夜の街は、雨上がりの asphalt を冷たく光らせていた。
九条グループの専用車が静かに停まり、後部座席のドアが開く。
蓮は無言のまま外に出た。湿った空気が肺の奥に沈んでいく。
——婚約は、終わった。
その事実だけが、鈍い音を伴って胸の奥に居座っている。
(言えなかった。……いや、言わなかった)
ビルの裏手、照明の少ない非常階段へ続く通用口。
その影の中に、ひとりの女性が身を潜めていた。
「九条さん……」
綾香が、怯えを帯びた声で呼びかける。
薄いコートの下で肩が震えているのが、闇越しにもわかる。
「来てくれたんですね……もう、誰も信じてくれなくて」
「ここは長くいられない。移動する」
蓮は短く告げ、彼女の肘に手を添えた。
支えるためだけの接触——しかし第三者には、きっと親密に見えるだろう。
それでも構わない、と彼は思う。
(莉子にだけは、近づけたくない)
この件に、彼女を巻き込むわけにはいかなかった。
指定されたホテルの最上階、プライベートラウンジ。
外の灯りが遠く霞む夜景を背に、二人だけの空間が広がる。
扉が閉まる音と同時に、綾香の膝が崩れた。
「ごめんなさい……私、もう限界で……!」
押し殺した嗚咽。
蓮はテーブル越しに彼女へ視線を落とす。
「例の男から、また連絡が?」
「はい。——私が証言しなければ、今度は“篠宮家に手を出す”って……」
喉の奥が静かに冷える。
やはり、そこに触れてきたか。
「だからあなたは、あの記事に……私との写真に、黙って……」
綾香は顔を上げ、縋るような瞳で続けた。
「私、知ってました。
本当に愛しているのは、あの人なんでしょう? 莉子さんなんでしょう?」
蓮は答えない。
答えた瞬間、彼女の選択肢を奪ってしまうから。
沈黙は、刃にも盾にもなる。
「それでもいいんです」
綾香は、震えた声で言う。
「あなたが守ろうとしているものを、壊したくない。
だから、全部……私が悪役になります。
あの写真、誤解されたままでいい。婚約が壊れても、構いません」
その言葉に、一瞬だけ胸が軋んだ。
(それは違う。
——壊したのは、俺の沈黙だ)
しかし口には出さない。
彼は視線を落とし、テーブルの端を指先で静かに叩く。
「お前のことは、俺が処理する。
あの男の動きは、既に抑えてある。証拠も……揃った」
「じゃあ、もう終わるんですね?」
「ああ。ただし——」
言い淀み、薄く息を吐いた。
「莉子には、まだ言えない」
綾香の瞳に、微かな痛みが走る。
「彼女は、あなたを誤解したまま……?」
「巻き込みたくない」
短くそれだけを告げる。
正しさか、逃避か。
自分でも、もう判別がつかない。
ラウンジを出る前、綾香が突然、彼の袖を掴んだ。
「……九条さん」
彼女の声は、壊れそうに細い。
「もし、あの人と婚約していなくても……私は、きっとあなたを好きになっていました」
その言葉は、静かに胸へ落ちていく。
蓮はゆっくりと彼女の手を外し、首を横に振った。
「——感情は、交渉の邪魔になる」
それが、彼の精一杯の優しさだった。
綾香は、かすかに笑った。
「それでも好きです。
だから、最後にひとつだけお願いがあります」
「なんだ」
彼女は目を閉じ、静かに言った。
「どうか……莉子さんを、手放さないでください。
たとえ今は、何も言えなくても」
蓮は答えなかった。
しかし、握りしめた拳の奥で、ひとつだけ確かな痛みが脈打っていた。
ホテルを出たあと、車に乗り込む。
窓の外で、ネオンの光がぼやけて流れていく。
指先が無意識に、薬指の指輪へ伸び——
そこに何もないことを、改めて思い知らされる。
(守るために、失った)
それが本当に正しかったのか、誰も教えてはくれない。
ただ、あの沈黙の瞬間に見た——
莉子の揺らがない微笑みだけが、胸の奥で痛み続けていた。
――沈黙という檻に、自分を閉じ込めたのは他ならぬ自分だった。
