あの日、止まったままの時計

それから、数ヶ月。

アドバンス・システムから“追放”されるように去った結衣の姿は、もうどこにもなかった。

今の彼女は――
新進気鋭のITベンチャー『ルミナス』で、代表・蓮の右腕として働いている。
背筋は凛と伸び、表情には自信と聡明さが宿っていた。

「水瀬さん、次の提携先の資料。完璧だったよ。ありがとう」

「いえ……蓮さんの指示が的確だったからです」

結衣の瞳には、少しずつ輝きが戻ってきている。
けれど、胸の奥底には――まだ溶けない氷の欠片が残っていた。

自分を「処分」した男への絶望。
そして――二度と誰も愛さない、という固い誓い。



一方その頃、アドバンス・システムの会議室では――
ついに「審判の時」が訪れていた。

直人は、梨乃とその父親、そして役員たちの前に一枚のディスクを叩きつける。

「これは――梨乃さんが外部業者を使って水瀬結衣のIDを乗っ取り、情報を流出させた全記録です。
アクセスログ、入金履歴……そして、このボイスレコーダー」

スピーカーから流れたのは、
「あの女を追い出した」と嘲り笑う、梨乃自身の声だった。

梨乃の顔から、血の気が音を立てて引いていく。
父親は激昂し、椅子を蹴り飛ばした。

「直人! これは一体どういうことだ!」

「そのままの意味です」

直人の声は、静かで――ひどく冷たい。

「……部長。これで、彼女の潔白は証明されましたね。
約束通り、責任を取って――私も辞めます」

それは最初から描いていた結末だった。

彼女を救うためには、一度“加害者側”に立ち、梨乃の懐へ潜り込むしかなかった。
その過程で――結衣を、誰より深く傷つけてしまったことも、わかっていた。

直人は誰の制止も受けつけず、そのまま会社を去った。

手元に残ったのは――
証拠のディスクと、泥にまみれたままのプラチナの指輪だけだった。



一週間後。

『ルミナス』に、大規模プロジェクトの業務委託の打診が舞い込む。
代表の蓮は、結衣を伴い、担当エンジニアとの打ち合わせへ向かった。

「彼、腕は確かだけど――今は事情があって職を転々としているらしい。
でもね、君の潔白を証明する証拠を……どこからか入手して、僕に送ってきたのは彼なんだ」

結衣の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。

(証拠を……送ってくれた? 誰が――)

指定されたカフェの奥。

ボロボロのデニム。
かつての高級スーツからは想像もつかないほど、やつれた男が座っていた。

「……結衣」

その声を聞いた瞬間、息が止まる。

直人だった。

「遅くなったけど――これが、お前の名誉を回復するための、すべての証拠だ。
……もう、お前を傷つける奴は、誰もいない」

差し出されたケースの中には、
彼が“キャリアも地位もすべて捨てて”手に入れた、真実の証だった。

しかし――

結衣はそれを受け取らず、隣の蓮の腕を、強く掴んだ。

「……今さら、何なんですか」

声は低く、凍えていた。

「私の人生を壊しておいて。
今度は――ヒーローのつもりですか?」

その一言が、直人の胸を深く貫く。

誤解は、解けた。
真実も、明らかになった。

それでも――

二人の“心”の距離は、あの日のジュエリーショップよりも――
遥かに遠い場所へ、離れてしまっていた。