あの日、止まったままの時計

5月15日。結衣にとって、本来なら世界でいちばん幸せになるはずの日だった。
朝、直人はいつも以上に抱きしめる腕に力をこめる。

「結衣、誕生日おめでとう。……生まれてきてくれて、俺と出会ってくれてありがとう」

「ふふ、なおくん、大げさだよ」

「大げさじゃないよ。今夜19時、いつもの駅の時計台の下で。――最高の夜にするから」

そう言い残し、彼は軽やかな足取りで家を出ていった。

結衣は数日前の不安を心の奥へ押し込み、一番のお気に入りの淡い水色のワンピースに袖を通す。
直人が「似合ってる」と言ってくれた一着。丁寧にメイクを整え、少し背伸びしたハイヒールを履き、約束の一時間前に家を出た。
バッグの中には、プレゼントの代わりに、彼への感謝を綴った手紙。

駅へ向かう道中、胸は期待でふくらんでいた。

(やっぱり、サオリさんは仕事の人だったんだ。なおくんの目、嘘じゃなかった……)

――ところが。

駅前の大通りに差しかかった瞬間、目の前の光景が世界の色を奪った。

人混みの中でひときわ目を引く、美男美女のふたり――
上質なスーツを纏った直人と、あの日見かけた女性、サオリ。

ふたりは高級ジュエリーブランドの路面店から出てくるところだった。
直人の手には、小ぶりでありながら重みを感じさせる濃紺のショップバッグ。

(あ……)

声が喉で凍りつく。

直人は隣の女性へ向き直り、愛おしげに彼女の頬へ手を添えた。
耳元で何かを囁き、優しく微笑む。
女性は幸福に満ちた表情で、彼の腕にそっと自分の腕を絡めた。

その距離は――
仕事仲間でも、友人でもない。
甘く、親密すぎた。

ふたりはそのまま、直人が「予約した」と言っていたはずの、駅直結の高級ホテルへと歩き出す。

結衣の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
指先から体温が一気に消えていく。

「……嘘」

自分だけのものだと信じていた、あの優しい眼差し。
その笑顔がいま別の女性に向けられている。

――脳裏によみがえるメモ。

『サオリ 5/15 14:00 待ち合わせ』

あれは“相談”なんかじゃなかった。
誕生日の当日、彼は自分と会う前に、
本命の女性と愛を確かめ合っていたのだ。

「愛してる」と告げて家を出た、その足で。

三年間積み重ねてきた日々が、音を立てて崩れ落ちる。
朝のコーヒー。お揃いのマグカップ。
ネクタイを結び直した手の感触――

すべてが、「二股を隠すための演技」だったのではないか。

結衣は震える手でスマホを取り出す。
直人から新着メッセージが表示された。

『少し仕事が押しちゃって。19時に間に合うよう急ぐから! 待っててね』

「……嘘つき」

ホテルの自動ドアの向こうへ消えていくふたりの背中を、ただ見送ることしかできなかった。
追いかけて問い詰める気力は、もうどこにも残っていない。

わかったのはひとつだけ――
25年間、大切に積み上げてきた「信じる」という感情が、いま完全に死んだということ。

時計台とは逆の方向へ、結衣はふらふらと歩き出す。
涙で視界が歪み、せっかくのメイクが静かに溶け落ちていく。

(もう……あなたの顔も、声も、聞きたくない)

そして結衣は、一度も家に戻ることなく、夜の街へと消えた。