だって、そばにいたいだけ。




 制服のスカートの裾が、車椅子の大きなタイヤに軽く触れて、ふわっと揺れた。
 薄い紺色の生地が、冷たい金属に当たるたび、かすかなサラッという音がする。


「今日も可愛い髪型ね、さくらちゃん」


 理学療法士の佐藤先生が、いつもの優しい笑顔で言った。先生は、子どもが四人いらっしゃるため今日も朝からたくさんのお子さんをみていたんだろうな、とさくらは思う。


「ありがとうございます」


 蜜星さくらは、ぺこりと頭を下げながら、肩を少しだけすくめた。
「可愛い」という言葉は、もう何百回も聞いている。
リハビリ室の大きな鏡に映る自分を見ても、学校の廊下で会う子たちに言われても、病院のエレベーターで一緒になったおじいちゃんにさえ言われても。





 車椅子に乗っている少女と、いつもセットでついてくる言葉みたいになっていた。
 でも今日は、少しだけ胸がくすぐったい。

――新しい誰かが、今日ここに来るかもしれない、と朝からなんとなく思っていたから。


「じゃあ、今日もがんばっていこうか」


 先生の声にうなずいて、さくらはベッドへ移る。先生と、もう一人の助手さんが、慣れた手つきでさくらの身体を支えてくれる。

 車椅子からベッドへ、ゆっくり、でも確実に。
さくらは天井を見上げた。
白い天井に、うっすらとシミがいくつか。蛍光灯のひとつが、時々チカチカと点滅する。

 ここに来るたびに、同じ景色。同じ匂い。
消毒液のツンとした匂いと、汗の匂いと、マットのゴムの匂いが混ざった、空気。

――もう、三年だ。





 中学の入学式の日から、ちょうど三年が経とうとしていた。
 三年前の春。あの日の朝の空は、青くてまぶしくて、胸がわくわくした。新しい制服は少し硬くて、襟が首に当たってちくちくした。
 鏡の前で何度もスカートを直して、母さんが「とっても似合ってるよ、さくら」と言ってくれた。
父さんは照れくさそうに「うん、かわいいな」と小さくうなずいた。

 中学生になる。
 それだけで、世界がぱっと広がった気がした。
学校へ向かう道は、桜が満開だった。






 ピンクの花びらが、風に舞って、さくらの髪に落ちてきた。


「わあ、きれい」


 そう思って、笑顔で歩いていた。
 横断歩道の手前で、信号が赤から青に変わるのを待った。青になった瞬間、軽やかに一歩を踏み出そうとした。

 ――そのとき。
 キィィィという、耳を刺すブレーキの音。

 誰かの「危ない!」という叫び声。

 タイヤがアスファルトを削る、きしむ音。


 すべてがスローモーションに見えた。その次の瞬間、身体がふわっと浮いた。
 世界がぐるぐる回って、色が全部ぼやけた。地面に叩きつけられた衝撃。

 痛みは一瞬で、でもそのあと、足が……何も感じなくなった。

 



 目を覚ましたのは、病院の白い天井だった。
 制服は血で真っ赤に染まったのか、病院着になっていた。上半身は普通なのに足に感覚がなかった。


「お母さん……」


そう呼んだ声は、自分でもびっくりするほど小さかった。


「お母さん、どこ……?」


 看護師さんが優しく手を握ってくれた。


「大丈夫よ。すぐお母さん来るからね」


 でも、何が「大丈夫」なのか、誰もちゃんと教えてくれなかった。

 ただ、何度も何度も「大丈夫」と繰り返すだけだった。





  ***


「さくらちゃん、今日はどう? 調子は?」


佐藤先生の声で、さくらは今に戻る。


「うーん、まあまあです」


そう答えながら、さくらは脚に力を入れてみる。
頭の中で「動け、動け」と念じる。
でも、太ももから下は、まるで石のように重い。
ぴくりともしない。

この感覚は、もう三年も続いている。
最初は悔しくて、悲しくて、毎晩泣いていた。
今は、もう慣れてしまった。


「じゃあ、今日もいつものメニューからね」


 先生がそう言って、さくらの右足を優しく持ち上げる。
 まずは股関節のストレッチ。先生が足をゆっくり曲げたり伸ばしたりする。
 さくらは力を抜いて、任せる。次は、膝を曲げる練習。

 先生が「ここに力を入れてみて」と言いながら、さくらの膝の下に手を添える。
 さくらは一生懸命、太ももの裏に力を入れる……でも、膝はほとんど動かない。

 それでも、先生は「いいよ、いいよ。少しずつね」と笑ってくれる。
次は、ベッドの上で足を上げる練習。
さくらは両手でシーツをぎゅっと握って、力を入れる。
右足のかかとが、ベッドから1センチくらい浮く。

