夜明け前の空は、まだ色を決めきれずにいた。
淡い群青と白が溶け合い、街の輪郭だけがかろうじて浮かび上がっている。
ホテルの一室。
莉子は、ほとんど眠れぬまま、薄闇の中で目を開けていた。
枕元の携帯電話には、通知の光ひとつ灯っていない。
——例外なく、いつも彼から届いていた“おはよう”の短いメッセージも。
胸の奥に、静かな空洞が広がる。
起き上がり、カーテンを少しだけ開くと、朝焼けの光が柔らかく差し込んだ。
冷えた床に裸足を下ろした瞬間、身体の奥に遅れて痛みが走る。
(もう、戻れないのね)
呟きは声にならず、ただ息の中で溶けた。
洗面台に立ち、鏡を見る。
薄く化粧を施した顔は、ひどく落ち着いて見える——
けれど、目の奥の疲れた色だけが、ごまかしようもなかった。
「……大丈夫。私は平気」
自分自身に言い聞かせるように微笑み、化粧を整える。
そうしなければ、心が崩れてしまう気がした。
午前十時。
実家である篠宮家・応接サロン。
深いブルーのカウチソファに腰を下ろすと、父・英臣が新聞を置き、眼鏡の奥から莉子を見つめた。
「……手続きは、終わったのか」
「ええ。昨夜、署名しました」
莉子は姿勢を正し、静かにうなずく。
声はどこまでも穏やかで、感情の影を一切見せない。
「九条側からの申し入れは?」
「特に。——彼は、多くを語りませんでした」
ほんの一瞬、喉の奥が詰まりそうになる。
莉子は微かに視線を落とし、その揺らぎをごまかす。
母・沙織が心配そうに身を乗り出した。
「莉子、本当にいいの? あの子とは幼い頃から……」
「お母さん」
静かに制する。
笑顔は変わらないまま、しかしその線は薄く硬い。
「終わった話よ。
私たちは婚約者ではなくなった。それだけのこと」
部屋の空気がひどく静まり返る。
そのとき、扉がノックされた。
「失礼いたします。——九条グループより、書状が届いております」
執事が差し出した封筒。
上質な紙に、見慣れた企業ロゴ。
胸の奥で鼓動が跳ねる。
(……蓮、から?)
けれど、封を切る指先は迷わなかった。
中には、丁寧に整理された数行の文章。
《本件に関し、今後いかなる干渉も行わない。
篠宮家の名誉は、九条側において保証する》
形式的で、完璧で、どこまでも遠い言葉。
そこに、彼の個人的な一文は——どこにもなかった。
「そう。了解しましたと、お返事を」
莉子は微笑み、封筒をテーブルに置いた。
指先が、わずかに震える。
午後。
グループ本社ビルのロビー。
外の光が大理石の床に反射し、広い空間を白く満たしている。
社員たちの視線が、ほんの僅かに莉子へと向けられ、すぐに逸れていく。
噂は、もう広がっているのだろう。
「莉子様、お加減は……」
「平気よ。仕事に戻ります」
短く答えて歩き出したそのとき——
「失礼、篠宮さん」
淡いベージュのワンピースを纏った若い女性が、ロビーの柱の影から現れた。
端正で整った顔立ち。伏せた睫毛の奥に、揺れる影。
彼女の名を、莉子は知っている。
「……綾香さん、ね」
綾香は唇を噛み、深く頭を下げた。
「突然、お声をかけてしまって……申し訳ありません。
どうしても、お話ししたいことがあって」
ロビーの空気が、わずかに凍る。
莉子は一瞬だけ目を閉じ、静かにうなずいた。
「場所を移しましょう。ここでは話しにくいでしょうから」
カフェラウンジ。
窓際の席に向かい合って座ると、カップの縁から立ち昇る湯気が、二人の間でか細く揺れた。
綾香が両手でカップを包み込み、震える声で切り出す。
「婚約のこと……本当に、私のせいで」
「違うわ」
莉子は遮るように、しかし柔らかな声で言った。
「原因は、彼の沈黙。
あなたの存在が引き金だったとしても、決めたのは私」
言葉は静かで、丁寧で——
けれど、そこには触れれば崩れてしまいそうな脆さが潜んでいた。
綾香の瞳に、罪悪感と、別の感情が滲む。
「それでも……蓮さんは、私を——」
言いかけた瞬間、莉子の胸に冷たい痛みが走る。
それでも、微笑みを崩さない。
「彼の気持ちについて、今は知りたくありません。
もう“婚約者”ではないから」
ラウンジの外で、午後の日差しがゆっくりと傾いていく。
光と影の境界線が、床を静かに横切った。
その影の向こうに、
——莉子の知らない真実と、まだ語られない想いが、確かに息づいていた。
――二人の距離は離れたはずなのに、
