あの日、止まったままの時計

「……仕事に私情は持ち込まないでくれ。水瀬さん」

直人の声は、剃刀のように冷たく鋭かった。
つい先ほどまで揺れていたはずの瞳は、いまや感情を一切通さない、無機質なガラス玉のように凍りついている。

結衣は、衝撃に膝が震えるのを必死に堪えていた。
かつて自分を優しく抱きしめた腕。耳元で愛を囁いた声。
その記憶が――目の前の男と、どうしても結びつかない。

「私情」という言葉が、鋭い棘となって胸に突き刺さる。

「……承知いたしました。瀬戸マネージャー」

消え入りそうな声で、ようやくそれだけを絞り出す。
周囲の社員たちは異様な空気を感じ取り、遠巻きに様子を伺っていた。
直人は一度も結衣と目を合わせないまま、自席に腰を下ろし、キーボードを荒々しく叩き始める。

一時間が過ぎ、二時間が過ぎる。
隣から聞こえるタイピングの音、コーヒーをすする音、部下へ指示を飛ばす低い声――
そのすべてが、結衣の皮膚をじりじりと焼きつけていく。

耐えられるはずがない。
あの日、自分がどれほどの絶望の中で街を彷徨ったか。
彼が今どんな顔で、サオリという女と幸せに暮らしているのか。
それを想像するだけで、呼吸が浅くなる。

(ここにいたら、私は――壊れる)

昼休みのチャイムが鳴ると同時に、結衣は荷物をつかむようにして立ち上がった。
向かったのは直人のもとではない。
フロアの隅に設置された、派遣会社担当者への直通電話だった。

「……水瀬です。すみません、今すぐ、今回の契約を辞退させてください」

『えっ!? どうしたんですか結衣さん、あんな大手で。何かトラブルでも?』

「体調が……どうしても、ここでは働けません。どんなペナルティでも受けます。だから、お願いします……!」

堰を切ったように、目から涙がこぼれ落ちる。
電話を切ると、結衣は一度も席に戻らず、逃げ出すようにエレベーターへ駆け込んだ。

――ガランとしたオフィス。

直人は、結衣が去ったあとの空席をただ見つめていた。
手元の資料の文字は、一つとして頭に入ってこない。

「……あいつ、何しに来たんだよ」

拳を固く握りしめる。
三年前――何も告げず、自分を捨てて消えた女。
ようやく彼女のいない生活に慣れ、心を殺して生きる術を覚えたというのに。

今さら現れて、あんな悲しい顔で自分を見るなんて――反則だ。

「瀬戸さん、派遣の水瀬さんから『急病で辞退したい』と連絡があったそうですが……」

事務員の言葉に、直人の心臓が跳ね上がる。
まただ。
また、あいつは――何も言わずに俺の前から消えるのか。

「……勝手にしろ」

吐き捨てるように言った。
だが、その指先はわずかに震えている。

デスクの引き出しの奥。
そこに眠るプラチナの指輪が、いまにも悲鳴を上げている――
そんな気がした。