会議フロアの廊下に、控えめな足音が響いた。
磨かれた床に、白い照明が冷たく反射している。
蓮は、書類を片手に歩みを止めた。
ガラス越しに、打ち合わせスペースが見える。
そこに——莉子がいた。
向かい合う男の姿。
穏やかな笑み。
資料の上に並ぶ二つの影。
(誰だ……)
胸の奥で、言葉にならない感情が静かに波立つ。
城崎悠斗。
同行していた秘書が、小声で名を告げた。
「外部コンサルティングの責任者です。
今回の提携案件で、篠宮本部長と——」
「……そうか」
短い返事。
表情は崩さない。
しかし、視線だけが離れなかった。
莉子は真剣な表情で説明をしている。
それは仕事の顔。
何度も、隣で見てきた横顔。
だが今、隣にいるのは自分ではない。
打ち合わせが終わり、二人が廊下へ出てきた。
ガラス扉の向こうで、わずかに視線が交差する。
呼び止めることは——できなかった。
(彼女の前で、俺は何を名乗れる?)
婚約者でもない。
ただの他人でもない。
それ以上でも、それ以下でも、ない。
城崎が柔らかく問いかける声が、耳に触れた。
「……先ほどの方は、重要なお相手ですか」
莉子は一瞬だけ目を伏せ、静かに答えた。
「いいえ。もう、私とは関係のない人です」
その言葉が、胸の奥で鋭く響く。
彼女の言葉は正しい。
そして、痛いほどの現実だった。
秘書が、視線の先を見て小さく息を呑む。
「城崎氏、業界では高い評価を得ている人物だそうです。
誠実で、信頼される方だとか」
「……そうか」
蓮は短く答え、歩みを再開した。
背中に、かすかな重みが降り積もる。
(彼女が誰かの隣に立つ未来を、
俺は——見届けることしかできないのか)
胸の奥に湧き上がる痛みを、強く押し込める。
(違う。
これは、俺が選んだ沈黙の代償だ)
会議室へ戻る途中、秘書がためらいがちに口を開いた。
「専務……お声をお掛けにならなくて、よろしかったのですか」
蓮はわずかに首を横に振る。
「今の俺は、彼女を傷つける存在でしかない。
——それなら、距離を保つ」
それが、彼にできる唯一の誠実だった。
会議は淡々と進み、決裁印が紙の上に静かに落ちる。
だが、視線の奥に滲む痛みだけは消えなかった。
会議後。
ひとり残った会議室で、蓮は窓の外の空を見上げる。
夕暮れが街を染めていく。
どこかで灯りが灯り、誰かの1日が静かに終わっていく。
(——俺の心は、まだ彼女にある)
それは揺らぎではなく、確信だった。
だから、戻れないと決めている彼女の願いすら、
尊重しなければならない。
「……莉子」
名を呼ぶ声は、誰にも届かない空へ溶けていった。
――名を呼べない距離のまま、
それでも、心だけは彼女を離れなかった。
磨かれた床に、白い照明が冷たく反射している。
蓮は、書類を片手に歩みを止めた。
ガラス越しに、打ち合わせスペースが見える。
そこに——莉子がいた。
向かい合う男の姿。
穏やかな笑み。
資料の上に並ぶ二つの影。
(誰だ……)
胸の奥で、言葉にならない感情が静かに波立つ。
城崎悠斗。
同行していた秘書が、小声で名を告げた。
「外部コンサルティングの責任者です。
今回の提携案件で、篠宮本部長と——」
「……そうか」
短い返事。
表情は崩さない。
しかし、視線だけが離れなかった。
莉子は真剣な表情で説明をしている。
それは仕事の顔。
何度も、隣で見てきた横顔。
だが今、隣にいるのは自分ではない。
打ち合わせが終わり、二人が廊下へ出てきた。
ガラス扉の向こうで、わずかに視線が交差する。
呼び止めることは——できなかった。
(彼女の前で、俺は何を名乗れる?)
婚約者でもない。
ただの他人でもない。
それ以上でも、それ以下でも、ない。
城崎が柔らかく問いかける声が、耳に触れた。
「……先ほどの方は、重要なお相手ですか」
莉子は一瞬だけ目を伏せ、静かに答えた。
「いいえ。もう、私とは関係のない人です」
その言葉が、胸の奥で鋭く響く。
彼女の言葉は正しい。
そして、痛いほどの現実だった。
秘書が、視線の先を見て小さく息を呑む。
「城崎氏、業界では高い評価を得ている人物だそうです。
誠実で、信頼される方だとか」
「……そうか」
蓮は短く答え、歩みを再開した。
背中に、かすかな重みが降り積もる。
(彼女が誰かの隣に立つ未来を、
俺は——見届けることしかできないのか)
胸の奥に湧き上がる痛みを、強く押し込める。
(違う。
これは、俺が選んだ沈黙の代償だ)
会議室へ戻る途中、秘書がためらいがちに口を開いた。
「専務……お声をお掛けにならなくて、よろしかったのですか」
蓮はわずかに首を横に振る。
「今の俺は、彼女を傷つける存在でしかない。
——それなら、距離を保つ」
それが、彼にできる唯一の誠実だった。
会議は淡々と進み、決裁印が紙の上に静かに落ちる。
だが、視線の奥に滲む痛みだけは消えなかった。
会議後。
ひとり残った会議室で、蓮は窓の外の空を見上げる。
夕暮れが街を染めていく。
どこかで灯りが灯り、誰かの1日が静かに終わっていく。
(——俺の心は、まだ彼女にある)
それは揺らぎではなく、確信だった。
だから、戻れないと決めている彼女の願いすら、
尊重しなければならない。
「……莉子」
名を呼ぶ声は、誰にも届かない空へ溶けていった。
――名を呼べない距離のまま、
それでも、心だけは彼女を離れなかった。

