あの日、止まったままの時計


「……お姉、さん……?」

結衣の手から、傘が頼りなく滑り落ちた。
激しい雨音が耳元で轟き、世界の輪郭が遠のいていく。
ただ、直人の手の熱だけが――これが現実だと告げていた。

「嘘よ……だって、あんなに親密そうに……指輪だって……」

「姉さんは手術のために渡米する直前だった。
最悪、もう二度と日本に戻れないかもしれないって言われてて……
だから、せめて最後に“俺の幸せな姿を見たい”って――
お前に渡す指輪を、一緒に選んでもらってたんだ」

直人の声は雨に溶け、今にも消え入りそうに震えていた。

「ホテルに行ったのは、主治医がそこにいたからだ。
病状の最終確認をするために……
結衣、お前に余計な心配をかけたくなくて、
全部終わってから、サプライズで話すつもりだった」

結衣の思考が真っ白に染まる。

自分が「地獄」だと思い込んでいたあの夜――
直人は、「命の瀬戸際にいる姉」と「自分への愛」の狭間で、必死にもがいていた。

そして自分は――
何も聞かず、一方的に絶望し、姿を消した。

「……じゃあ、あの日、あなたが時計台で待ってたのは……」

「朝まで待ったよ。指輪を握りしめて。
……でも、お前は来なかった。
家に戻っても、お前の服も、記憶も、全部――消えてた」

直人の指に、力がこもる。

「俺がどんな気持ちで、この三年を生きてきたと思ってるんだ!
お前を恨んで――それでも忘れられなくて……
やっと会えたと思ったら、また逃げるのか!」

結衣の頬を、あふれる涙が次々と伝い落ちる。
後悔が、津波のように胸を押し潰す。

それでも――
一度壊れた“信じる”という機能は、すぐには元に戻らなかった。

「……ごめんなさい。でも、もう遅いの……」

「何が遅いんだよ!」

「三年よ、直人くん。
私は、あなたの裏切りを信じ続けて、
あなたを憎むことでしか、自分を保てなかった。
今の私は、あの日あなたの隣にいた私じゃないの……
もう、あんなふうに人を愛せない」

結衣は、直人の手を振り払う。

その拍子に――
直人のジャケットのポケットから、小さなベルベットの箱が地面に落ちた。

パカ、と開いた蓋の内側から、
雨に濡れて鈍く光るプラチナのリングが顔を覗かせる。

三年前のあの日から、一度も誰の指にもはまらなかった――
止まったままの愛の形。

「……その指輪、見たくない」

震える声で言い捨て、結衣は階段を駆け上がった。
背後で直人が名前を呼ぶ声がしたが、
振り返ることなく部屋に飛び込み、ドアを閉め、鍵をかける。

暗い部屋の中。
結衣はドアに背を預け、その場に崩れ落ちた。

真実を知った――それなのに。
胸に残ったのは喜びではなく、
自分の浅はかさと、失われた歳月の重さを突きつける、残酷な現実だけ。

雨の中、直人は泥に汚れた指輪を拾い上げ、黙って見つめていた。
誤解は解けたはずなのに――
二人の距離は、かつて同じベッドで眠っていた頃よりも、
何万キロも遠く感じられる。

(ここからだ。……もう一度、お前の時計を動かしてみせる)

直人は冷たくなった指輪を握りしめ、夜の闇へと消えていった。