これが、最近のさくらの「がんばった」ラインだ。

 さくらは照れくさくて、笑う。






「今日はもう少し、足首も動かしてみようか」


 先生が足首を回す。
 さくらは自分で動かそうとするけど、ほとんど動かない。
それでも、先生が「脳に『動かす』って指令を送り続けようね」と言う。

 毎日毎日、同じことを繰り返す。奇跡は起きないけど、少しずつ、身体が覚えていく気がする。

 さらに今日は、バランスボールを使った練習も追加された。
さくらは車椅子からボールに移り、先生に支えられながら、座ったまま上半身を少し前後に揺らす。
これで体幹を鍛えるんだって。
最初はふらふらして怖かったけど、今は少し慣れてきた。
 ボールがぷにぷにと柔らかくて、なんだか楽しい。


「ふう……」


 一通り終わって、さくらは息を吐いた。額に、うっすら汗が浮かんでいる。

 



「じゃあ、少し休憩しようか」


 先生がタイマーを止めて、水筒を渡してくれる。
さくらがゴクゴク飲んでいると――そのときだった。

 リハビリ室の重い扉が、ゆっくり開いた。コツ、コツ、コツ……松葉杖の乾いた音が響く。


「……失礼します」


 少し掠れた、緊張した声。さくらは自然にそちらを見た。
 そこにいたのは、同い年くらいの男の子だった。






 背が高くて、肩幅も広め。
 髪は黒くて、少し長めで、前髪が目にかかりそうになっている。
 右側に寝癖がぴょんと跳ねていて、朝、慌てて家を出てきたんだろうな、という感じ。

 濃いグレーのジャージを着ていて、右足に厚いサポーターが巻かれている。

 膝から下を、かなり庇うように歩いている。
松葉杖を両手にしっかり持って、右足をほとんど地面につけずに、左足でバランスを取っている姿は、なんだか痛々しかった。

 顔は少し青白くて、唇をきゅっと結んでいる。
 目が大きくて、ちょっと下がり目で、優しそうな印象。
緊張で、眉が少し寄っていて、額にうっすら汗が浮かんでいる。
周りの大人たちをちらちら見回して、どこに座ればいいか迷っているみたいだった。

 さくらと目が合った瞬間、男の子はびくっと肩を震わせて、慌てて視線を逸らした。
耳まで真っ赤になっているのが、遠くからでもわかった。


(あ、目逸らされた)


 さくらは、心の中でくすっと笑った。
自分も三年前、初めてここに来たとき、同じようにした。
 誰とも目を合わせたくなくて、でも誰かに「大丈夫?」って言ってほしくて。





「初めて?」


 さくらが、優しく声をかけた。男の子はびっくりしたように顔を上げた。


「……え、あ、はい」


 声が少し震えている。さくらはにこっと笑って、続けた。


「緊張するよね、ここ。最初はみんなそうなんだよ」


 男の子は一瞬、目を丸くした。それから、苦笑いみたいな、でも少しホッとしたような顔をした。


「……うん。なんか……変な感じ」

「変な感じ?」

「うん。みんな、がんばってるのに、自分だけ……足が言うこと聞かなくて」


 男の子はそう言って、右足をちらっと見た。サポーターの下から、白い包帯が少し見えている。
 おそらく、多分、骨折だ。
 スポーツでやったのかな、とさくらは思った。


「私も、最初はそうだったよ」


 さくらは静かに言った。


「三年くらい前だけど……足が動かなくなって、毎日泣いてた」



 男の子は、じっとさくらを見た。
 その目が、少し潤んでいるように見えた。


「……三年も?」

「うん。でもね、今はもう、泣かなくなった。笑ってる方が、楽だってわかったから」


 さくらはそう言って、またにこっと笑った。
 男の子は、しばらく黙っていた。それから、小さくうなずいた。


「……ありがとう」


その声は、とても小さかったけど、ちゃんと届いた。
佐藤先生が近づいてきて、男の子に声をかけた。


「君が……えっと、ほたるふくろくん? 今日は説明していくね。

「はい……螢袋、樹汰です」


 螢袋樹汰くん。
 ほたるふくろ……珍しい名字だな、とさくらは思った。樹汰くん、という響きが、なんだか優しい。
 樹汰くんは、松葉杖を突きながら、ゆっくりベッドの近くまで来る。

 先生が「ここに座って」と言うと、慎重に腰を下ろした。
右足をそっと伸ばして、痛そうに顔をしかめる。
その仕草を見ているだけで、さくらは胸がきゅっとした。