窓の外は、冬の名残りを引きずった灰色だった。
空が泣く前の、息を潜めたみたいな曇り。東京の高層ビル群がその色を受けて、輪郭だけ薄く、遠い。
莉緒は、佐山家の応接間で背筋を正していた。
紅茶は香りだけが先に立ち、口に含むと少し渋い。ソーサーに触れるカップの音が、やけに大きく響く。
父の横に座る母の指先が、膝の上で小さく重なった。
落ち着いた笑み。だが、その奥にある緊張を、莉緒は見落とせない。
向かい側には、西条陸。
――幼い頃から、知っている顔。
それなのに、今日の陸は“知っている”だけでは足りないほど、遠くに見えた。
西条グループ御曹司。名刺の肩書きを見なくても分かる。背広の線、立ち居振る舞い、沈黙の質。どれもが「彼はもう、私の幼馴染だけではない」と告げている。
けれど。
莉緒の胸の奥には、静かな火がずっと消えずに残っていた。
誰にも見せない、誰にも触れさせない火。
(陸くんは……私の、唯一の人)
政略婚約。
言葉だけで言えば、簡単だ。家と家の都合。利益。バランス。世間体。
けれど莉緒にとって、その言葉はずっと違う意味を持っていた。
――あの日、傘を差し出してくれた人。
――泣き虫だった自分を、誰にも見られない場所に連れて行ってくれた人。
――手の小ささを笑わず、握って温めてくれた人。
幼い莉緒は、陸の手の大きさに驚いていた。
その手が、当たり前みたいに自分を守る形になっていたことに。
その記憶が、今もまだ、指先に残っている。
「……莉緒」
陸が名を呼んだ。
低い声。静かで、揺れがない。けれど、なぜだろう。
呼ばれただけで、心臓が一拍遅れて跳ねる。
「はい」
返事の声が、少しだけ上ずった。
気づかれないように、莉緒は喉を整える仕草で誤魔化した。
父が咳払いをひとつして、場を進める。
「改めて――西条家と佐山家の婚約について、正式に話を詰めさせてもらいたい」
陸は頷いた。
丁寧で、隙のない頷き。
莉緒はそこに、幼い日の“陸くん”を探してしまう。
笑って、少し意地悪で、でも必ず自分の味方だった彼を。
政略でもいい。
そう言い聞かせるたびに、胸がきゅっと縮む。
(私は、仕方なく選ばれたんじゃない)
(陸くんが……私を選んでくれたんだ)
そう信じたい。
信じるために、莉緒は静かに努力をしてきた。
陸の隣に立つ日に相応しくなるため。
言葉の選び方。笑い方。姿勢。ドレスの色。社交の作法。
誰も褒めてくれない努力を、褒められなくても続けた。
だって、それが“恋”だったから。
父たちの会話は、難しい単語が増えていく。
時期、会見、式場候補。
佐山不動産と西条グループの協業。
そこにあるのは「二人の未来」というより、「二つの企業の未来」だった。
莉緒は笑顔を崩さずに、頷いていた。
その頷きが、うまくできているかだけが怖かった。
ふと、陸の視線がこちらに向いた。
真正面からではない。
ほんの一瞬、確認するように、触れるだけの視線。
なのに莉緒は、胸の奥の火がふっと大きくなるのを感じた。
(見てくれた)
(今、私を――見てくれた)
それだけで、報われた気がしてしまう自分が、少し怖い。
陸は何も言わない。
余計なことは一切言わない。
だからこそ、莉緒は言葉を勝手に探して、勝手に意味をつけてしまう。
彼の沈黙に、「優しさ」を読み取ってしまう。
会話が一段落したとき、陸が立ち上がった。
深く礼をしてから、莉緒の前に視線を落とす。
「……改めて。よろしくお願いします」
その言い方は、家同士への挨拶にも聞こえるし、莉緒個人への言葉にも聞こえた。
莉緒は胸の奥がふわりと浮いて、同時に、底のない穴へ落ちる気配がした。
幸せはいつも、怖さと隣り合わせだ。
「……はい。こちらこそ」
莉緒は微笑んだ。
口角を、習った通りに上げる。目を細めすぎない。声を柔らかく。
完璧な婚約者の笑顔。
――そして、その完璧さは、恋を守る鎧でもあった。
陸が先に部屋を出ていく。
背中が遠ざかるたびに、莉緒はなぜか、焦る。
(陸くん、待って)
声にしない。できない。
政略婚約の席で、幼馴染みたいに呼び止められない。
それでも、彼の背中が扉の向こうへ消える瞬間――
莉緒は自分の指先が、無意識に左手を探しているのに気づいた。
まだ、指輪はない。
なのに、そこに何かがはまっているような気がした。
希望。
あるいは、鎖。
父と母の声が背中から聞こえる。
「……よかったな、莉緒。西条家との縁は、佐山にとっても――」
莉緒は笑って頷いた。
その言葉の続きを、聞きたくないと思いながら。
(違うの)
(私にとっては、家のためじゃない)
莉緒は、心の中でだけ、そっと否定した。
(陸くんは、私の唯一の人なの)
窓の外で、最初の雨粒が落ちた。
ガラスに小さな点を作り、すぐに線になる。
その線が、これから伸びていく運命のように見えて、莉緒は息を止めた。
まだ、何も壊れていない。
まだ、何も終わっていない。
そう思い込むように、莉緒は微笑みを保ったまま、雨の音を聞いていた。
