婚約者”の仕事。
そこに感情は不要だ。
不要だと自分に言い聞かせるほど、胸の奥で何かが鳴る。
打ち合わせが終わり、神原が席を外す。
控室に二人きりになる瞬間が生まれた。
静けさが落ちる。
花の香りが濃くなる。
陸の気配が近い。
「……莉緒」
陸が呼んだ。
その声には、昨夜の続きが混ざっている。
“違う”の続き。
“今は言えない”の続き。
莉緒は微笑んだまま、視線を上げる。
「はい。何でしょうか」
丁寧な敬語。
柔らかい笑顔。
でも、距離は一歩も縮めない。
陸が一歩近づきかけて、止まる。
伸ばしかけた手を、握り込むように下ろした。
「……最近、変だ」
変。
その単語が胸に刺さる。
変なのは当たり前だ。心が壊れかけているのだから。
莉緒は笑った。
笑うことで、刺さった針を隠す。
「そうですか。いつも通りだと思います」
陸の瞳が細くなる。
苛立ちではない。困っている。
困っているのに、言葉が足りない。
「……何かあっただろ」
莉緒は首を振った。
「何もありません」
完璧な嘘。
嘘が上手になってしまった自分が、怖い。
陸が息を吐く。
短く、荒い息。
いつも冷静な陸の呼吸が乱れるのを見るのは、珍しい。
「……俺に、言いたいことはないのか」
その問いは、昨日の食卓の続きだった。
莉緒の胸が跳ねる。
跳ねた心臓を、また踏みつける。
(言ったって、言えない)
(聞いたって、答えない)
莉緒は微笑みを崩さずに言った。
「ありません。陸さんがお忙しいのは分かっていますから」
理解しているふり。
それは“良い婚約者”の最も残酷な武器だ。
陸の表情が一瞬だけ固くなる。
その固さに、莉緒の胸が痛む。
痛むのに、止められない。
神原が戻ってくる気配がして、陸は言葉を飲み込んだ。
また。
また、飲み込んだ。
莉緒はそれを見て、胸の中で結論を強くする。
(私は、後回し)
(言えない事情がある)
(そして、その事情の中には私がいない)
帰り道、莉緒は車窓を眺めていた。
街の光が流れ、看板が滲む。
世界は普通に動いているのに、自分だけが透明になったみたいだ。
家に戻ると、母が待っていた。
「どうだった?」
莉緒は微笑む。
「順調だったよ。問題ない」
問題だらけなのに。
それでも“問題ない”と言える自分が、仮面の強さだ。
夜。
陸が佐山家に来る日だった。
会長の意向で、発表までの間は“二人の関係が良好に見えるよう”食事や同席を増やす。
――表のために、内側を削る。
陸が玄関に入ってくる。
コートを預け、ネクタイを緩め、食堂へ向かう。
その一連の動作が“慣れている”ことに、莉緒はまた勝手な想像をしてしまう。
(誰かの隣で、同じことをしていたの?)
やめて。
そう自分に言うのに、思考は止まらない。
「……お帰り」
言いかけて、莉緒は言い直した。
「お帰りなさい。陸さん」
“くん”は出ない。
その差が、陸の目を僅かに揺らす。
「……ただいま」
短い返事。
短いほど、空白が増える。
食卓に料理が並ぶ。
湯気はある。温かい匂いがする。
なのに、会話がないと、温かさは届かない。
「……発表、近いな」
陸が言う。
話題を作ろうとしている。
けれど、その話題自体が莉緒の喉を締める。
「はい。準備は進んでいます」
完璧な返事。
仕事の会話。
そこに“私たち”はない。
陸が箸を置く音が、少しだけ強くなる。
「……莉緒」
呼ばれた。
心臓が跳ねる。
でも、跳ねないふりをする。
「はい」
陸が言葉を探している。
探しているのに、出てこない。
出てこない理由がある。
その理由の中に、九条麗奈がいる――と、莉緒の心は勝手に結論づける。
「……俺は」
陸が口を開きかける。
莉緒の胸の奥が、危険なほど期待してしまう。
でも、陸は止めた。
飲み込んだ。
また。
莉緒は笑った。
上手に。
泣かないために。
「陸さん、無理をしなくて大丈夫です」
その言葉は優しさの形をしている。
でも実際は、距離を固定する杭だった。
陸の目が、僅かに細くなる。
苛立ちと、焦りと、痛みが混ざった目。
「……お前は、俺を拒んでいるのか」
拒んでいる。
その言葉が胸に刺さる。
莉緒は首を振った。
拒んでいない。
ただ、期待を殺しているだけ。
「違います」
それだけ言って、莉緒は微笑んだ。
微笑むことで、心を隠す。
微笑むことで、会話を終わらせる。
陸は何も言わなくなった。
言わなくなるほど、空白が増える。
空白が増えるほど、莉緒は仮面を厚くする。
食事が終わる。
陸が席を立つ。
「……送る」
「大丈夫です。黒川がいますから」
また丁寧に断る。
丁寧な断りは、拒絶より残酷だ。
陸の背中が遠ざかる。
追いかけたい気持ちが胸に浮かぶ。
浮かんだ瞬間、莉緒はその気持ちを殺す。
(期待しない)
(期待を殺す)
扉が閉まったあと、母が小さく息を吐いた。
「……莉緒」
莉緒は微笑んだ。
「大丈夫」
その夜、莉緒の仮面は完成した。
表では完璧な婚約者。
家では無音の人形。
そして陸は、会話の糸口を完全に失った。
何を言っても届かない感覚だけが、彼の中で焦りに変わっていく。