九条グループの専用車が静かに停まり、後部座席のドアが開く。
蓮は無言のまま外に出た。湿った空気が肺の奥に沈んでいく。
——婚約は、終わった。
その事実だけが、鈍い音を伴って胸の奥に居座っている。
(言えなかった。……いや、言わなかった)
ビルの裏手、照明の少ない非常階段へ続く通用口。
その影の中に、ひとりの女性が身を潜めていた。
「九条さん……」
綾香が、怯えを帯びた声で呼びかける。
薄いコートの下で肩が震えているのが、闇越しにもわかる。
「来てくれたんですね……もう、誰も信じてくれなくて」
「ここは長くいられない。移動する」
蓮は短く告げ、彼女の肘に手を添えた。
支えるためだけの接触——しかし第三者には、きっと親密に見えるだろう。
それでも構わない、と彼は思う。
(莉子にだけは、近づけたくない)
この件に、彼女を巻き込むわけにはいかなかった。
指定されたホテルの最上階、プライベートラウンジ。
外の灯りが遠く霞む夜景を背に、二人だけの空間が広がる。
扉が閉まる音と同時に、綾香の膝が崩れた。
「ごめんなさい……私、もう限界で……!」
押し殺した嗚咽。
蓮はテーブル越しに彼女へ視線を落とす。
「例の男から、また連絡が?」
「はい。——私が証言しなければ、今度は“篠宮家に手を出す”って……」
喉の奥が静かに冷える。
やはり、そこに触れてきたか。
「だからあなたは、あの記事に……私との写真に、黙って……」
綾香は顔を上げ、縋るような瞳で続けた。
「私、知ってました。
本当に愛しているのは、あの人なんでしょう? 莉子さんなんでしょう?」
蓮は答えない。
答えた瞬間、彼女の選択肢を奪ってしまうから。
沈黙は、刃にも盾にもなる。
「それでもいいんです」
綾香は、震えた声で言う。
「あなたが守ろうとしているものを、壊したくない。
だから、全部……私が悪役になります。
あの写真、誤解されたままでいい。婚約が壊れても、構いません」
その言葉に、一瞬だけ胸が軋んだ。
(それは違う。
——壊したのは、俺の沈黙だ)
しかし口には出さない。
彼は視線を落とし、テーブルの端を指先で静かに叩く。
「お前のことは、俺が処理する。
あの男の動きは、既に抑えてある。証拠も……揃った」
「じゃあ、もう終わるんですね?」
「ああ。ただし——」
言い淀み、薄く息を吐いた。
「莉子には、まだ言えない」
綾香の瞳に、微かな痛みが走る。
「彼女は、あなたを誤解したまま……?」
「巻き込みたくない」
短くそれだけを告げる。
正しさか、逃避か。
自分でも、もう判別がつかない。
ラウンジを出る前、綾香が突然、彼の袖を掴んだ。
「……九条さん」
彼女の声は、壊れそうに細い。
「もし、あの人と婚約していなくても……私は、きっとあなたを好きになっていました」
その言葉は、静かに胸へ落ちていく。
蓮はゆっくりと彼女の手を外し、首を横に振った。
「——感情は、交渉の邪魔になる」
それが、彼の精一杯の優しさだった。
綾香は、かすかに笑った。
「それでも好きです。
だから、最後にひとつだけお願いがあります」
「なんだ」
彼女は目を閉じ、静かに言った。
「どうか……莉子さんを、手放さないでください。
たとえ今は、何も言えなくても」
蓮は答えなかった。
しかし、握りしめた拳の奥で、ひとつだけ確かな痛みが脈打っていた。
ホテルを出たあと、車に乗り込む。
窓の外で、ネオンの光がぼやけて流れていく。
指先が無意識に、薬指の指輪へ伸び——
そこに何もないことを、改めて思い知らされる。
(守るために、失った)
それが本当に正しかったのか、誰も教えてはくれない。
ただ、あの沈黙の瞬間に見た——
莉子の揺らがない微笑みだけが、胸の奥で痛み続けていた。
――沈黙という檻に、自分を閉じ込めたのは他ならぬ自分だった。

