午後の陽射しが、ガラス張りのラウンジをやわらかく染めていた。
窓の外では、街路樹が風に揺れている。世界は穏やかに進んでいるのに——胸の奥だけが、静かにざわめいていた。
カップの縁に口をつけても、味はしなかった。
(終わったはずなのに……)
婚約解消のニュースは、もう社内の隅々まで行き渡っている。
それでも、誰も口には出さない。
彼女の名を出すことは、触れてはいけない傷口に指を伸ばす行為に等しいから。
「——綾香さん」
声に顔を上げると、同僚の女性が心配そうに覗き込んでいた。
「最近、顔色よくないよ。ちゃんと食べてる?」
「大丈夫、ありがとう。少し、寝不足なだけ」
笑ってみせる。
上手く笑えたのかどうか、自分でもよく分からない。
同僚はそれ以上踏み込まず、軽く会釈して席を離れた。
残された沈黙の中で、綾香はそっと胸元を押さえる。
(あの夜から……何も、前に進めていない)
彼の横顔。
沈黙の奥に宿った痛み。
そして——“彼が決して言わなかった言葉”。
その日の退社後。
夕暮れに染まる歩道を一人歩いていると、背後から足音が近づいてきた。
「綾香さん。少し、時間をもらえますか」
振り返ると、黒瀬だった。
九条グループの法務担当。冷静で、常に距離を保つ男。
「……ええ」
二人は近くのカフェに入り、窓際の席に向かい合って座った。
黒瀬は無駄な前置きを挟まず、淡々と切り出す。
「例の件、処理は最終段階です。あなたが証言を出す必要はなくなりました。——危険は、もうありません」
胸の奥がほっと緩む。
しかし、その安堵はすぐに別の痛みに変わる。
「……そうですか。よかった」
「ただし」
黒瀬の視線が、真っ直ぐに彼女を射抜いた。
「九条専務は、今回の一件について公に説明するつもりはありません。
“沈黙のまま”終わらせるお考えです」
「……莉子さんにも、ですか」
「はい」
その瞬間、呼吸が少しだけ詰まった。
やはり——彼は最後まで、自分を犠牲にするつもりなのだ。
「あなたは、彼にとって“守るべき当事者”でした。
しかし今後は——関係性を整理する必要があります」
黒瀬の言葉は、優しさを装った現実。
綾香は小さくうなずいた。
「……分かっています。私は……ここで終わらせます」
それは、どこか遠い場所から響く自分の声のようだった。
カフェを出て、人気の少ない小さな並木道を歩く。
夕陽が落ち、街の灯りがひとつ、またひとつと灯り始めた。
そのとき——
「綾香」
背後から呼ばれた名に、心臓が跳ねた。
振り返ると、そこには蓮がいた。
スーツの襟に微かな疲労を滲ませながらも、その瞳はまっすぐに彼女を見つめている。
「どうして、ここに……」
「黒瀬から聞いた。話が済んだなら、送る」
いつものように抑制された声。
でも、ほんの僅かに滲む迷いを、彼女は見逃さなかった。
二人並んで歩き出す。
舗道に落ちた街灯の光が、長い影を二つ伸ばしていく。
言葉を探し、何度も飲み込み、ようやく口を開いた。
「九条さん……一つだけ、聞いてもいいですか」
「……ああ」
足を止めず、彼は短く応じる。
「もし、あなたが誰のことも守らなくてよくて、
何も失わなくてよかった世界だったら——」
胸の奥に溜めていた言葉が、どうしても抑えきれなくなる。
「その世界で、あなたは……私を、選びましたか」
沈黙。
夜風が二人の間を通り抜けていく。
蓮はしばらく俯き、それからゆっくりと首を横に振った。
「……それは、答えてはいけない質問だ」
その言葉は、優しくて、残酷だった。
喉がきゅっと締め付けられる。
涙は落とさない——ここでは、絶対に。
「……そうですよね。分かっていました」
微笑む。
最後の強がりを、丁寧に形にして。
「でも——それでも、好きでした。
あなたは、私の人生を救ってくれた人だから」
蓮は何も言わない。
ただ、静かに視線を落とし、彼女の言葉を受け止めていた。
車の前で足を止め、綾香は深く一礼する。
「これで終わりにします。
あなたの側には、私ではない方が似合うから」
莉子の横に立つ、彼の姿を思い浮かべる。
その未来が、胸を裂くほどに美しかった。
「……ありがとう」
ようやく絞り出された彼の声は、震えていた。
それが、別れの合図になった。
ドアが閉まり、車が静かに走り出す。
街の灯りが滲み、視界が揺れる。
(さよなら、恋)
心の奥でだけ、そっと呟く。
その痛みは、まだ熱を帯びている——
けれど、その痛みごと抱えながら、綾香は前へ歩き出した。