空が泣く前の、息を潜めたみたいな曇り。東京の高層ビル群がその色を受けて、輪郭だけ薄く、遠い。
莉緒は、佐山家の応接間で背筋を正していた。
紅茶は香りだけが先に立ち、口に含むと少し渋い。ソーサーに触れるカップの音が、やけに大きく響く。
父の横に座る母の指先が、膝の上で小さく重なった。
落ち着いた笑み。だが、その奥にある緊張を、莉緒は見落とせない。
向かい側には、西条陸。
――幼い頃から、知っている顔。
それなのに、今日の陸は“知っている”だけでは足りないほど、遠くに見えた。
西条グループ御曹司。名刺の肩書きを見なくても分かる。背広の線、立ち居振る舞い、沈黙の質。どれもが「彼はもう、私の幼馴染だけではない」と告げている。
けれど。
莉緒の胸の奥には、静かな火がずっと消えずに残っていた。
誰にも見せない、誰にも触れさせない火。
(陸くんは……私の、唯一の人)
政略婚約。
言葉だけで言えば、簡単だ。家と家の都合。利益。バランス。世間体。
けれど莉緒にとって、その言葉はずっと違う意味を持っていた。
――あの日、傘を差し出してくれた人。
――泣き虫だった自分を、誰にも見られない場所に連れて行ってくれた人。
――手の小ささを笑わず、握って温めてくれた人。
幼い莉緒は、陸の手の大きさに驚いていた。
その手が、当たり前みたいに自分を守る形になっていたことに。
その記憶が、今もまだ、指先に残っている。
「……莉緒」
陸が名を呼んだ。
低い声。静かで、揺れがない。けれど、なぜだろう。
呼ばれただけで、心臓が一拍遅れて跳ねる。
「はい」
返事の声が、少しだけ上ずった。
気づかれないように、莉緒は喉を整える仕草で誤魔化した。
父が咳払いをひとつして、場を進める。
「改めて――西条家と佐山家の婚約について、正式に話を詰めさせてもらいたい」
陸は頷いた。
丁寧で、隙のない頷き。
莉緒はそこに、幼い日の“陸くん”を探してしまう。
笑って、少し意地悪で、でも必ず自分の味方だった彼を。
政略でもいい。
そう言い聞かせるたびに、胸がきゅっと縮む。
(私は、仕方なく選ばれたんじゃない)
(陸くんが……私を選んでくれたんだ)
そう信じたい。
信じるために、莉緒は静かに努力をしてきた。
陸の隣に立つ日に相応しくなるため。
言葉の選び方。笑い方。姿勢。ドレスの色。社交の作法。
誰も褒めてくれない努力を、褒められなくても続けた。
だって、それが“恋”だったから。
父たちの会話は、難しい単語が増えていく。
時期、会見、式場候補。
佐山不動産と西条グループの協業。
そこにあるのは「二人の未来」というより、「二つの企業の未来」だった。
莉緒は笑顔を崩さずに、頷いていた。
その頷きが、うまくできているかだけが怖かった。
ふと、陸の視線がこちらに向いた。
真正面からではない。
ほんの一瞬、確認するように、触れるだけの視線。
なのに莉緒は、胸の奥の火がふっと大きくなるのを感じた。
(見てくれた)
(今、私を――見てくれた)
それだけで、報われた気がしてしまう自分が、少し怖い。
陸は何も言わない。
余計なことは一切言わない。
だからこそ、莉緒は言葉を勝手に探して、勝手に意味をつけてしまう。
彼の沈黙に、「優しさ」を読み取ってしまう。
会話が一段落したとき、陸が立ち上がった。
深く礼をしてから、莉緒の前に視線を落とす。
「……改めて。よろしくお願いします」
その言い方は、家同士への挨拶にも聞こえるし、莉緒個人への言葉にも聞こえた。
莉緒は胸の奥がふわりと浮いて、同時に、底のない穴へ落ちる気配がした。
幸せはいつも、怖さと隣り合わせだ。
「……はい。こちらこそ」
莉緒は微笑んだ。
口角を、習った通りに上げる。目を細めすぎない。声を柔らかく。
完璧な婚約者の笑顔。
――そして、その完璧さは、恋を守る鎧でもあった。
陸が先に部屋を出ていく。
背中が遠ざかるたびに、莉緒はなぜか、焦る。
(陸くん、待って)
声にしない。できない。
政略婚約の席で、幼馴染みたいに呼び止められない。
それでも、彼の背中が扉の向こうへ消える瞬間――
莉緒は自分の指先が、無意識に左手を探しているのに気づいた。
まだ、指輪はない。
なのに、そこに何かがはまっているような気がした。
希望。
あるいは、鎖。
父と母の声が背中から聞こえる。
「……よかったな、莉緒。西条家との縁は、佐山にとっても――」
莉緒は笑って頷いた。
その言葉の続きを、聞きたくないと思いながら。
(違うの)
(私にとっては、家のためじゃない)
莉緒は、心の中でだけ、そっと否定した。
(陸くんは、私の唯一の人なの)
窓の外で、最初の雨粒が落ちた。
ガラスに小さな点を作り、すぐに線になる。
その線が、これから伸びていく運命のように見えて、莉緒は息を止めた。
まだ、何も壊れていない。
まだ、何も終わっていない。
そう思い込むように、莉緒は微笑みを保ったまま、雨の音を聞いていた。