物語だけが、さらに深く絡み始めていた。
淡い群青と白が溶け合い、街の輪郭だけがかろうじて浮かび上がっている。
ホテルの一室。
莉子は、ほとんど眠れぬまま、薄闇の中で目を開けていた。
枕元の携帯電話には、通知の光ひとつ灯っていない。
——例外なく、いつも彼から届いていた“おはよう”の短いメッセージも。
胸の奥に、静かな空洞が広がる。
起き上がり、カーテンを少しだけ開くと、朝焼けの光が柔らかく差し込んだ。
冷えた床に裸足を下ろした瞬間、身体の奥に遅れて痛みが走る。
(もう、戻れないのね)
呟きは声にならず、ただ息の中で溶けた。
洗面台に立ち、鏡を見る。
薄く化粧を施した顔は、ひどく落ち着いて見える——
けれど、目の奥の疲れた色だけが、ごまかしようもなかった。
「……大丈夫。私は平気」
自分自身に言い聞かせるように微笑み、化粧を整える。
そうしなければ、心が崩れてしまう気がした。
午前十時。
実家である篠宮家・応接サロン。
深いブルーのカウチソファに腰を下ろすと、父・英臣が新聞を置き、眼鏡の奥から莉子を見つめた。
「……手続きは、終わったのか」
「ええ。昨夜、署名しました」
莉子は姿勢を正し、静かにうなずく。
声はどこまでも穏やかで、感情の影を一切見せない。
「九条側からの申し入れは?」
「特に。——彼は、多くを語りませんでした」
ほんの一瞬、喉の奥が詰まりそうになる。
莉子は微かに視線を落とし、その揺らぎをごまかす。
母・沙織が心配そうに身を乗り出した。
「莉子、本当にいいの? あの子とは幼い頃から……」
「お母さん」
静かに制する。
笑顔は変わらないまま、しかしその線は薄く硬い。
「終わった話よ。
私たちは婚約者ではなくなった。それだけのこと」
部屋の空気がひどく静まり返る。
そのとき、扉がノックされた。
「失礼いたします。——九条グループより、書状が届いております」
執事が差し出した封筒。
上質な紙に、見慣れた企業ロゴ。
胸の奥で鼓動が跳ねる。
(……蓮、から?)
けれど、封を切る指先は迷わなかった。
中には、丁寧に整理された数行の文章。
《本件に関し、今後いかなる干渉も行わない。
篠宮家の名誉は、九条側において保証する》
形式的で、完璧で、どこまでも遠い言葉。
そこに、彼の個人的な一文は——どこにもなかった。
「そう。了解しましたと、お返事を」
莉子は微笑み、封筒をテーブルに置いた。
指先が、わずかに震える。
午後。
グループ本社ビルのロビー。
外の光が大理石の床に反射し、広い空間を白く満たしている。
社員たちの視線が、ほんの僅かに莉子へと向けられ、すぐに逸れていく。
噂は、もう広がっているのだろう。
「莉子様、お加減は……」
「平気よ。仕事に戻ります」
短く答えて歩き出したそのとき——
「失礼、篠宮さん」
淡いベージュのワンピースを纏った若い女性が、ロビーの柱の影から現れた。
端正で整った顔立ち。伏せた睫毛の奥に、揺れる影。
彼女の名を、莉子は知っている。
「……綾香さん、ね」
綾香は唇を噛み、深く頭を下げた。
「突然、お声をかけてしまって……申し訳ありません。
どうしても、お話ししたいことがあって」
ロビーの空気が、わずかに凍る。
莉子は一瞬だけ目を閉じ、静かにうなずいた。
「場所を移しましょう。ここでは話しにくいでしょうから」
カフェラウンジ。
窓際の席に向かい合って座ると、カップの縁から立ち昇る湯気が、二人の間でか細く揺れた。
綾香が両手でカップを包み込み、震える声で切り出す。
「婚約のこと……本当に、私のせいで」
「違うわ」
莉子は遮るように、しかし柔らかな声で言った。
「原因は、彼の沈黙。
あなたの存在が引き金だったとしても、決めたのは私」
言葉は静かで、丁寧で——
けれど、そこには触れれば崩れてしまいそうな脆さが潜んでいた。
綾香の瞳に、罪悪感と、別の感情が滲む。
「それでも……蓮さんは、私を——」
言いかけた瞬間、莉子の胸に冷たい痛みが走る。
それでも、微笑みを崩さない。
「彼の気持ちについて、今は知りたくありません。
もう“婚約者”ではないから」
ラウンジの外で、午後の日差しがゆっくりと傾いていく。
光と影の境界線が、床を静かに横切った。
その影の向こうに、
——莉子の知らない真実と、まだ語られない想いが、確かに息づいていた。
――二人の距離は離れたはずなのに、
物語だけが、さらに深く絡み始めていた。