――終わりを選ぶ恋もまた、確かに“愛”だった。
窓の外では、街路樹が風に揺れている。世界は穏やかに進んでいるのに——胸の奥だけが、静かにざわめいていた。
カップの縁に口をつけても、味はしなかった。
(終わったはずなのに……)
婚約解消のニュースは、もう社内の隅々まで行き渡っている。
それでも、誰も口には出さない。
彼女の名を出すことは、触れてはいけない傷口に指を伸ばす行為に等しいから。
「——綾香さん」
声に顔を上げると、同僚の女性が心配そうに覗き込んでいた。
「最近、顔色よくないよ。ちゃんと食べてる?」
「大丈夫、ありがとう。少し、寝不足なだけ」
笑ってみせる。
上手く笑えたのかどうか、自分でもよく分からない。
同僚はそれ以上踏み込まず、軽く会釈して席を離れた。
残された沈黙の中で、綾香はそっと胸元を押さえる。
(あの夜から……何も、前に進めていない)
彼の横顔。
沈黙の奥に宿った痛み。
そして——“彼が決して言わなかった言葉”。
その日の退社後。
夕暮れに染まる歩道を一人歩いていると、背後から足音が近づいてきた。
「綾香さん。少し、時間をもらえますか」
振り返ると、黒瀬だった。
九条グループの法務担当。冷静で、常に距離を保つ男。
「……ええ」
二人は近くのカフェに入り、窓際の席に向かい合って座った。
黒瀬は無駄な前置きを挟まず、淡々と切り出す。
「例の件、処理は最終段階です。あなたが証言を出す必要はなくなりました。——危険は、もうありません」
胸の奥がほっと緩む。
しかし、その安堵はすぐに別の痛みに変わる。
「……そうですか。よかった」
「ただし」
黒瀬の視線が、真っ直ぐに彼女を射抜いた。
「九条専務は、今回の一件について公に説明するつもりはありません。
“沈黙のまま”終わらせるお考えです」
「……莉子さんにも、ですか」
「はい」
その瞬間、呼吸が少しだけ詰まった。
やはり——彼は最後まで、自分を犠牲にするつもりなのだ。
「あなたは、彼にとって“守るべき当事者”でした。
しかし今後は——関係性を整理する必要があります」
黒瀬の言葉は、優しさを装った現実。
綾香は小さくうなずいた。
「……分かっています。私は……ここで終わらせます」
それは、どこか遠い場所から響く自分の声のようだった。
カフェを出て、人気の少ない小さな並木道を歩く。
夕陽が落ち、街の灯りがひとつ、またひとつと灯り始めた。
そのとき——
「綾香」
背後から呼ばれた名に、心臓が跳ねた。
振り返ると、そこには蓮がいた。
スーツの襟に微かな疲労を滲ませながらも、その瞳はまっすぐに彼女を見つめている。
「どうして、ここに……」
「黒瀬から聞いた。話が済んだなら、送る」
いつものように抑制された声。
でも、ほんの僅かに滲む迷いを、彼女は見逃さなかった。
二人並んで歩き出す。
舗道に落ちた街灯の光が、長い影を二つ伸ばしていく。
言葉を探し、何度も飲み込み、ようやく口を開いた。
「九条さん……一つだけ、聞いてもいいですか」
「……ああ」
足を止めず、彼は短く応じる。
「もし、あなたが誰のことも守らなくてよくて、
何も失わなくてよかった世界だったら——」
胸の奥に溜めていた言葉が、どうしても抑えきれなくなる。
「その世界で、あなたは……私を、選びましたか」
沈黙。
夜風が二人の間を通り抜けていく。
蓮はしばらく俯き、それからゆっくりと首を横に振った。
「……それは、答えてはいけない質問だ」
その言葉は、優しくて、残酷だった。
喉がきゅっと締め付けられる。
涙は落とさない——ここでは、絶対に。
「……そうですよね。分かっていました」
微笑む。
最後の強がりを、丁寧に形にして。
「でも——それでも、好きでした。
あなたは、私の人生を救ってくれた人だから」
蓮は何も言わない。
ただ、静かに視線を落とし、彼女の言葉を受け止めていた。
車の前で足を止め、綾香は深く一礼する。
「これで終わりにします。
あなたの側には、私ではない方が似合うから」
莉子の横に立つ、彼の姿を思い浮かべる。
その未来が、胸を裂くほどに美しかった。
「……ありがとう」
ようやく絞り出された彼の声は、震えていた。
それが、別れの合図になった。
ドアが閉まり、車が静かに走り出す。
街の灯りが滲み、視界が揺れる。
(さよなら、恋)
心の奥でだけ、そっと呟く。
その痛みは、まだ熱を帯びている——
けれど、その痛みごと抱えながら、綾香は前へ歩き出した。
――終わりを選ぶ恋もまた、確かに“愛”だった。

