あの日、止まったままの時計


夜の二十時。
ひとり、またひとりと社員が帰り、フロアに残っているのは――結衣と直人、ただ二人だけだった。

空調の低い唸りと、時折響くキーボードの音。
かつて同じ部屋でテレビを見て、今日の出来事を語り合っていた二人にとって、
この沈黙は――呼吸すら苦しくするほど重い。

「……あの」

「瀬戸さん、サマリーの修正、終わりました」

声が重なり、結衣は慌てて視線を落とし、直人は気まずそうに咳をひとつ洩らした。

「……ああ、確認する。そこに置いておいてくれ」

差し出した資料を、直人の指が受け取る。
その一瞬、指先がかすかに触れた。

結衣は電流に触れたように手を引っ込める。
直人は悲しげに目を伏せ、独り言のように呟いた。

「……そんなに、俺に触れられるのが嫌か」

「そういうわけじゃ……。ただ、まだ気持ちの整理がつかなくて」

直人は資料を机に置き、静かに椅子を結衣の方へ向けた。

「誤解が解けたからって、すぐ昔に戻れるなんて思ってない。
お前を傷つけたのは、俺の言葉足らずのせいだ。……でもな、結衣。
あの日から、一度も――誰も、あの部屋には入れていない」

その言葉に、結衣の心臓が大きく跳ねた。

「……でも、昨日の通知。サオリさん……お姉さんと、仲良さそうで……」

「姉さんは今、リハビリで一時帰国してる。昨日もその付き添いだった。
お前に会えたって言ったら、泣いて喜んでたよ。……『私のせいでごめんなさい』って」

胸が締めつけられる。
自分が「不倫相手」だと思い込んでいた存在は――
むしろ自分を気遣ってくれていた“家族”だった。

申し訳なさが、押し寄せてくる。

――そのとき。

「直人さーん! まだ起きてる?」

静寂を切り裂く、場違いなほど明るい声。

入口に立っていたのは、華やかなワンピース姿の若い女性だった。
彼女は直人を見つけるなり、満面の笑みで駆け寄り――その腕に抱きつく。

「もう、連絡しても返事くれないんだもん。
おじさま――あ、社長から“直人を連れ戻して”って頼まれちゃって」

結衣の体が――凍りついた。

直人は慌てて腕を振り解こうとするが、彼女はなお離れない。

「……梨乃。仕事中だ。勝手に入ってくるなと言っただろ」

「いいじゃない、もう誰もいないんだし。
ねえ、この人が例の派遣さん? はじめまして。
私――直人さんのフィアンセの梨乃です!」

梨乃と名乗った女は、勝ち誇った笑みを結衣へ向けた。

――フィアンセ。

その言葉が、鼓膜の内側で爆音のように弾ける。

直人の顔から、血の気が引いた。

「違う! 結衣、これは――!」

「……失礼します」

結衣は、それ以上、何も聞きたくなかった。

ようやく真実に触れ、かすかに光が差し込んだと思った矢先――
また、新しい絶望が降ってくる。

「姉」の次は「フィアンセ」。

鞄を掴み、結衣は直人の制止を振り切って走り出した。
夜の街へ――逃げるように。

背後では、直人が梨乃を突き放し怒鳴る声が響いた。
だが今の結衣には、それが自分を守るための言葉なのか、
それともただの保身なのか――見極める余裕など、もうどこにもなかった。