『嘘の浮気、真実の執着』 ――婚約破棄から始まる幼馴染たちの逆転愛

 会議室の窓から射し込む昼の光が、書類の白を強く照らしていた。
 篠宮グループ企画本部。
 重ねられた資料の端を揃える音だけが、静かな部屋の空気をかすかに震わせる。

「それでは、今回の新規提携案について——」

 部下の声が続く。
 莉子は頷きながら資料に視線を落としていた。
 だが、ページの文字は、どこか遠くぼやけて見えた。

 視線を少し横へ流す。
 長卓の隣席——本来、蓮が座るはずだった場所は、静かに空白を抱えていた。

(もう、ここにはいない)

 分かっているのに、視界がそこを探してしまう。

「……篠宮本部長?」

 呼びかけられ、莉子は小さく瞬きをした。

「あ、ごめんなさい。続けて」

 穏やかな笑みを浮かべる。
 崩れない、完璧な仕事用の表情。

 会議は予定どおり進み、無事に締めくくられた。

「お疲れ様です、本部長」

 部下の一人が声を掛ける。
 莉子は頷き、席を立った。

「ありがとう。午後の資料は私のところへ回しておいて」

「承知しました」

 言葉を交わしながらドアへ向かう途中、廊下の奥から数人の社員の気配が近づいてきた。

「——九条さん、昨日は本社で会議だったらしいよ」

「え、来てたの?」

「うん、でもすぐ帰ったって。前より雰囲気、変わったよね……」

 声が途切れる。
 彼らも莉子の存在に気づいたのだろう。

 会釈と共に会話は霧散し、すれ違う際の空気だけが妙に重く揺れた。

 莉子は微笑み、何事もなかったかのように歩き続ける。

(来ていたのね……同じビルに)

 ただ、それだけで胸の奥がじわりと熱を帯びる。

 

 昼休み、屋上庭園。
 ビルの喧騒から切り離された空間に、冬の陽射しが淡く降りていた。

 ベンチに腰を下ろし、紙コップの温かな紅茶を両手で包む。

 吹き抜ける風が、髪の先を優しく揺らした。

(——綾香さん)

 昨日のラウンジでの会話が、胸の奥で何度も反響する。

「それでも……蓮さんは、私を——」

 その続きを、彼女は口にしなかった。
 けれど、言葉の輪郭だけが、鮮やかなまま残っている。

「終わったはずよ、私たちは」

 小さく呟き、空へ吐き出す。

「終わった」と言葉にするたび、
 心のどこかが痛んで、まだ終われないことを思い知らされる。

 

 足音が近づき、影が落ちた。

「ここにいたんですね、篠宮さん」

 声の主は、営業統括の佐伯だった。
 穏やかな笑みを浮かべ、隣へ腰を下ろす。

「無理はしていませんか」

「してないわ。仕事に戻るのが、いちばん楽だから」

「……それでも、人は心をしまい込みすぎると壊れます」

 佐伯の声音は静かだった。

「もし辛ければ、誰かに預けてください。
 “強さ”は、ひとりで耐えることだけではありませんから」

 莉子は一瞬だけ視線を逸らし、微笑んだ。

「ありがとうございます。でも、大丈夫です」

「そう言うと思いました」

 佐伯は苦笑し、立ち上がる。

「会議、もう一件入っていますよ。付き添います」

「ええ、行きましょう」

 紅茶を飲み干し、立ち上がる。
 風が、どこか遠くから名を呼ぶように頬を掠めた。

(蓮——)

 振り返らない。
 振り返れば、きっと歩けなくなるから。

 

 午後三時。
 別館へ向かう渡り廊下のガラス越しに、車寄せの景色が見えた。

 黒いセダンのドアが開く。
 スーツ姿の男性が降り立つ——その横顔を見た瞬間、胸が凍りつく。

「……蓮」

 声にならない声が喉の奥で弾む。

 彼は誰とも目を合わせることなく、警備担当らしき男と短く言葉を交わし、ビルの奥へ姿を消した。

 ただ、その一瞬。
 光の中で、彼の指先が空を掴むように震えたのが見えた。

(会いたい——)

 思わず踏み出しかけた足を、強く止める。

(もう、私は“婚約者”じゃない)

 視界が揺れる。
 渡り廊下のガラスに映った自分の顔が、ひどく遠くに感じられた。

 胸の奥で、言葉にならない想いが静かに軋む。

——終わったはずの恋は、まだどこにも行けずにいた。

 

 その夜。
 机上に積まれた書類に視線を落としながら、莉子は深く息をついた。

 スマートフォンの画面が、無音のまま輝いている。

 誰からも鳴らない。
 それが正しい——それでも、苦しかった。

(いつか、本当に終わらせられる日がくるのかしら)

 窓の外の街灯が淡く滲む。

 その光の向こうで、
 まだ知らない真実と、まだ終わらない想いが静かに重なろうとしていた。

――切り離されたはずの二人の軌跡は、
再び同じ場所へ向かって、わずかに近づき始めていた。