あの日、止まったままの時計

月曜日の朝。
結衣は、アドバンス・システムが入る高層ビルのエントランスを見上げていた。
空を突き刺すような全面ガラス張りの威容に、わずかな圧迫感を覚える。

「今日から……新しい場所」

自分に言い聞かせるように呟き、ゆっくりと自動ドアをくぐった。

ICカードをかざし、24階のフロアへ。
静まり返ったオフィスには、キーボードを叩く音だけが乾いたリズムで響いている。

「おはようございます。今日から配属になりました、水瀬です」

結衣が挨拶をすると、数人の社員が一瞬だけ顔を上げたが、すぐに手元へ視線を戻した。
歓迎の空気はない。
ただ――「戦力が来た」という品定めの視線だけが刺さる。

「水瀬さん、君の席はあっちだ。あとでマネージャーが来るから、それまでこの資料を読んでおいて」

先輩社員に促され、結衣は席についた。

ふと、隣のデスクのパーテーション越しにマグカップが見える。
何の変哲もない、シンプルなネイビーのカップ。

――だが、その取っ手の欠け跡と独特のフォルムに、結衣の指先がわずかに震えた。

(……まさか。似ているだけ)

視線を慌てて資料へ落とす。
世界には同じようなカップなど無数にある。
彼がここにいるはずがない――そう言い聞かせるのに、鼓動だけが加速していく。

同じ頃。
直人は役員会議を終え、足早に部署へ戻っていた。

「直人、新しい派遣の子、もう来てる。君の隣の席だ」

拓海の声に、直人は「ああ」と短く答える。
彼は部下の名前を覚えるのが遅いことで有名だった。
彼にとって派遣社員とは――“期限付きの機能”。
個として認識する必要などない。

直人がフロアのドアを押し開ける。
整然と並ぶデスクの列。
その端、自分の席の隣で、紙をめくる微かな衣擦れの音。

結衣は、背後から近づく気配に気づき、顔を上げた。

視界に飛び込んできたのは――
高価なスーツの裾、そして、忘れたくても忘れられない歩き方。

(……あ)

直人は自席に腰を下ろそうとして、隣の「新しい戦力」に視線を向ける。
無機質な挨拶を告げるはずだったその瞬間。

空気が――凍りついた。

三年間の空白。
憎しみと、後悔と、封じ込めたはずの愛。
それらすべてが、一瞬でフロアから酸素を奪い去る。

直人の手からタブレットが滑り落ち、カーペットの上で鈍い音を立てた。

「……ゆい?」

震える声。

結衣は弾かれたように立ち上がる。
椅子の脚が床をこする、不快な音が静寂を裂いた。

「……瀬戸さん」

彼女の唇からこぼれたのは、
かつての「なおくん」ではなく――冷たい、他人行儀な名字。

視線がぶつかり、火花のように衝突する。

それは再会の喜びではない。
「なぜ、あなたがここにいるの」
「どうして今さら現れたんだ」

絶望と怒りが混ざり合った――最悪の再会だった。