あの日、止まったままの時計

「次が、本命のプロジェクトね」

派遣会社の担当者は、どこか興奮を含んだ声で書類を差し出した。
そこに記された社名――『株式会社アドバンス・システム』。
業界屈指の大手企業。そこでの実績は、派遣社員としてのキャリアにおいて大きな武器になる。

「結衣さんなら大丈夫。あそこのマネージャーは少し厳しいって噂だけど、あなたの正確な仕事ぶりなら、きっと認められるわ」

「……はい。頑張ります」

結衣は、感情の色を失った声で答えた。
今の彼女にとって、会社の規模も職場環境も関係ない。
ただ――忙しく体を動かし、思考を止められる場所であれば、それでよかった。

その頃。アドバンス・システム本社、高層フロア。
直人は全面ガラス張りのオフィスで、すっかり冷めきったコーヒーを無表情のまま口に運んでいた。

「直人、次のプロジェクトの増員メンバーが決まったよ。派遣から一人。かなり優秀らしい」

同期であり、唯一彼の過去をわずかに知る拓海が、数枚の書類をデスクに置く。
直人はモニターから視線を外さぬまま、低い声で応じた。

「優秀ならそれでいい。……名前は?」

「ええと、たしか――」

その瞬間、直人のスマホが震えた。
海外にいる姉・沙織からのメッセージだった。

『直人、体調はどう? 結衣さんによろしくね。
あの日選んだ指輪、大切にしてくれてるかな』

直人の指が、ぴたりと止まる。
三年が過ぎても、彼は真実を告げられないままだ。
結衣が消えたことも、自分が孤独の底で立ち尽くしていることも。

「大切にしてるよ」

それだけを打ち込み、送信する。
またひとつ、嘘を重ねて。

「……名前なんてどうでもいい。仕事ができるかどうか――それだけだ」

直人は書類に目を通すことなく、無造作に資料の山の下へと押しやった。

その履歴書の裏側に、
かつて彼が愛してやまなかった結衣の顔写真が貼られていたことなど、知らないまま。

――出社前夜。

結衣は、新しい職場に着ていくブラウスへアイロンをかけていた。
熱を帯びた布地の感触に、ふと胸がざわめく。
あの日、直人のネクタイを整えていた記憶が、不意に蘇る。

(……やめて。もう、終わったこと)

結衣は首を振り、アイロンを置いた。
鏡に映る自分の目からは、かつての輝きが消えている。
髪はただ邪魔にならないようまとめられ、
「愛されていた女」の面影は、どこにも残っていなかった。

同じ頃。
直人は寝室の金庫を開き、奥に仕舞い込んだ小さなベルベットの箱を取り出す。

三年間、一度も開けられなかった箱。
その中には、あの日渡せなかったプラチナのリングが、変わらぬ輝きを宿していた。

「……明日から、また忙しくなる」

独り言のように呟き、彼は箱を強く握りしめる。
明日、このビルで誰に出会うのか――知らないまま。

二人の距離は、今、わずか数キロ。
そして明日、その距離は――「ゼロ」になる。