あの日、止まったままの時計

オフィスビルを飛び出した結衣は、激しさを増す雨の中を、あてもなく歩いていた。
視界は涙で歪み、ハイヒールの足元は今にも崩れそうに頼りない。

(どうして……どうしてあんなところにいるの?)

三年前――
別の女性と腕を組んで歩いていた、あの街角の記憶が蘇る。
その光景が、今の冷徹な直人の姿と重なり、頭から離れなかった。

「私情を持ち込むな」という言葉。
それはきっと、今もあの女性と幸せに暮らし、
自分の存在など“邪魔でしかない”という宣告。

結衣は駅のベンチに座り込み、冷たくなった指先を見つめた。
辞退すれば、もう二度と会うことはない――それでいい。
それが、正解のはずだった。

一方その頃、直人は降りしきる雨を、窓越しに睨みつけていた。
「勝手にしろ」と言い放ったくせに、仕事は頭に入らない。
部下の声も遠く、画面の文字はただの記号に見える。

「……あいつ、また逃げるのか」

三年前の記憶が甦る。
誕生日の夜、時計台の下で待ち続けたこと。
朝まで雨に打たれながら、必死に彼女を探し続けた、あの地獄の一夜。

直人は突然立ち上がり、ジャケットを掴んでフロアを飛び出した。
「瀬戸さん、どこへ!?」という拓海の声も振り切り、
エレベーターを待つ時間さえ惜しんで階段を駆け下りる。

手には、結衣の履歴書のコピーが握られていた。

やがて――
結衣がアパートの前に辿り着いたとき、黒い車が一台、静かに停まっていた。

その車から、傘も差さず、ずぶ濡れの直人が現れる。

「水瀬結衣!」

鋭い呼び声に、結衣の肩が震える。
振り返ると、そこにはかつて愛した人が――
あの頃と同じ、けれど深い悲しみを湛えた瞳で立っていた。

「……どうしてここが。もう、関係ないはずです」

「関係ないわけないだろ!
三年前――あの日、お前が何の説明もなく消えたせいで、俺がどんな――!」

「説明? 説明が必要なのは、あなたのほうよ!」

結衣の叫びが、激しい雨音に溶けて弾ける。

「私、見たの!
あなたがサオリさんと腕を組んで、幸せそうに指輪を選んで、
ホテルに入っていくのを――
私の誕生日に……!」

直人の動きが凍りついた。
髪を伝った雨粒が、静かに地面へ落ちていく。

数秒の沈黙。
そして――枯れた声。

「……見たのか。あの日、あそこにいたのか」

「ええ。だからもう、私を追いかけないで。
幸せな家庭を壊すつもりなんて――ないから」

結衣が鍵を取り出し、ドアに手をかけた、その瞬間。

直人が彼女の腕を掴み、強く引き寄せる。

「……バカか、お前は」

「なっ……!」

「家庭なんて――ない。
あの日からずっと、俺の時間は止まったままだ!」

直人の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
雨か涙か分からない雫が、二人の距離を埋めていく。

そして――

「サオリは、俺の姉だ」

その言葉が結衣の耳に届いた瞬間、
世界から――音が、消えた。