あの日、止まったままの時計


夜の冷たい風に吹かれながら、結衣は全力で走った。
駅の改札を駆け抜け、ホームに滑り込んできた電車へ飛び乗る。
閉まりゆくドアの向こう――必死に追いかけてくる直人の姿が見えたが、電車は無情にも動き出した。

(フィアンセ……やっぱり、そうなんだ)

三年の歳月は、彼を「冷徹なエリート」に変えただけではなかった。
家柄にふさわしい、若く美しい婚約者――
それすらも彼に与えていたのだ。

「誰もあの部屋には入れていない」という言葉も、
今となっては、ただ自分を繋ぎ止めるための嘘にしか思えなかった。

――翌朝。

腫れた目を隠すように眼鏡をかけ、結衣は出社した。
辞めると口にする勇気すら、もう残っていない。
ただ――今日をやり過ごすことだけを考える。

しかし、オフィスの空気は昨日までとは一変していた。

席に座るなり、突き刺さるような視線。
ひそひそと交わされる、毒を含んだ声。

「……あの子でしょ? 瀬戸マネージャーを誘惑してる派遣」
「昨日、婚約者の梨乃さんが乗り込んできたって。
 二人きりで残業してたらしいじゃない」

梨乃が――動いたのだ。

彼女は取引先企業の令嬢であり、直人の父が経営する関連会社の株主の娘。
梨乃にとって、結衣のような「過去の女」を排除することなど――造作もない。

「水瀬さん、ちょっといい?」

昨日まで親切だった女性社員が声をかけてきた。
その瞳には、あからさまな軽蔑が宿っている。

「瀬戸マネージャーは私たちの誇りなの。
変なスキャンダルで彼のキャリアを汚さないでくれる?
派遣の身なら、身の程を知りなさい」

結衣は何も言い返せず、ただ俯いた。

――そのとき。

フロアの奥から、直人が姿を現した。
その表情は、怒りに満ちている。

「全員、仕事に戻れ!」

怒号に近い声が響き、オフィスは一瞬で静まり返った。
直人は結衣のデスクへと歩み寄り、彼女の腕を掴んで立たせる。

「……瀬戸さん、やめてください。また誤解されます」

「誤解じゃない」

直人は周囲を一切気にせず、結衣だけを真っ直ぐに見つめる。

「梨乃が何を言ったか知らないが――あんな話は、親が勝手に進めているだけだ。
俺は一度も承諾していない」

結衣の胸が痛む。
直人は続けた。

「俺が愛しているのは――三年前も、今も。
水瀬結衣だけだ」

静まり返ったフロアに、その言葉が落ちる。

結衣の目から、溜め込んでいた涙が溢れ落ちた。
けれど――

その背後。
オフィスの入口に立つ梨乃が、冷ややかな笑みを浮かべていた。

彼女のスマホの画面には、報告書のような文面。

「直人さん、そんなにその子が大事?
じゃあ――おじさまに報告してもいいのね」

冷たい声が響く。

「“直人が派遣社員に現を抜かし、業務を疎かにしている”って」

直人の体が、固まった。

父との確執。
守らねばならない立場。
そして――
いま失えば、結衣との未来を築くための“力”さえ失われる現実。

結衣は悟った。
掴む手の力が――ほんの少し、緩んだ。

愛だけでは越えられない、
大人たちの、残酷な事情。

「……瀬戸さん。もう、いいんです」

結衣は、自ら――その手を離した。