あの日、止まったままの時計

「……私、もう何も残ってない」

翌朝。
結衣は小さなアパートの床に座り込み、膝を抱えたまま動けずにいた。

「情報漏洩」という最悪の烙印。
派遣元からも契約を切られ、再就職どころか――
社会そのものに拒絶されたような感覚が、冷たく身体を締めつける。

何より胸を抉ったのは、あの瞬間だった。

――『契約を解除し、厳正な処分を求めます』

誤解が解け、もう一度だけ彼を信じかけた――その矢先。
二度目の裏切りが、容赦なく心を叩き折った。

「……結局、彼は、自分の地位とキャリアが一番大事なんだ」

結衣の瞳からは、もう涙すら流れなかった。



同じ頃、アドバンス・システムでは――
直人と梨乃の「婚約」が既成事実のように広まりつつあった。

梨乃は直人のデスク横に居座り、
まるでこの場所の主であるかのように振る舞っている。

「直人さん、今夜はお祝いしましょう? パパも喜んでるわ」

「……ああ。場所は任せる」

直人は画面から視線を外さず、無機質な声で答えた。
その瞳は、どこか遠くを見ているように冷え切っている。

だが――
彼のPCの奥では、梨乃が社内サーバーへ不正アクセスした痕跡を洗い出す
復旧プログラムが、音もなく走り続けていた。

(もう少しだ、梨乃。
お前が結衣から奪ったもの――すべて、利子をつけて返してもらう)

直人は怒りを燃料に、復讐だけを生きる錨としていた。


一方その頃――
絶望の底にいた結衣の部屋を、意外な人物が訪ねてくる。

かつての派遣先で、ただ一人、
彼女の仕事を正当に評価してくれていた若き実業家――**蓮(れん)**だった。

「……結衣さん、ひどい顔だ。噂は聞いたよ。
君がそんなことをする人間じゃないって、僕は知ってる」

インターホン越しの声に、結衣は震える手でドアを開けた。
蓮は困ったように微笑み、温かいコーヒーの紙袋を差し出す。

「君を守れなかった、あの会社も――あのマネージャーも。
……僕は許さない」

「蓮さん……でも、私……」

「何も言わなくていい。
僕の新しい会社で、秘書として働かないか?
名誉を取り戻す方法は――一緒に考えればいい」

差し伸べられた手は、
闇の中でただ一筋だけ灯る、確かな救いに見えた。

直人に切り捨てられた世界で、
自分を「信じてくれる人」がいる。

迷いながらも――結衣はその手を握った。

「……お願いします。
私、ここじゃないどこかへ――行きたい」


数日後。

直人はついに――梨乃の不正の証拠を掴んだ。
手に握ったUSBを確かめると、すぐさま結衣のアパートへ向かう。

今度こそ――すべてを取り戻すために。

だがそこで直人が目にしたのは――

高級車へ乗り込む蓮と、
その隣で、どこか晴れた表情で微笑む結衣の姿だった。

「……結衣……?」

直人の手から、USBが零れ落ちそうになる。

守るために――突き放したはずだった。
それなのに。

彼女はもう、自分の「手の届かない場所」へと
歩き出していた。