あの日、止まったままの時計

午後十一時半。
約束の時刻を四時間以上過ぎた頃、直人は焦燥に満ちた表情でマンションの玄関を駆け抜けた。

「結衣! ごめん、遅くなった! ……結衣?」

返事はない。
真っ暗なリビングに、いつもの「おかえり」の声は響かなかった。

テーブルの上には、結衣が朝から用意していたのだろう、小さなケーキが手つかずのまま置かれている。

「結衣……? 寝てるのか?」

寝室を覗く。
しかしシーツは整えられたまま、誰も触れていない。

胸の奥の違和感が、徐々に恐怖へと変わっていく。
クローゼットを開くと、そこにあるはずの服が数着、そして彼女がいつも使っていたボストンバッグが消えていた。

「……なんで……?」

震える指でスマホを操作し、何度も電話をかける。
だが返ってくるのは無機質なアナウンスだけ。

――「おかけになった電話は、電波の届かない場所に――」

直人はその場に崩れ落ちた。
ポケットの中には、小さなベルベットの箱がある。
中に収められているのは、プラチナのリング。
あの日、姉の沙織と共に悩み抜き、結衣の指に合わせて誂えた特注品だった。

「今日、渡すはずだったのに……」

実は、姉・沙織は数日後、海外での大手術を控えていた。
生存率が決して高いとは言えない手術――
「弟の幸せな姿を見届けてから行きたい」という願いを叶えるため、直人はこの数週間、必死に奔走していた。

あの日、ジュエリーショップからホテルへ向かったのは、沙織の主治医との最終面談に同席するため。
その後のティータイムも、病弱な姉を励ますための、ほんの束の間の時間にすぎなかった。

「仕事が押した」と嘘をついたのは、結衣を余計に不安にさせたくなかったから――
手術が無事に終わってから、すべてを伝えるつもりだった。

しかし、その「優しさ」は、結衣にとって残酷な「裏切り」の証拠となってしまった。
その事実に、直人はまだ気づいていない。

窓から吹き込んだ夜風が、カーテンを大きく揺らす。
その拍子に、食卓の端に置かれていた一枚のメモが、ひらりと宙を舞った。

『なおくんへ。お幸せに。さようなら』

結衣が涙で文字を滲ませながら残した書き置きは、運命の悪戯のように、誰の目にも触れぬまま重いテレビボードの隙間へと滑り落ちていく。

直人の目に映るのはただ一つ――
「愛した女性が、理由も告げずに突然消えた」という、地獄のような現実だけだった。

「俺が……何をしたっていうんだよ、結衣……っ!」

誰もいない部屋に、慟哭だけが虚しく響く。
テーブルの上の指輪が、月明かりを受けて静かに、冷たく光っていた。

――その瞬間、ふたりの時間は完全に止まった。