あの日、止まったままの時計

その日を境に、直人の様子がほんの少しだけ変わった。
劇的な変化ではない。ただ、視線が数秒ほど泳ぐ。理由もなく部屋を離れる時間が、わずかに増える。
恋人だからこそ気づいてしまう小さな「違和感」の粒が、静かに積み重なっていった。

夕食後のリビング。
いつも通りソファでくつろぎ、結衣が直人の膝に頭を預けて雑誌をめくっていたとき、テーブルの上のスマホが短く震えた。

「……あ、ごめん。会社からかな」

直人は結衣から視線を外すように画面を覗き込む。
その瞬間、ポップアップされた通知が、結衣の瞳に映り込んだ。

『サオリ:さっきはありがとう。また明日も会えるかな?』

胸の奥が、針で刺されたように痛む。
サオリ――会社の人? けれど、その名を直人の口から聞いた覚えは一度もない。

「……なおくん、お仕事?」

「ん? ああ、まあそんな感じ。ちょっとややこしい案件でさ。誕生日の準備も重なって、バタバタしてるんだ」

直人はスマホを伏せてテーブルに置き、結衣の髪を優しく撫でた。
その手はいつもと同じ温かさを帯びている。――けれど結衣は気づいていた。
彼がスマホを“裏返して置いた”のは、これが初めてだということに。

数日後。
仕事帰りの結衣は、直人の好物を買おうと駅ビルのデパ地下へ向かっていた。
エスカレーターの向こうで、見覚えのある広い背中が目に入る。

(あ、なおくん――)

声をかけようとした足が、ぴたりと止まった。

直人の隣には、一人の女性がいた。
背筋の伸びた、知的で凛とした雰囲気の人。
直人は何かを熱心に語り、女性は時折楽しそうに笑って彼の腕へ軽く触れている。

二人が向かっている先――
それは仕事の打ち合わせに使う店ではなく、華やかな装飾に彩られたジュエリーフロアだった。

(……サプライズ、だよね)

必死に言い聞かせる。

きっと、プレゼント選びに女性目線の意見が必要だっただけ。
同僚か、共通の知人に頼んだのかもしれない。

「信じなきゃ……」

買い物袋をぎゅっと握りしめ、結衣はその場を離れた。
疑うことは、彼を傷つけることだと、自分に言い聞かせながら。

その夜、直人は少し疲れた顔で帰宅したが、結衣を見るなりいつもの笑顔を浮かべた。

「結衣、ただいま。今日はいいことがあったんだ。――当日、楽しみにしてて」

その言葉を、信じたい。
信じたいのに――

シャワーの音が響くなか、椅子に置かれたジャケットのポケットから、宝飾店のカタログがのぞいているのを見つけてしまう。
さらりと開いたページの隅に、直人の字で書き込まれていた。

『サオリ 5/15 14:00 待ち合わせ』

5月15日――それは、結衣の誕生日当日だった