結衣が新しい街で暮らし始めてから、半年が過ぎた。
彼女は今、小さな事務代行会社で派遣社員として働いている。
かつての結衣なら、職場で誰かの誕生日を知れば「おめでとう」と小さなお菓子を差し出すような人だった。
だが、今の彼女は違う。
「お疲れ様です。失礼します」
定時ちょうどに鞄を取り、誰とも目を合わせずオフィスを出る。
飲み会の誘いはすべて断り、同僚との雑談も交わさない。
――「仕事は完璧。けれど、心がない」
それが、いまの結衣に対する職場の評価だった。
一方の直人は、さらに過酷な変化の渦中にあった。
姉・沙織の手術は成功し、現在は海外でリハビリを続けている。
彼女に余計な心配をかけたくない一心で、直人は「結衣とは順調だ」という嘘を――三年もの間、つき続けていた。
その嘘を「現実」だと信じ込むために、彼は自分を追い詰めていく。
「この数字、0.1パーセントのズレがある。やり直して。……今夜中に」
直人は大手IT企業の最年少マネージャーとして、部下から「氷の壁」と恐れられていた。
かつて結衣と笑い合っていた頃の、柔らかな目尻の皺は消え失せ、
その瞳は常に冷たく、合理だけを求めている。
ある冬の日――
出張先で、かつて結衣と行こうと約束していた公園のそばを通りかかる。
冬枯れのベンチ。ホットココアを分け合う若いカップル。
直人は一瞬だけ足を止めたが、すぐに視線を外し、歩みを速めた。
(あんなものは――ただの幻想だ)
同じ頃。
スーパーの帰り道、結衣はふと、すれ違いざまに“彼の使っていた香水と同じ香り”を感じ取った。
心臓が跳ね上がり、反射的に振り返る。だが、そこにいたのは見知らぬ通行人。
「……バカみたい」
結衣は、自分を嘲るように小さく笑った。
あんなに酷い裏切りを受け、あんなに惨めに捨てられたのに――
それでもまだ、彼の残像に心が揺れてしまう自分が、何より許せなかった。
二人は互いの存在を、「過去の汚れ」として封印した。
直人はデスクの鍵付き引き出しに、
――渡せなかったあの指輪――
を閉じ込めたまま。
結衣は、あの日着ていた淡い水色のワンピースを、
ハサミで切り刻んで捨てた。
愛を知っていたからこそ、
愛は憎しみに変わり、
やがて「無関心」という名の防衛本能へと変質していく。
感情を殺した二人の歯車は、それぞれの場所で静かに――しかし確実に摩耗し続けていた。
……だが、運命はまだ彼らを逃がさない。
その日、結衣のもとに派遣会社から一通のメールが届く。
『次回の配属先が決定しました。
業界最大手・株式会社アドバンス・システム。
配属部署は、プロジェクト開発部です』
そこは――
直人が部長代理として君臨する、
彼の“ホームグラウンド”だった。
彼女は今、小さな事務代行会社で派遣社員として働いている。
かつての結衣なら、職場で誰かの誕生日を知れば「おめでとう」と小さなお菓子を差し出すような人だった。
だが、今の彼女は違う。
「お疲れ様です。失礼します」
定時ちょうどに鞄を取り、誰とも目を合わせずオフィスを出る。
飲み会の誘いはすべて断り、同僚との雑談も交わさない。
――「仕事は完璧。けれど、心がない」
それが、いまの結衣に対する職場の評価だった。
一方の直人は、さらに過酷な変化の渦中にあった。
姉・沙織の手術は成功し、現在は海外でリハビリを続けている。
彼女に余計な心配をかけたくない一心で、直人は「結衣とは順調だ」という嘘を――三年もの間、つき続けていた。
その嘘を「現実」だと信じ込むために、彼は自分を追い詰めていく。
「この数字、0.1パーセントのズレがある。やり直して。……今夜中に」
直人は大手IT企業の最年少マネージャーとして、部下から「氷の壁」と恐れられていた。
かつて結衣と笑い合っていた頃の、柔らかな目尻の皺は消え失せ、
その瞳は常に冷たく、合理だけを求めている。
ある冬の日――
出張先で、かつて結衣と行こうと約束していた公園のそばを通りかかる。
冬枯れのベンチ。ホットココアを分け合う若いカップル。
直人は一瞬だけ足を止めたが、すぐに視線を外し、歩みを速めた。
(あんなものは――ただの幻想だ)
同じ頃。
スーパーの帰り道、結衣はふと、すれ違いざまに“彼の使っていた香水と同じ香り”を感じ取った。
心臓が跳ね上がり、反射的に振り返る。だが、そこにいたのは見知らぬ通行人。
「……バカみたい」
結衣は、自分を嘲るように小さく笑った。
あんなに酷い裏切りを受け、あんなに惨めに捨てられたのに――
それでもまだ、彼の残像に心が揺れてしまう自分が、何より許せなかった。
二人は互いの存在を、「過去の汚れ」として封印した。
直人はデスクの鍵付き引き出しに、
――渡せなかったあの指輪――
を閉じ込めたまま。
結衣は、あの日着ていた淡い水色のワンピースを、
ハサミで切り刻んで捨てた。
愛を知っていたからこそ、
愛は憎しみに変わり、
やがて「無関心」という名の防衛本能へと変質していく。
感情を殺した二人の歯車は、それぞれの場所で静かに――しかし確実に摩耗し続けていた。
……だが、運命はまだ彼らを逃がさない。
その日、結衣のもとに派遣会社から一通のメールが届く。
『次回の配属先が決定しました。
業界最大手・株式会社アドバンス・システム。
配属部署は、プロジェクト開発部です』
そこは――
直人が部長代理として君臨する、
彼の“ホームグラウンド”だった。

