雨が降り出す直前の、重たい空気が街を包んでいた。
どこか遠くで雷の気配がする。
オフィスビルの入口で足を止めた瞬間、ひやりとした風が頬を撫でた。
「傘、持っていませんね」
静かな声に振り返ると、城崎が立っていた。
黒い折りたたみ傘を手に、柔らかな笑みを浮かべている。
「たまたま通りかかっただけです。送りますよ」
「いえ、大丈夫。タクシーを呼びますから」
「タクシーが来るまでに、濡れます」
淡々とした言い方なのに、どこか冗談めいている。
「安心してください。職務上の同行です。
……それに、あなたを雨の中に置いて帰れるほど、私は無神経じゃない」
差し出された傘。
迷いながら、それでも受け取ってしまう。
二人は、同じ傘の下に並んだ。
雨粒が弾ける音が、近くなった。
「本当に、無理をしていませんか」
歩き出してすぐ、城崎が静かに尋ねた。
「周囲に強く見せるのは、仕事では武器になります。
でも——心に“逃げ場”がなくなることもある」
莉子は視線を前に向けたまま、小さく息をつく。
「逃げ場なんて、最初から持っていません。
私は、立ち止まらないために、前を見るしかないから」
「それでも、夜は来ます」
言葉の意味が、雨音に溶けて胸の奥へ落ちていく。
「ひとりで抱え続ければ、いつか壊れます。
……支えを使うのは、弱さじゃない」
「私には、“頼る”という選択肢がありませんでした」
「じゃあ、今つくりましょう」
城崎はそう言って、足を止めた。
街灯の光が、二人の影を近づけたり離したりしながら揺らしている。
「仕事の相談でも、愚痴でも、沈黙でもいい。
あなたが『ここなら、少し息ができる』と思える場所になりたい」
告白ではない。
約束でもない。
ただ、静かな申し出。
それでも——胸の奥で、何かが小さく波紋を描いた。
「……考えておきます」
ようやくそれだけを口にする。
城崎は深追いしない。
ただ小さく微笑み、傘をわずかに傾けて雨から庇う。
そのとき、少し離れた通りで車が減速した。
ふと視界に映った横顔に、心臓が一瞬止まる。
——蓮。
こちらに気づいた気配はあった。
しかし、車は速度を緩めることなく、雨の向こうへ消えていく。
追いかけない。
名前も呼ばない。
(戻らないと、決めたから)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
それでも、歩みは止めなかった。
雨脚が強くなる。
城崎が小さく言った。
「足元、気をつけて」
その声は、痛みに触れない優しさだった。
莉子は短く頷き、ひとつ深く息を吸う。
——ほんの一歩だけ。
それでも確かに、前へ進んでいた。
――二人の間に生まれた小さな余白が、
やがて物語の行方を、静かに変えていくのかもしれない。
どこか遠くで雷の気配がする。
オフィスビルの入口で足を止めた瞬間、ひやりとした風が頬を撫でた。
「傘、持っていませんね」
静かな声に振り返ると、城崎が立っていた。
黒い折りたたみ傘を手に、柔らかな笑みを浮かべている。
「たまたま通りかかっただけです。送りますよ」
「いえ、大丈夫。タクシーを呼びますから」
「タクシーが来るまでに、濡れます」
淡々とした言い方なのに、どこか冗談めいている。
「安心してください。職務上の同行です。
……それに、あなたを雨の中に置いて帰れるほど、私は無神経じゃない」
差し出された傘。
迷いながら、それでも受け取ってしまう。
二人は、同じ傘の下に並んだ。
雨粒が弾ける音が、近くなった。
「本当に、無理をしていませんか」
歩き出してすぐ、城崎が静かに尋ねた。
「周囲に強く見せるのは、仕事では武器になります。
でも——心に“逃げ場”がなくなることもある」
莉子は視線を前に向けたまま、小さく息をつく。
「逃げ場なんて、最初から持っていません。
私は、立ち止まらないために、前を見るしかないから」
「それでも、夜は来ます」
言葉の意味が、雨音に溶けて胸の奥へ落ちていく。
「ひとりで抱え続ければ、いつか壊れます。
……支えを使うのは、弱さじゃない」
「私には、“頼る”という選択肢がありませんでした」
「じゃあ、今つくりましょう」
城崎はそう言って、足を止めた。
街灯の光が、二人の影を近づけたり離したりしながら揺らしている。
「仕事の相談でも、愚痴でも、沈黙でもいい。
あなたが『ここなら、少し息ができる』と思える場所になりたい」
告白ではない。
約束でもない。
ただ、静かな申し出。
それでも——胸の奥で、何かが小さく波紋を描いた。
「……考えておきます」
ようやくそれだけを口にする。
城崎は深追いしない。
ただ小さく微笑み、傘をわずかに傾けて雨から庇う。
そのとき、少し離れた通りで車が減速した。
ふと視界に映った横顔に、心臓が一瞬止まる。
——蓮。
こちらに気づいた気配はあった。
しかし、車は速度を緩めることなく、雨の向こうへ消えていく。
追いかけない。
名前も呼ばない。
(戻らないと、決めたから)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
それでも、歩みは止めなかった。
雨脚が強くなる。
城崎が小さく言った。
「足元、気をつけて」
その声は、痛みに触れない優しさだった。
莉子は短く頷き、ひとつ深く息を吸う。
——ほんの一歩だけ。
それでも確かに、前へ進んでいた。
――二人の間に生まれた小さな余白が、
やがて物語の行方を、静かに変えていくのかもしれない。

