あの日、止まったままの時計

窓の外では、若葉を揺らす初夏の風がやわらかく吹いている。
午前六時。結衣の朝は、隣から聞こえる規則正しい寝息と、少し低い体温が肌に触れる温もりから始まった。

「……なおくん、起きて。もう朝だよ」

そっと肩をつつくと、直人はゆっくりと目を開け、寝ぼけたまま結衣を腕の中へ引き寄せる。

「あと五分……。結衣が温かすぎて、離れられない」

「もう、毎日それ言ってるよ」

口では呆れながらも、結衣は素直にその胸へ顔を埋めた。柔軟剤の匂いに、直人そのものの落ち着く香りが重なる。
三年の交際、そして一年の同棲。
それだけの時間が経った今も、二人の間には、恋が始まったばかりのような甘く濃密な空気が流れていた。

キッチンではトーストの焼ける香りが広がり、コーヒーメーカーが小さく音を立てている。

「はい、今日のコーヒー。砂糖は一つでよかったよね?」

「正解。さすが俺の奥さん」

「まだ奥さんじゃないでしょ」

照れた声で返す結衣の手を、直人はカップを受け取りながらそっと握る。

「来月の結衣の誕生日、覚えてる?」

「忘れるわけないじゃない。二十五歳だもん」

「当日は仕事、早く切り上げるよ。最高のレストランも予約したし、サプライズも用意してる。……期待してていい」

茶目っ気たっぷりにウインクする直人。その瞳に宿っていたのは、結衣への揺るぎない愛情だけだった。

「サプライズって何? ヒントくらいは?」

「だーめ。教えたらサプライズにならないだろ?」

二人は笑い合い、お揃いのマグカップを軽く合わせる。
結衣は信じていた。
この幸せな朝も、この穏やかな愛も、形を変えながら永遠に続くのだと。

「――あ、ネクタイ曲がってる」

玄関先で結衣は、直人のネクタイを丁寧に整える。至近距離で交わる視線。直人は結衣の額にそっと口づけた。

「行ってくるね、結衣」

「行ってらっしゃい、直人くん。早く帰ってきてね」

手を振る背中を見送りながら、結衣は胸の奥に温かな火が灯るのを感じる。

――このときの彼女は、まだ知らなかった。
彼を送り出すこの何気ない日常が、まもなく、二度と手の届かない幻へと変わってしまうことを。